ちゅうけんはちこう




 きっかけは、浅里のこんな言葉だった。


「腹も膨れたし、これからどうするよ。ハチ公とか見にいく?」


 かつてない満足感と幸福感に浸りながら、路地裏でぼうっと座っていた叶十は、消化中で血の回らない頭をふわっと傾げた。当然、そんなものは聞いたこともない。

「マジか、お前、ハチ公も知らんのかい。じゃあ、とりあえず行くっきゃないな!」

「……?」

「あ、えーと、あれだよ。手っ取り早く言えば『犬の像』だ」


 犬。


 その単語に、少しだけ胸が踊る。と同時に、不安もよぎる。なぜ街中に犬の像があるのだろう。見世物やサンドバッグにされてたりしないだろうか。

「これがまあ、いい話でな。飼い主の帰りをずっと待ってる犬がいたわけよ。毎日毎日、渋谷の駅前で。飼い主が死んだ後も。それがあんまりいじらしいってんで、銅像にまでなっちゃったってわけ」

「……」

 その話に触発されて、急に昔の記憶が蘇る。いつも自分について歩いていた、今は亡き愛犬。別れた母が置いていった老犬だったが、その性格にはどこか誇り高いところがあり、あの日も結局はそのせいで。

「う、う……」

「え!? 何、お前泣いてんの!? いや、犬好きすぎだろ……人間はあんなあっさり殺すのによ……」

 そう言われても、叶十の涙は止まらなかった。せっかく満たされていた心から、温い幸せが、涙となって出ていくようにも思えた。さすがに不憫に思った浅里は、ふよふよ飛び回って励ましてやる。


「じゃ、じゃあ、ほら、腹ごなしに散歩しようぜ!? ハチ公見て、あとはどっかまた適当に飯食って、あの世でもこの世でも見て回るってのはどうよ。俺も一緒に行ってやるからさ。な? な?」


 涙を懸命に抑えながら、うん、うん、と頷く。叶十自身、きっと今なら、何事もなく人混みを歩いて行けると感じていた。



 ハロウィンの街で一番良いのは、珍妙な服装でも浮かないことだ。



 少なくとも浅里はそう思った。警察官のコスプレは法律的にはギリギリアウト……な気もしたが、ここまでボロボロで血まみれになっていれば、まあ、もはや別の服という感が強いのでいいんじゃないかな。


「にしても、クッソ人多いな! 別に殺人鬼じゃあなくても、殺したくなる気持ちもわからんではないぜ、俺は」


 そんなぼやきを挟みつつ、一行がスクランブル交差点に差し掛かった時だった。夜空を割くような悲鳴が、遠くの方から聞こえてくる。

「な、何だよ何だよ。無差別殺人か? ちょっとやめてくれよ。叶十くんのうっすいキャラ付けがさらに薄くなるじゃんか〜」

「……」

 火の玉って死ぬのかな、と叶十がうっすら邪念を抱いた時、より一層大きな悲鳴が轟いた。逃げ惑う人々が洪水のように押し寄せてきて、足を取られる。中には叶十を「本物の警官」だと思い込んで、助けを求めてくる者もいた。

「た、助けてくれ! あんた警察だろ!?」

「っ……?」

! ……ああもう、役に立たねえ警官だな! この税金泥棒が!」

 どんっと強く胸を押され、倒れそうになる。すんでのところで踏みとどまったが、この騒ぎは一体何なのか。交差点の真ん中を見て、叶十は唖然とした。


「うわ、俺なんかあれ見たことある。巨人の星とかで」

「……」


 黒いモヤのような塊によって四肢を操られた少女が、泣きながらナイフを振るっていた。ゴミのように道端に捨て置かれた死体たち。その傍らには、恍惚の笑みを浮かべた燕尾服の男。


