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「朔良さんは、父さんのことが嫌いだったの?」

 穏やかに言ったつもりの僕の言葉に、朔良さんはハッと目を見開いた。

 いや、と朔良さんは首を横に振る。いや、いや、そんなわけはない、と繰り返す。

「兄さんの事はなんだかんだで好きだった。ずっと側にいたかったよ」

 朔良さんは唇の端を歪めて自嘲的に笑った。

「あの人を嫌いな奴なんていなかったんじゃないかな。それくらい綺麗で魅力的な人だった。けど俺は、好きなのと同じくらい憎かった。あの人がいなければ、どんなに楽だったかしれない。母さんの事なんて放っておけばよかったんだよ。自由にやってる人だったけど、別に母さんは俺たちを見捨てていたわけじゃない。それなのに兄さんはいちいち傷付いて、俺たちは捨てられたって泣き言を吐いて、自分を傷付けて、汚して、バカみたいに一人で勝手に転がり落ちて行った」

 朔良さんは疲れて擦り切れて見えた。

「兄さんが苦しまないでくれれば、俺も苦しまないで済んだのに……」

「朔良さんは、父さんが蛍さんと付き合ってた頃を知ってる?」

 顔を上げ、朔良さんは苛められたように僕を見る。もういい加減にしてくれよ、とその目は訴えている。

「ああ、知ってるよ。でも、高校生の頃のほんの一時、一か月にも満たない短い期間だった。だいたい、兄さんがどれだけの女と付き合ったと思ってるんだ。一晩限りの相手も含めたら数えきれないよ」

 何かを振り払うように朔良さんは頭を振る。

「義姉さんの献身に比べたら、蛍さんがした事なんて無かったようなものだよ。あの人が兄さんの何だっていうんだ。ただの知り合いに決まってる……」

 よく聞け、小日向アリス以外に価値のある女はいない。水森蛍なんて無価値だ――朔良さんは、言外にそう言っているようだった。

 三度、乱暴にソファに身を沈め、朔良さんは両手で顔を覆ってしまった。

「ああ、もう、疲れたっ。こんな話やめようぜ」

 その仕草を見て、不意に、この人にも子供時代はあったのだと思った。

 必ずしも不幸ではなかったと朔良さんは言うだろうが、なんの屈託もなく幸せだったと言える環境ではなかったはずだ。祖母は家庭よりも福祉活動を優先する人だったから。もちろん、困窮している人々の為に尽くすのは尊い行いだ。確実に救われる人がいるし、幼い頃から朔良さんは祖母の活動の意味を理解していたようだし、応援、とまでいかなくとも反対はしていなかったはずだ。それでも、小さい頃に母親に置いて行かれて、しかも僕の場合と違って『生きているのに帰って来てくれない』という事は、幾らかは寂しかったのではないだろうか。朔良さんの人格のアンバランスさは、どこかで心の時間が止まってしまったせいにも思える。

 父さんは、どうして、僕たちを残して消えてしまったんだろう。

 それに、母さん。どうして自殺なんてしてしまったんだ。父さんがいなくなったとしても、母さんさえ生きていてくれれば、こんなに辛くなかったのに。

 蛍さんは……分からない。どんな人なのか。昼間会った時にはただの善い人だったように思えたのに、嘘をついていたと分かって、また濃い霧の向こうに行ってしまった。どうして英語は苦手だなんて嘘をついたんだろう。どうして父さんの歌を隠し持っていたんだろう。まるで後ろめたい事がある人のように振る舞われて、僕は、元の疑惑に立ち戻ってしまった。確かに、蛍さんがあの日、深夜十二時以前に、どこかの海辺で父さんを殺すことは不可能だった。動機も薄い。

