第19話 レオンのレコード

 アーニャは看護師として働き出していた。

 毎日の目まぐるしい生活の中で、レオンやアンナのことは心の片隅に無理やり押しやっていた。しかし、ふと2人のことを想い出す時、胸の中がきゅんと痛くなるのを感じた。レオンはどこにいるのだろう。アンナは元気にしているのかしら。そういえば、私はアンナの笑顔を見たことがないわ。いつも悲しそうに目を伏せていたっけ。アンナが笑ったらさぞかし美しいだろうな。アーニャはアンナのことを思うと、姉を思うような気持ちになった。

 

 ある日、アーニャはレオンのアパートを訪ねた。意味も無い行為だということは重々承知はしているものの、やはり時々は足が向いてしまう。

 すると、どうしたことだろう。アンナの姿が見えた。アンナはいつもよりラフな格好をして、アパートの階段を降りてくるところだった。

「アンナ!」

アーニャは思わず駆け寄り声をかけた。

「あら、アーニャ。ここにいらしたの?」

「ええ。レオンはいないのはわかっているのだけど、ついここに来てしまうの。」

「そう。実はね、私ここの二階に住んでいるのよ。」

「え?アンナが?」

「ええそう。いらっしゃいな。」

アンナはそう言うと二階のドアを開けた。

アーニャは半信半疑でその部屋を覗いた。家具が置かれ、キッチンからはシチューのいい香りが漂ってくるではないか。

「本当に住んでいるのね。」

「そうよ。レオンが帰った時すぐに分かるようにね。」

「レオンの音沙汰は何か掴めたの?」

「いいえ、全然。さぁ、そこに立っていないで中に入って。今ちょうどシチューを作ったから、食べていって頂戴。」

「ええ。」

「アンナ、ご主人とは別れたの?」

「いいえ、それがまだなのよ。夫は私との話し合いには応じてはくれないわ。今に私の気が変わると思っているのよ。」

「そう。大変ね・・・。」

「ええ。でも今こうして暮らしているのが私には一番しっくりくるのよ。寂しい時ももちろんあるけどね。そうだ、これからは時々遊びにいらしてね。いつでもいいから。」

「はい。」

 

 アンナは明るかった。以前の悲しげなアンナの横顔ではない。何か自信のようなものを感じられた。

 二人はお互いの近況を話し合った。アンナは以前よりも仕事が忙しくなって、たまには地方へ旅の仕事に行ったり、ディナーショウを開いたことや、オーディションを受けて新しいシャンソニエで歌ったりしたことを話した。

アーニャはもっぱら病院勤務の話をした。アーニャは小児科に配属になったので、重病の子供を診るのが辛いと言った。少しずつ弱っていく治る見込みのない子供に、どう接していいのか分からないと話した。アンナはアーニャの話をじっと聞いていた。

 アンナとアーニャの間には親密な友情が芽生えた。一人の男性を形は違うにせよ愛し、そのことで不思議な共感を持った。そして、その二人が愛したレオンが居ないことはさらに二人を密接にした。互いに欠けている何かを補い合っていたのかもしれない。

 それからは、アーニャは度々アンナの部屋を訪ねた。休みの日は必ず二人で食事を共にするようになった。アンナはアーニャを妹のように可愛がりアーニャもまたアンナを姉のように慕っていた。まさしく二人は姉妹のようであった。

 ある日、二人で街に買い物に出かけた。古い映画を観た後、食事をして、その後はショッピングをして楽しんだ。洋服を見たり、大好きな帽子屋を覗いたりした。

 

 レコード店の店先にポスターがかけられていた。二人とも息を呑んだ。それは、レオンのレコードのポスターだった。

「レオン!」

二人はレコード店に飛び込み、レオンのレコードを買った。

 一目散に家に帰り、そのレコードをステレオにセットした。針が少し雑音を鳴らす。その後あの懐かしいレオンのピアノの音が流れてきた。それは、レオンのオリジナルナンバーが殆どで、数曲古いジャズが入っていた。二人は何も言わずに最後まで聴いた。曲が終わり、針が元に戻ってからも、しばらく二人はそのまま押し黙ったままだった。

 アーニャはレオンの部屋で何度もピアノを聴いたことはあったが、いつもクラシックのショパンやシューマンだったので、ジャズを聴いたのは初めてだった。こんなにも優しい音色で弾くんだわ。でも、あの頃のレオンとは別人の演奏みたいー。

 アンナはといえば、涙が後から溢れ出し、すっかり自分の世界に引き篭もってしまっている。

アンナは心が張り裂けんばかりに、辛かった。レオンに逢いたくてもうどうしていいか分からなかった。レオン、お願いだから、一度でいいから帰って来て・・・。心の中でそう叫ぶばかりだった。

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