「えー……どうする? ここ通らなくてもハチ公像には行けるけど」


 確かになんだか場違いな感じがして、じゃあ迂回しようかな、と踵を返した時だ。


「さあ、いよいよ記念すべき百人目だ。そこの君も、我が愛娘の記念日を祝ってくれるだろう?」


 少女にまとわりつくモヤに似た素材でできた、黒い鎖が伸びてきて、叶十の腕を掴む。おずおずと振り返ると、燕尾服の男がにこやかに微笑みながら、鎖の端を持っていた。


「公務員にしてはだいぶロックな服装だね。君みたいな粗暴な警官一人消えたって、世界になんの損失もなさそうだ」


 その言葉にムッとしたのは、叶十ではなく浅里の方だった。

「は!? なんだてめえ、服で判断してんじゃねえぞ人を」

「おやおや。なんだか愉快なオマケがついてるようだ。彼は気づいているのかな? それとも気味悪いストーカーのように、勝手に憑いて回ってるだけかい?」

「うるせえな、疑問詞が多いんだよお前のセリフは」

 心外だと言わんばかりに激しく燃える浅里に、やれやれ、と叶十は鎖をあっけなく握りつぶす。ちょっと力を入れるだけで、ダークチョコレートで出来たように、ぱきぽきと折れる。

「ていうか何なんだよ、そっちの子は。めちゃくちゃ泣いてんじゃねえかよ」

「君たちには関係ない。ところで、そっちの警官の君はなかなか面白いね。魔術の心得があるのか、あるいは……」

 面倒だな。

 自分がだんだんイライラしてくるのがわかる。それに、近くで子供が泣いているのも不愉快でたまらない。こちらまで悲しい気分になってしまう。なぜそうも激しく泣いているんだろう? こんなに素敵な夜なのに。


「あーあー、わかったぞ。お前だな? 気取った服のお前が、女の子泣かしてるんだ。どうせ思い通りにならないからっていかがわしい魔法とか使ったんだろ? 嫌だねえ。日本の男はロリコンが多くって!」


 全くもっていつもの調子で、浅里が悪態をついてみせた時だった。ガキン。鈍い金属音が鳴り響いたかと思えば、燕尾服の男の手元に、忽然とハンティングソードが出現していた。

「お前に何がわかる。惨めったらしくこの世にしがみつくウィルオウィスプ風情が」

「いや、急にキレられても……あと何その横文字。意識高い系?」

 すると燕尾服はふっと不敵な笑いを浮かべ、黒い鎖を火の玉目がけて放つ。慌てて避ける浅里。しかし、かわしたはずの鎖は生き物のようにうねって向きを変え、火の玉にがっちりと巻き付いた。

「うわ! どうなってんだこりゃ!」

 叶十は慌てて手を伸ばし、鎖を砕き潰す。だがそれを待っていたかのように、ハンティングソードが叶十の鼻先を掠める。

「……っ!」

「君のような存在は、非常に魔術的価値がある。殺してしまうのはもったいないが、でも君は殺しても死なないだろう? 動きを封じて、協会の皆への土産としよう」


 一歩。


 それは野を駆ける鹿のように俊敏な一歩だった。


 燕尾服の男が喋り終わるより前に、叶十はその背後に立っている。


「なっ……」


 姦しく騒ぎ立てる口に後ろから手を伸ばし、指をつっこんで、引っ張る。お菓子の透明なラッピングを開けるように広げ、皮膚を破る。。痛々しい音と、噴き出す血。


「あ゛、あっ」


 呆気ない断末魔と共に、倒れる男。ほっとしたのも束の間だった。背後に気配を感じて振り返ると、ブロンドの少女がナイフを振り上げていた。

「あは、ははは、ははははは——呪われろ。呪われろ。そして永久に彷徨え。お前たちは呪われた魂なんだ。一縷の希望を垣間見ても、結局のところまやかしだ。一生救われることはない。腐って澱んだ沼の底の死骸と同じよ」

「……っ」

 意識を乗っ取られた少女の口から発せられたその言葉は、どんな呪術の枷よりも重たく、叶十の心にのしかかる。そうかもしれない。人をやめた自分には。


 気怠い諦観に、全身の力が抜けた。


 銀のナイフを眼前にして、目を閉じかけたその時だ。視界の端に、動く何かが見えた。それは「わん!」と一声吠え、少女の足に噛み付いた。


「何っ!?」


 謎の急襲に、ナイフが手元を滑り落ち、ぽとりと落ちる。その犬は気付けば消えており、叶十はというと、突然目が覚めたような気持ちだった。確かに自分は呪われている。でも、だから何なのだ。


 少女にまとわりつくモヤを、片手でがっしり掴む。


 綿飴のように粘りつくそれを、思いきり引きちぎる。そして燕尾服の男の裂けた口に、そのモヤを全部、余すことなく詰め込んでやった。


「とりっく、おあ、とりーと!」


 すでに瀕死だった男は、それがとどめとなり、完全に動くのをやめた。

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