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「なあに、これ?」

 文字列に視線を走らせたけれど、蛍さんは表情を変えなかった。

「ご存じないならいいんです」

「ごめんなさい。分からないわ」

 蛍さんは申し訳なさそうに首を横に振る。自然な仕草だった。

 なんだ、これを書いたのも蛍さんじゃなかったのか。疑いはすべて的外れ。僕は本当に失礼な濡れ衣をいくつも着せていたんだな。

 自己嫌悪と申し訳なさで肩を落とす僕の横で、それまでずっと黙っていた月ヶ瀬さんが唐突に口を開いた。

「Though, I suppose there is something wrong with you. I still can't fully trust you.(私が思うに、あなたはどこかおかしい。私はあなたを信用できない)」

 え、と蛍さんは首を傾げ、その横で、うわっ、と朔良さんが両手を上げた。

「こら、月ヶ瀬ちゃん。なんてコト言うのっ!」

「英語は分からないのよ。ごめんなさい」

 蛍さんは月ヶ瀬さんにも困ったような顔で謝罪した。とても演技には見えない。月ヶ瀬さんが何を言ったのか分からないけど、その僕と同じ、弱り切った表情だった。

「すまない。思い違いだったようだ」

「別にいいのよ。気にしないで」

 月ヶ瀬さんは、腑に落ちない、といった憤懣やるかたない顔をしていた。


   †††


 収穫は無かった。

 特に目新しい話も聞けず、ただ、蛍さんの近況や、元々分かっていた家庭環境などが確認出来たに過ぎない。

 蛍さんはお金持ちのお嬢様だった。この家は、お父さんが貸別荘にする為に建てたらしいが、蛍さんはご両親のたっての望みで地元に戻り農協に就職するのと引き替えに、ここで独り暮らしがしたいという我儘を叶えて貰ったらしい。一年の約束で住み始めたけど済し崩し的に十八年も占拠してしまった、と蛍さんは悪戯っぽく笑った。

 今年で四十一歳になる、独身、デイトレーダー。趣味は庭いじりと料理。時々害獣駆除で狩猟に駆り出される事以外は――恵まれた環境だとは思うけれど、それでも――ごく普通の、どこにでもいる優しく穏やかな女性だった。

 ああ、確定だ。蛍さんは違う。この人は無関係だ。父の失踪とも、母の自殺とも、なんの関係も無いただの善い人なのだ。

 父の肉を食わされただなんて、僕のとち狂った妄想だった。

 もうくだらない考えは捨て、ありもしない犯罪の証拠探しだなんて不毛な真似はやめよう。心を入れ替える。これからは両親の死をきちんと諦めて、おかしな妄想に囚われずに普通に生きるんだ。

 最後にせめて息子として真っ当な目的を果たそうと、努めて笑顔を作った。

「父が失踪し母が自殺した時の話を聞かせてくれませんか。何があって、二人は僕の前から消えてしまったのか、知っている事を何でもいいので教えてください。納得して吹っ切りたいんです」

 蛍さんは悲痛に眉根を寄せる。

「事故だったらしいの。波にさらわれて……」

 そして、朔良さんが話してくれたのとほぼ同じ内容の話が続いた。

「アリスはそれ以前から精神的に不安定になっていて……うつ病だったのよ。どんな症状があるかよく知らない人も多いのだけど、人間って、うつ病になってしまうと、判断力が低下して普段なら当たり前に出来ることが出来なくなってしまうものなのよ」

 そういうものなのか……

「電話を受けた時、すぐに海難救助隊に連絡して捜索して貰うように言ったのだけど、アリスはパニック状態になっていて、私が何を言っても聞き入れなかった。救助は間に合わないと泣くばかりで……きっと諦めてしまっていたのよ。私がしっかりしなければいけなかったのだけど、アリスの取り乱し方が酷くて、追い詰めてしまうのが怖くてそれ以上は強く言えなかった。結局アリスは独りでここに戻って来てしまって……」

 蛍さんの唇が震え、声も震えた。

「私が悪かったのよ。もっとしつこく救助を要請しろと言うべきだった。アリスは、ここへ戻って来てしまった後、自分の行動を悔いていた。彼を置いて来てしまった、見殺しにしてしまったと自分を責めて泣きじゃくった。それなのに祐樹くんがどこの海に落ちたのか、どんなに問い詰めても、場所は言えないと言い張って……そして、目を離した隙に自殺してしまったの。結局、祐樹くんが事故に遭った場所は分からないまま……」

