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 ホテルのロッジに戻り、僕たちは体を休めることにした。普段とは違う気を遣った事で疲労し、みんな、ぐったりしていた。

 部屋に入るなり、朔良さんはソファに身を投げ出して、うがあ、と呻いた。

「疲れた~~っ!」

 三十路になるとキツイわぁ、と低い声で言いながらテレビを付ける。ニュース番組を見ながら、朔良さんはうとうとし始めた。夕食は七時に頼んであるので、それまでそっとしておいてあげよう。運転ありがとう、と心の中で言った。

「少し、外で話さないか?」

 月ヶ瀬さんに手招きされてテラスに連れ出され、昨夜、二人で話し込んだベンチに、また同じように並んで腰掛けた。

 時刻は六時過ぎで、だいぶ陽が傾いてはいたけれど、夕焼けにはまだ早い。ベンチから眺める森は童話の世界のようでとても綺麗だった。

 気分は悪くない。

 熊井さんと蛍さんに会えて嬉しかったし、父さんは事故死で、僕は父さんの肉を食べていないと判明した。ただ、あの便箋の英文を書いたのは誰か、結局分からなかったし、少しだけモヤモヤしたものは残ってはいる。だけど、これで良いんだと思う。お疲れ様、と言いかけた時、不意に月ヶ瀬さんが口を開いた。

「綺麗にまとまった話だったな」

「え……? うん……」

 綺麗に纏まっていてはいけないのだろうか?

 月ヶ瀬さんの雰囲気はおかしかった。ピリピリしていると言うか、猫が毛を逆立てているような、張り詰めた何かがある。

 訊ねようとしたら、パッと秀麗な顔がこちらを向いた。

「それはともかく、蛇足だが、お婆様が父上の件をどう捉えているのか分かったぞ」

「え? どうやって?」

 簡単な推理さ、と月ヶ瀬さんは人差し指を立てる。

「水森蛍の家には君が仕込んだ梅酒があった。お婆様は頭の良い人だ。もしも、君の父上が殺害されたと考えていたら、私と同じ推理をするさ。当然、水森蛍が殺したとは思わないだろうがな。だが、もしも、自分の息子が殺害されていたとして、『遺体はどうなったのだろう?』と考えてしまったら、どうなると思う?」

「分からない」

 本当に分からなくてそう言った。

「お婆様なら辿り着くさ――『海で溺れたのに遺体が打ち上げられないのはどうしてだろう。もしかして、アリスさんがどこかへ隠したのかしら。一人で?』――とね」

 あ、と驚いた。確かに。真っ当に疑うルートであればそう考える。

 僕は一度もそんな考えに到らなかったけれど、それは、蛍さんを犯人だと思う事で本当に考えたくない事から目を逸らしていたからだ。自分を守る為の欺瞞に浸っていて、疑いが明後日のほうを向いていたし、思考に酷いバイアスとブレーキがかかっていた。

 僕は、母が父を殺したんじゃないか、とは一度も疑わなかった。

「思考というものは、一度疑いを抱いたならば簡単に転がる。バカバカしい、疑うまい、と思っていても勝手にあれこれ疑ってしまうものなのだ。当然、蛍さんが遺体の隠匿に手を貸したのではないか、というところに行き着くさ。思わず考えてしまった、とね。確認しようのない疑いはバカバカしいほど強く心に根を張る。君が『父上の肉を食わされたのではないか』という疑いに憑りつかれてしまっているのと同じようにね……」

 それを言われると反論できない。

「お婆様は、息子の遺体を隠匿したかもしれない、と一瞬でも疑ってしまった相手に、可愛い孫が作った梅酒を贈れる人物かな? 妄想かもしれないと打ち消しても、ほんの僅かでも疑いがあれば、無意識の抵抗があって、出来ない、と私は思う。だから、お婆様は『息子は事故死だ』と一度も疑わずに信じて来たと思う。つまり『君の母上が殺したとは、一度も考えなかった』ということだ。疑う余地なく」

「あ……!」

 その通りだ――と、乾いた砂に透明な水が浸み込むように、自然な納得が僕の中に浸み込んだ。月ヶ瀬さんの言う通りだと思う。祖母はそういう人だ。噛み合わない気がしていたけれど、初めて、祖母を理解出来た気がした。

 僕は自分の考えに捕らわれ過ぎていて、他の誰の気持ちも見えていなかったのだ。

 自分の殻に閉じこもり過ぎていた。

 祖母は、自殺する直前の母さんからも、蛍さんからも、朔良さんからも、父さんは事故死だという話を聞いていて、それでも、一年で失踪宣言の審判申立が出来る危難失踪ではなく、七年の猶予のある普通失踪扱いにした。死んだと諦めたくなかったのだ。

 息子を愛していたから――

 そう思ったら、祖母へのわだかまりがじわりと解けていくような気がした。

 みんな、父は事故死だと思っている。そう考えるのが当たり前だ。僕だけがおかしかったんだ。理屈に合わない妄想を抱いて、ずっとバカな事を信じて来てしまった。

「やっぱり、何もかも僕の思い込みだったんだね」

 複雑な思いで顔を上げたら、月ヶ瀬さんは初めて見る暗い表情をしていた。

「月ヶ瀬さん……?」

 どう表現したらいいんだろう。悪戯を見つかって叱られる前の子供のような……いや、違うな。もっと別の感じだ。開けてはいけないと言われていた扉を開けて、何か、言葉に出してはいけないモノを見てしまったような、罪悪感混じりの表情だ。

