怒りの壺

 人間の怒りはどんなに激しくても、6秒ほどしか持続しないらしい。俺の怒りは6秒の2乗の36秒だって持続する。だから職場では孤立するし、その他ありとあらゆる所で孤立する。家族も離れ、最近はインターネットさえも俺を弾き出し、酒の量が増え、体重が増え、人間関係は消失した。

 と、立ち飲み屋で横にいた男にべろべろで話したら、男から壺を買うことになった。134200円。泥酔していても高いなと思ったが、買ってみると安すぎるくらいだった。


 壺に顔を突っ込んで怒鳴り散らす。すると、喉の奥から、何かどす黒いものが引きずり出されて、壺の中に入る。気持ちが晴れ晴れとして、思わず1時間早く出社したりする。元妻はまだ会ってくれないが、月1回会える娘からは「パパ変わったね」と言われる。俺の怒りを燃やす火も油も俺の内にあり、それは夜のうちに壺に収められる。

 ふと壺の中を覗いた。部屋の端に置いた壺の中は暗く、よく見えない。顔を近づけ、目を凝らすと、黒々としたコールタールのようなものが揺れた。


 頬に絆創膏を貼った娘を問い詰めると「ママの彼氏に殴られた」と言ってうつむいた。俺の中にゆらめくような怒りが芽生えた。かつて俺の怒りは爆弾だった。しかし、何を聞いても要領を得ない子供の話を聞いても、もう声を荒げたりしない。冷静に目標を定め、震えていた。


「出てって」「いや、その」

 俺が殴った男は逆に妻……元妻をなだめていて、元妻の怒りは俺一人に向けられている。

「美月、この人に何言ったの?」

 娘は俯いたままだ。

「あなたを殴ったのは、あなたの彼氏でしょ」

 元妻は俺を見ずに言った。

「まだいたの? 関係ない人は帰って」


 服を着替え、洗濯物を取り込み、テレビをつけ、帰りに買ったビールを、そのまま床に叩きつけた。

 何で、俺が! 俺は……!

 叫び出しそうになるのをぐっとこらえて、壺の所に行く。壺の口を両手で掴み、顔を寄せた。

 壺の中には真っ黒な俺の怒りが渦巻いていた。

 叫ぶのをやめ、俺は壺を持ち上げた。重い。抱えるようにして、そのまま玄関へ。

 ぶちまけてやる。そう呟くと、心がスッと軽くなって、消えた。懐かしい感覚。口の端に笑み。

 そのとき、手が滑った。壺は、地面に叩きつけられ、俺が思わず目を瞑り、開けたときには、砕けた壺の欠片だけが地面に散らばっていた。他には何もなかった。

 プァンっと車のクラクションが鳴り、また走り去っていく音がした。それきり、また静かになった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る