_05
「朔良さんは、父さんのことが嫌いだったの?」
穏やかに言ったつもりの僕の言葉に、朔良さんはハッと目を見開いた。
いや、と朔良さんは首を横に振る。いや、いや、そんなわけはない、と繰り返す。
「兄さんの事はなんだかんだで好きだった。ずっと側にいたかったよ」
朔良さんは唇の端を歪めて自嘲的に笑った。
「あの人を嫌いな奴なんていなかったんじゃないかな。それくらい綺麗で魅力的な人だった。けど俺は、好きなのと同じくらい憎かった。あの人がいなければ、どんなに楽だったかしれない。母さんの事なんて放っておけばよかったんだよ。自由にやってる人だったけど、別に母さんは俺たちを見捨てていたわけじゃない。それなのに兄さんはいちいち傷付いて、俺たちは捨てられたって泣き言を吐いて、自分を傷付けて、汚して、バカみたいに一人で勝手に転がり落ちて行った」
朔良さんは疲れて擦り切れて見えた。
「兄さんが苦しまないでくれれば、俺も苦しまないで済んだのに……」
「朔良さんは、父さんが蛍さんと付き合ってた頃を知ってる?」
顔を上げ、朔良さんは苛められたように僕を見る。もういい加減にしてくれよ、とその目は訴えている。
「ああ、知ってるよ。でも、高校生の頃のほんの一時、一か月にも満たない短い期間だった。だいたい、兄さんがどれだけの女と付き合ったと思ってるんだ。一晩限りの相手も含めたら数えきれないよ」
何かを振り払うように朔良さんは頭を振る。
「義姉さんの献身に比べたら、蛍さんがした事なんて無かったようなものだよ。あの人が兄さんの何だっていうんだ。ただの知り合いに決まってる……」
よく聞け、小日向アリス以外に価値のある女はいない。水森蛍なんて無価値だ――朔良さんは、言外にそう言っているようだった。
三度、乱暴にソファに身を沈め、朔良さんは両手で顔を覆ってしまった。
「ああ、もう、疲れたっ。こんな話やめようぜ」
その仕草を見て、不意に、この人にも子供時代はあったのだと思った。
必ずしも不幸ではなかったと朔良さんは言うだろうが、なんの屈託もなく幸せだったと言える環境ではなかったはずだ。祖母は家庭よりも福祉活動を優先する人だったから。もちろん、困窮している人々の為に尽くすのは尊い行いだ。確実に救われる人がいるし、幼い頃から朔良さんは祖母の活動の意味を理解していたようだし、応援、とまでいかなくとも反対はしていなかったはずだ。それでも、小さい頃に母親に置いて行かれて、しかも僕の場合と違って『生きているのに帰って来てくれない』という事は、幾らかは寂しかったのではないだろうか。朔良さんの人格のアンバランスさは、どこかで心の時間が止まってしまったせいにも思える。
父さんは、どうして、僕たちを残して消えてしまったんだろう。
それに、母さん。どうして自殺なんてしてしまったんだ。父さんがいなくなったとしても、母さんさえ生きていてくれれば、こんなに辛くなかったのに。
蛍さんは……分からない。どんな人なのか。昼間会った時にはただの善い人だったように思えたのに、嘘をついていたと分かって、また濃い霧の向こうに行ってしまった。どうして英語は苦手だなんて嘘をついたんだろう。どうして父さんの歌を隠し持っていたんだろう。まるで後ろめたい事がある人のように振る舞われて、僕は、元の疑惑に立ち戻ってしまった。確かに、蛍さんがあの日、深夜十二時以前に、どこかの海辺で父さんを殺すことは不可能だった。動機も薄い。
だけど、僕は蛍さんをこんなにも強く疑ってしまっている。
理性が否定しても、感情が喚き立てる。
水森蛍が父を殺した。父を肉にして僕に喰わせた――と。
僕は父さんの肉を食べていないと確信したい。
「ごめんね。朔良さんを苦しめたいわけじゃないんだ」
「じゃあ、もうやめてくれよ」
朔良さんは拗ねたように言う。
「それは出来ない。僕はまだ納得してない」
「もう知らん。勝手にしろ」
ぷい、とそっぽを向いてしまった。これは完全にへそを曲げた時の態度だ。しかたないな、と肚を括る。朔良さんの協力は期待できない。
膝に軽く手を添えられて隣を向くと、闇を切り裂くサーチライトのように月ヶ瀬さんの瞳が強い光を放っていた。
「君はどうしたら気が済む?」
「証拠が欲しいんだ。父さんは殺されていないって言い切れる確かな証拠が」
「あるいは、父上が殺されたという証拠が、か?」
「そうだよ、悪いか?」