 蛍さんは、両手で顔を覆って嗚咽を洩らした。

「ごめんなさい。間に合わなかった。何もかも……」

 朔良さんがハンカチを差し出し、蛍さんはそれを受け取り、軽く洟をすすりながら涙を拭った。

「みっともないわね、取り乱したりして……」

「いいえ、両親の為に泣いて下さってありがとうございます」

 そうだわ、とまだ涙で目を潤ませながら蛍さんは立ち上がった。仕事机の引き出しから古い携帯電話を取り出して持って来る。

「これ、祐樹くんの最後の写真だと思う」

 表示されていたのは、母からのメールだった。『海にいます』とただ一言だけ。画像データが添付してあった。その写真を見て、息を飲んだ。

 蛍さんは無実だという証拠だ。

 父さんが、海を背にして笑っている。データの日付も、メールの日付も、あの日。

 これで――

 あの日、両親が海辺にいた事が確定した。

 蛍さんは二人の悲劇とは無関係だ――と、すべての状況証拠が語っていた。

「すまないが、インターネットを使わせて貰えないだろうか?」

 不意に月ヶ瀬さんも立ち上がった。

 月ヶ瀬さんはタブレットタイプの小型PCを持っていたはずだけれど……

 目が合うと、月ヶ瀬さんは素早く片目を瞑った。何かの合図を送っているのだろうと思ったけれど、意図が読めなかったので何も言わない事にした。

「大切な話をしている時に不謹慎で申し訳ないのだが、母に頼まれたお土産のメモを紛失してしまったのだ。心当たりはあるので検索だけさせて欲しい。二分とかからずに済むと思う。話の邪魔をしたくないので、勝手にインターネットを使わせて頂いてはいけないだろうか?」

 そんな事か、と思ってしまってから、月ヶ瀬さんなら何か証拠を探してくれるかもしれない、と無意識に期待していた事にも気付き、自分の未練がましさを恥ずかしく思う。

 もう分かったはずだ。蛍さんは無実、無関係だ。

 蛍さんは一瞬、なんとも言えない表情を浮かべたけれど、すぐに上品な笑顔になった。

「どうぞ。スリープになっているから、そのまま使って」

「蒼依くん、君たちはそのままソファで話を続けてくれたまえ。これ以上水を差すのは申し訳ない。私も店の名前と場所をメモさせて貰ったらすぐに席に戻る。なあに、二分もかからないさ」

 蛍さんは少し気にした様子でチラチラと月ヶ瀬さんを見ていたけれど、月ヶ瀬さんは本当に二分とかからずソファに戻って来て、僕の隣に腰を下ろした。

「いやあ、助かった。白雪ブッセというケーキだった。うっかり忘れてしまって母に怒られるところだった」

 わざとらしく頭に手をやりながら、月ヶ瀬さんは薄いメモ用紙をひらひらと振った。お菓子の名と共に、店の情報がしっかり書き込まれている。

 なんだ、本当にお土産を検索しただけなのか、と改めてガッカリした。

 そろそろお暇を、という流れになり、蛍さんに見送られて玄関の外に出た。その時、ふと気が付いて、あの疑問も解消しておこうと、素直に思っていたままを口にした。

「蛍さん、昔、週末には手の込んだ肉料理を作ってくれたでしょう? 僕はずっと、あれが何の肉だったか気になってたんです」

「あら、そんなに美味しかった?」

「はい。でも、僕が『このお肉美味しいね。何の肉なの?』って訊いた時、決まってあなたは『何だと思う?』ってごまかしましたよね? とうとう別れの日が来ても、何の肉か教えて貰えなかった。お陰で、僕はとても怖い想像をするようになってしまいました」

 えっ、と蛍さんは戸惑った声を出した。

「それは……ごめんなさい」

 だけど、どんな想像をしたの、とは問い返さなかった。

「良かれと思って黙っていたのだけど、そのせいで蒼依くんを不必要に悩ませてしまうなんて思っていなかったわ」

 蛍さんは、困った子ね、とでも言うように肩を竦めて見せる。

「あれは、あなたが可愛いと言った鹿の肉だったのよ。裏山で見た駆除予定の鹿を『可愛いバンビだ』と言ってはしゃいでいたでしょう。そんなあなたの気持ちを想うと、『あの鹿の肉だ』とは言い難かったの。分かるでしょう? 悪気はなかったの。本当にごめんなさいね……」

 ああ、やっぱり、何も謎なんて無かった――

 なんのことはない。すべて僕の勘違い。バカげた妄想。思い込みだったのだ。


   †††


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