第21話 アンナ、レオン、アーニャ、それぞれの日々

 アンナとの別れは、レオンにとって身を裂かれるほどの思いだったが、妹の命には変えられなかった。レオンは日一日と薄紙を剥がすように回復していく妹の姿を見るたびに、心は癒された。

 しかし、アンナは自分のことを心配し、今では自分のことを不実な男だと怒っているのではないか。毎日アンナを忘れようと、瞼に浮かぶアンナの優しい笑顔を振り払った。アンナに逢いたい気持ちからは逃れられずにいたが、今のレオンにはどうすることも出来なかった。

 

 1年ほど経ったそんな時、レオンにレコーディングの話が持ち上がった。

 レコード会社のディレクターは以前よりレオンの演奏を高く評価していた。一時期ライブ活動から退いていたレオンの消息をなんとか探り出し、レオンの家を尋ねた。

 妹の看病に追われるレオンをなんとか説得し、レコーディングにこぎ付けた。

レオンはオリジナルを何曲も作曲していた。そのオリジナル曲をすっかり気に入ったディレクターは、古い定番のジャズと合わせてアルバムを作った。

 レオンの作曲した曲は、斬新でそれでいてどこか懐かしい匂いがした。レオンの奏でるそのピアノは、聴くものの心を捉えた。レオンのピアノの音が響くと、辺りの風景が一変されてしまうようなエネルギーを発した。

 レコードは少しずつ売れ行きを伸ばし、ヒットチャートにも登った。

あちらこちらのレコード店でレオンのアルバムが大きく取り上げられるようになった。

 レオンの演奏はラジオからも流れ、レオンはコンサートツアーにも出た。当然、ギャラも上がり、レオンの生活は変わっていった。

 

 2年の月日が流れた。レオンはアンナのことをいまだに忘れられず、妹の手術代をフランクに返し、アンナと再開することだけを夢見ていた。

 コンサートツアーも終盤にさしかかり、最終日のコンサートは以前レオンが住んでいた街で行われる予定だった。

 レオンはアンナに逢いたい衝動と戦っていた。今の自分には妹の手術代をフランクに返すことが出来る。フランクとは、二度とアンナには逢わない約束を交したが、手術代をフランクに返せば、アンナの様子を聞いてみることぐらいは許されるのではないかと思っていた。それに、いくらアンナに逢いたいと思っても、突然姿を消した自分のことを今でもアンナが愛してくれているだろうか? 自分のことなどもうとっくに忘れて幸せにくらしているのではないか? しかしレオンは、アンナと離れていた3年間、いつもアンナが傍にいるような気がしていた。自分が望むことだからなのか、それとも、以心伝心は距離を超えお互いの心を分かりあうことが出来るのではないのか・・・。

 

 アーニャは相変わらず病院に勤め、毎日慌しい毎日を送っていた。

今では恋人が出来て、その恋人と一緒にアンナのアパートを訪ねることもあった。アーニャの恋人フェルナンドは、同じ病院に勤めるX線技師だった。少し頼りなげではあるが、フェルナンドはアーニャに優しかった。アーニャはレオンのことを忘れたわけではなかったが、それは、兄を想うような気持ちに変わっていた。二人は数ヶ月前から一緒に暮らしていた。

 

 二人はしばしばアンナのアパートを訪ねた。レオンのレコードを聴きながらワインを飲み、質素ではあるが暖かいシチューや簡単なオードブルで食事をした。時にはアーニャが手作りのパイを持ってきて、特にアップルパイは3人のお気に入りだった。

 アンナは二人を見るたびに、なんて気持ちのいいカップルだろうと目を細めた。

 

 アンナは、毎日朝早く目覚めた。窓辺にある鉢植えに水をやり、その花々に話しかけた。それから、ゆっくりと朝食を作る。といっても、さほど多くのものを作るわけではなかった。一切れのパンと、ジャガイモのスープ、たまにベーコンや卵を焼いた。

 朝食を片付けると、狭い部屋の掃除を始めた。それはあっという間に終わってしまう。一人で生活していると、片付けるものも殆どといって無いものだ。

アンナはその間も、何度も坂道を見下ろす窓から道行く人を眺めた。そしていつもため息をつくのだった。

 午後になると散歩に出た。大きめの帽子を被り歩きやすい靴を履いた。街を歩くと少しは気も紛れる。華やかなショウウインドーを眺めた。お気に入りだったブティックをそっと覗いた。綺麗な帽子やドレスが飾られてある。アンナは目を伏せた。もちろん今でもそれらの綺麗なドレスは大好きだったが、以前のような興味は失われていた。さほど物に対しての興味もなくなっていたのだ。それに、以前結婚していた頃は欲しいものがあればなんでもすぐに買っていたが、離婚した今のアンナはとても貧しかった。

 離婚をなかなか承諾してくれなかった夫も、アンナの強い気持ちにはとうとう根負けした。そのときフランクは、少しだけ涙を流した。アンナはそんな夫を見て、不思議な気持ちになった。この人は私を愛しているといっていたけど、それは本当だったのかもしれないと思った。アンナは少しだけ夫に申し訳ないと思った。

 散歩から戻ると、アンナは3階のレオンの部屋へ行った。ピアノの蓋を開きしばらく自分の好きな簡単な曲を弾いてみる。レオンのような音はどうしたって出ないものだ。レオンの指は魔法の指だわ。アンナはいつも思うのだった。

 アンナは歌の練習のために自分でピアノを弾きながら歌った。ピア・コロンボやバルバラ、フランソワーズ・アルディーがお気に入りで、自分で歌詞を書いて歌うものもあった。歌詞を考えている時は、とても楽しかった。言葉がどんどん溢れてきて曲想の中に歌詞を入れる。何度も書き直すものもあれば、すらっとかけてしまうものもあった。気の利いた言葉が出てくると、アンナは嬉しくてたまらなかった。練習は何時間も続けられた。ピアノの前にいると、あっと言う間に時間が経っているのだった。

 夕方近くになると、アンナは忙しい。化粧をして、身支度を整える。歌の仕事のあるときは、あちらこちらの店に行かなくてはならないし、歌の仕事の無いときは、レストランのウエイトレスの仕事をした。歌の仕事だけではどうしても生活していくのが難しかった。ウエイトレスの仕事は贅沢に暮らしてきたアンナにとって辛い仕事だった。贅沢に着飾った女性たちをみて、アンナは複雑な思いに駆られた。しかしそうは言っても、アンナは少しも後悔したことはなかった。今の生活は苦しいけれど、充実感があった。寂しかったが、自分に嘘を付かないですんだ。自分に正直に生きているという実感は、何物にも変えられないものだった。

 アンナは毎日遅く帰宅した。夕飯はいつも不規則で、仕事の帰りに何処かで食べてくることもあったが、節約のためになるべく自炊した。しかし、あまりにも疲れて、シャワーだけあびるとそのままベッドに倒れこんでしまうことも度々だった。

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