 だけど、僕は蛍さんをこんなにも強く疑ってしまっている。

 理性が否定しても、感情が喚き立てる。

 水森蛍が父を殺した。父を肉にして僕に喰わせた――と。

 僕は父さんの肉を食べていないと確信したい。

「ごめんね。朔良さんを苦しめたいわけじゃないんだ」

「じゃあ、もうやめてくれよ」

 朔良さんは拗ねたように言う。

「それは出来ない。僕はまだ納得してない」

「もう知らん。勝手にしろ」

 ぷい、とそっぽを向いてしまった。これは完全にへそを曲げた時の態度だ。しかたないな、と肚を括る。朔良さんの協力は期待できない。

 膝に軽く手を添えられて隣を向くと、闇を切り裂くサーチライトのように月ヶ瀬さんの瞳が強い光を放っていた。

「君はどうしたら気が済む?」

「証拠が欲しいんだ。父さんは殺されていないって言い切れる確かな証拠が」

「あるいは、父上が殺されたという証拠が、か?」

「そうだよ、悪いか?」

「悪いわけないだろう。それどころか、望むところだ」

 ガシッ、と戦友のように腕を組む。月ヶ瀬さんがいれば大丈夫だ。

「バカバカしい。もう俺は付き合えないぞ。何をするにしても二人で勝手にやれ。俺は風呂に入って寝る」

 バスルームの扉を閉める前に、朔良さんは振り返って甘えた声を出した。

「俺は本当に知らないからな。明日はドライバーもやらないぞ。おまえら置いて、フロントのお姉さんと遊びに行っちゃうからな。本当にそれでいいんだな?」

 いいよ、と答えたら、朔良さんは心底情けない顔をした。

「ごめんね、朔良さん」

 でも、どうしても、僕は真相を知らなくちゃならないんだ。


   †††


 朔良さんは本当にシャワーを浴びて寝てしまった。

 僕と月ヶ瀬さんは、朔良さんがシャワーを浴びている間に、またテラスのベンチに居場所を移した。朔良さんの動向を気にしたくなかったからだ。

「二人でやるしかないな」

 月ヶ瀬さんに力強く言われ、頷く。

「うん、二人でやろう」

 パッ、とタブレットPCのディスプレイが明るくなり、少し気分も明るくなった。

 月ヶ瀬さんが細い指で液晶画面をタップすると、事件の概要を箇条書きしたメモが開かれた。

「気になっていた事があるんだ。まずはそれを確認させて欲しい」

「何?」

「水森蛍の家には、駆除した鹿や猪の肉を保存しておく為の、肉専用の冷凍庫があったのではないか?」

「うん、ガレージにあったよ。それがどうしたの?」

「そうか。君にとっては当たり前の事だったのだな。この土地で育ったのだから」

「え? どういう事?」

「一般家庭の冷凍庫は狭いのさ。だから私は先入観で、大量の肉など保存しておけるはずがない、と片付けてしまった。それゆえ、君が『父上の肉を、週末の度に、凝った料理して食べさせられたかもしれない』などと考えてしまった事には、あまりにも根拠が無い、と簡単に思い込んだ――」

 ひゅっ、とあの可能性に思い及んで背筋が冷え込んだ。

「あっ、早トチリするなよ。そっちの話じゃない。遺体の処理法を考えていただけだ。それに、状況証拠から推察すると、祐樹さんを殺害したのは、やっぱり君の母上だ。異変が起きたと推測される時刻が動いていない。依然として犯行推定時刻は、深夜十二時以前のままなのだよ」

「でも、母さんは『パパは殺された』って言った」

「うん、だからさ、それはもしかしたら『パパは私に殺された』ってことじゃないか?」

「そんな言い方、普通はしないよ。もし万が一そんな状況になったとしたら、大多数の人は『私が殺した』って言うんじゃないかな」

「君はそう言うが、『私に殺された』でも、日本語として別におかしくはないぞ」

 月ヶ瀬さんは僕の疑念を打ち消すように早口で言い募った。

「もし母上が父上を殺したとしても、それはどこか海辺での犯行だ。ここから、もっとも近い海へのルートでも三時間はかかる。一時間もすると死後硬直が始まる。すると血抜きが困難になって、肉に血や内臓の臭い――つまり、強烈なアンモニア臭が残って食えたもんじゃなくなる。蛍さんの料理は美味しかったと君は言った」

 ぺちん、と軽く頬を叩かれた。しっかりしろ、という意味だろう。

「血抜きが間に合わないということは、致命的なのだ。だから、君は父上の肉なんか食べていない」

 そうなのかな、と気持ちがぐらぐらする。僕は父さんの肉を食べてしまったような気がして仕方がないのだ。

 黙り込んだ僕を敢えて無視して、話を戻すが、と月ヶ瀬さんは空気を変えた。

「最初に君から一連の話を聞いた時、私は、『水森蛍は、君の父上の失踪および母上の自殺とは無関係の、他人の子供を五ヶ月も預かってくれた、ただの善人だ』――と言った」

 うん、と僕は頷く。

「だが、しかし……」

 と月ヶ瀬さんは秀麗な顎に細い指を当てる。

「この土地へ実際に足を運んでみて、考えが変わった」

「どんなふうに?」

「私も、君の唱える『《6》水森蛍が殺した』に鞍替えしたくなって来たよ。水森蛍には、祐樹さんに執着していたという動機があった。そして、狩猟と獲物解体の技術があり、設備も、隠匿する場所もある。君が、父上の肉を食わされたと思い込んだのも不思議ではない。水森蛍には、それが出来る」

 吐き気と眩暈の発作が起きそうになり、必死で自分を立て直した。

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