 すまない、と月ヶ瀬さんは軽く頭を下げた。

「蒼依くん、君をガッカリさせて申し訳ない……」

「そんなことはないよ。むしろスッキリして良かったよ。何もかも僕の勘違いだったって分かったんだから。父さんが亡くなった経緯もきちんと聞くことが出来たし、蛍さんの疑いも晴れたし、お婆ちゃんの気持ちも分かった。母さんの自殺の件は、やっぱりどうしようもなく悲しいけど、でも、少しだけ気は楽になった。父さんは事故死だよ」

「違うんだ――」

「え……?」

 月ヶ瀬さんは鋭く怒鳴って、それからまた、あの表情に戻る。

「私はね、もっともらしい理由を付けて、物事を勝手に納得するのが好きなんだ」

 例の決め台詞を言って、パンッ、と両手で自分の頬を叩いた。

「だが、あの話をこのまま表面だけ撫でて納得してしまうのは、納得がいかない。歪なのに纏まりが良過ぎるのだ。歪なものがそれなりに収まって纏まるなんて、自然には起こり得ない。真実は常に自然で、無理がない」

 どう思う?――と月ヶ瀬さんは僕の目を覗き込む。

「事故だというのに、なぜ、海に落ちた人間を置いて帰って来てしまえるのだ?」

「それは……母さんが混乱していたからだと思うよ。病気も影響しただろうし」

 いいや、と月ヶ瀬さんは頑是なく首を振る。

「納得いかん。不自然なあの話には誰かが均した跡がある」

「均す――それって、どういうこと?」

「誰かに都合良く事実が捻じ曲げられている――という事さ。嘘の臭いがする」

 冷水を浴びせられたような気がした。

 誰かが嘘をついている――それってどういう意味だ?

「とにかく、だ。君の母上か水森蛍か、どちらが殺したのかは不明だが、水森蛍に会った事によって、祐樹さんが殺害された可能性は、私の中では濃厚になったぞ」

「ええっ? な、なんでそんなバカな事言い出したの?」

 やっと蛍さんは無実だったと納得して落ち着こうとしていたのに、どうしてそんな風に蒸し返すんだよ、と腹が立った。

 だけど、反発して拒絶して退けてしまうには、その言葉はあまりにも僕の根っこにある感覚と合致していた。童話の中で子供が唱えた「王様は裸だ」という言葉にも似た、圧倒的な真実味がある。

「私はあの女が嫌いだ。あの女が犯人のような気がする。事故なんかじゃない。あの女が殺した、と直感が告げるのだ」

 月ヶ瀬さんは毛を逆立てた猫のようにピリピリしていた。

「だが、君の両親があの日、海に居たのは確実で、証拠のメールもあり、君も母上が電話をかけて来た時に波の音を聞いている。母上の言った決定的な言葉もある。やはり、あの日の深夜十二時以前に異変は起きてしまっている。事故ではないと証明する事は出来ないし、ましてや水森蛍が殺したと証明する事も出来ない。それでも、水森蛍は、確実に怪しい。嘘をついているからだ――」

「待って。話が見えない。どういう事? 何を言ってるの?」

 笑い飛ばしたかった。僕はやっと吹っ切ったって言うのに、どうして蒸し返すんだ、そう言うべきなのに言えなかった。

 僕はやっぱり、納得なんかしていなかったのだ。

 月ヶ瀬さんは、達観したような重い溜息をついた。

「一匹の虎がいました――君ならどう英訳する?」

「話を逸らさないでよ」

「いいから、訳したまえ」

 有無を言わさぬ強い口調で言われてたじろぎ、思わず従ってしまう。

「えっと…… there was a tiger ――かな」

 確か、中学二年生で習う文法だ。

「There was once というのは、昔話の定型の語り出しなのだよ。日常的に英語の古い物語を読んでいる人でなければ、こう書く人はあまりいないのではないかな。ちなみにあの英文は祐樹さんの文章の直訳ではない。やや自由度の高い意訳だ」

「何が言いたいの?」

「水森蛍の机に積んであった雑誌の中に、グリム童話のペーパーバックがあった」

「ペーパーバックって何?」

「英語の本で……要するにハードカバーの廉価版だ。安い紙に印刷してあって、ハードカバーの半分ほどの値段で買える。日本で言うと文庫版かな」

「ただ買ってみただけって事は? 例えば装丁が気に入って、とか」

「コレクションではないと思う。普通はコレクションにはハードカバーを選ぶんじゃないかな。『読めなくても、好きだから持っておきたい』という趣味で、しかも水森蛍のように金銭的余裕があるなら尚更だ」

 理屈は通る。

「つまり、彼女は英語で物語を読んでいるということだよ」

「でも、ペーパーバックがあったというだけで決めつけるのは、根拠が脆弱じゃない?」

「いいや、根拠は一つではない」

 言って、月ヶ瀬さんは手を払う。

「あの女、フランス語で挨拶をした時には言葉の意味を訊ねて来たのに、英語で難癖を付けてやった時には意味を問い返さなかった」

「えっ、あれ難癖だったの? なんて言ったの?」

「私が思うに、あなたはどこかおかしい。私はあなたを信用できない」

 なんてこと言うんだ、この人は。ああ、なるほど。あの時、朔良さんがものすごく慌てた理由が分かった。

「一つ一つの根拠は脆弱かも知れん。だが、二つ揃えば補強し合うと思わないか?」

 まだ無理がある、と僕は思ったけれど、月ヶ瀬さんはぴしゃりと言った。

「私は、あの英文を書いたのは水森蛍だと確認出来たと思っている」

 ううむ、そうなのだろうか。

「それから、これ」

 月ヶ瀬さんはUSBメモリを差し出した。

 何のデータが入っているのか数秒考えてしまったけれど、さすがにピンと来た。

「まさか、蛍さんのPCからデータを盗んで来たの?」

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