「悪いわけないだろう。それどころか、望むところだ」
ガシッ、と戦友のように腕を組む。月ヶ瀬さんがいれば大丈夫だ。
「バカバカしい。もう俺は付き合えないぞ。何をするにしても二人で勝手にやれ。俺は風呂に入って寝る」
バスルームの扉を閉める前に、朔良さんは振り返って甘えた声を出した。
「俺は本当に知らないからな。明日はドライバーもやらないぞ。おまえら置いて、フロントのお姉さんと遊びに行っちゃうからな。本当にそれでいいんだな?」
いいよ、と答えたら、朔良さんは心底情けない顔をした。
「ごめんね、朔良さん」
でも、どうしても、僕は真相を知らなくちゃならないんだ。
†††
朔良さんは本当にシャワーを浴びて寝てしまった。
僕と月ヶ瀬さんは、朔良さんがシャワーを浴びている間に、またテラスのベンチに居場所を移した。朔良さんの動向を気にしたくなかったからだ。
「二人でやるしかないな」
月ヶ瀬さんに力強く言われ、頷く。
「うん、二人でやろう」
パッ、とタブレットPCのディスプレイが明るくなり、少し気分も明るくなった。
月ヶ瀬さんが細い指で液晶画面をタップすると、事件の概要を箇条書きしたメモが開かれた。
「気になっていた事があるんだ。まずはそれを確認させて欲しい」
「何?」
「水森蛍の家には、駆除した鹿や猪の肉を保存しておく為の、肉専用の冷凍庫があったのではないか?」
「うん、ガレージにあったよ。それがどうしたの?」
「そうか。君にとっては当たり前の事だったのだな。この土地で育ったのだから」
「え? どういう事?」
「一般家庭の冷凍庫は狭いのさ。だから私は先入観で、大量の肉など保存しておけるはずがない、と片付けてしまった。それゆえ、君が『父上の肉を、週末の度に、凝った料理して食べさせられたかもしれない』などと考えてしまった事には、あまりにも根拠が無い、と簡単に思い込んだ――」
ひゅっ、とあの可能性に思い及んで背筋が冷え込んだ。
「あっ、早トチリするなよ。そっちの話じゃない。遺体の処理法を考えていただけだ。それに、状況証拠から推察すると、祐樹さんを殺害したのは、やっぱり君の母上だ。異変が起きたと推測される時刻が動いていない。依然として犯行推定時刻は、深夜十二時以前のままなのだよ」
「でも、母さんは『パパは殺された』って言った」
「うん、だからさ、それはもしかしたら『パパは私に殺された』ってことじゃないか?」
「そんな言い方、普通はしないよ。もし万が一そんな状況になったとしたら、大多数の人は『私が殺した』って言うんじゃないかな」
「君はそう言うが、『私に殺された』でも、日本語として別におかしくはないぞ」
月ヶ瀬さんは僕の疑念を打ち消すように早口で言い募った。
「もし母上が父上を殺したとしても、それはどこか海辺での犯行だ。ここから、もっとも近い海へのルートでも三時間はかかる。一時間もすると死後硬直が始まる。すると血抜きが困難になって、肉に血や内臓の臭い――つまり、強烈なアンモニア臭が残って食えたもんじゃなくなる。蛍さんの料理は美味しかったと君は言った」
ぺちん、と軽く頬を叩かれた。しっかりしろ、という意味だろう。
「血抜きが間に合わないということは、致命的なのだ。だから、君は父上の肉なんか食べていない」
そうなのかな、と気持ちがぐらぐらする。僕は父さんの肉を食べてしまったような気がして仕方がないのだ。
黙り込んだ僕を敢えて無視して、話を戻すが、と月ヶ瀬さんは空気を変えた。
「最初に君から一連の話を聞いた時、私は、『水森蛍は、君の父上の失踪および母上の自殺とは無関係の、他人の子供を五ヶ月も預かってくれた、ただの善人だ』――と言った」
うん、と僕は頷く。
「だが、しかし……」
と月ヶ瀬さんは秀麗な顎に細い指を当てる。
「この土地へ実際に足を運んでみて、考えが変わった」
「どんなふうに?」
「私も、君の唱える『《6》水森蛍が殺した』に鞍替えしたくなって来たよ。水森蛍には、祐樹さんに執着していたという動機があった。そして、狩猟と獲物解体の技術があり、設備も、隠匿する場所もある。君が、父上の肉を食わされたと思い込んだのも不思議ではない。水森蛍には、それが出来る」
吐き気と眩暈の発作が起きそうになり、必死で自分を立て直した。
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