第14話 アンナと夫フランク

 アンナは、レオンと親密な関係を持ってから、ますます夫の顔をみることが辛くなった。一緒に居ても仕方が無いじゃないの。夫は私を必要とはしていない。ろくに顔を見るわけでもない。帰りも深夜を過ぎて食事も外で済ませてくることが多いから、何日も口をきかないこともある。

もう一度離婚の話を切り出そう。これ以上今の生活を続けることには耐えられなかった。

 「あなた、お話があります。」

フランクは読んでいた新聞から目を上げた。

「私たち、もうこれ以上一緒にやっていくことは出来ないわ。別れましょう。離婚に同意してください。」

 フランクは無言で新聞に目を落とした。しばらくすると、重い口を開きこう言った。

「生活はどうする。こんなに贅沢な暮らしをしてきたんだ。今更歌い手の収入だけで暮らせるものではないだろう。」

「確かに大変だとは思うけど、あなたから離れて自由になりたいの。あなたが離婚に応じなくても私はここから出て行くわよ。」

「ピアニストの所へ行くのか。」

「え?!」

「何も知らないと思っていたのだろう。私は全て知っているよ。」

「あなた・・・。」

「不倫をしたのは君のほうだから、離婚には応じない。それに、あの男はそんなにたいした男じゃない。君は何も分かっていないんだ。」

「それ、どういうこと?」

 しかし、夫はそれ以上口を開かなかった。私は夫の言葉に唖然とした。いつから知っていたのだろう。それにしても、私が離婚を切り出さなければ、ずっと黙っているつもりだったのか?私が他の男性とお付き合いをしていることを知っているのに、どうして夫は離婚に同意しないのだろう。頭の中は膠着し、状況も何もかもよく分からなかった。

夫がどの様な経緯でレオンとのことを知ったのかは分からないままだが、夫はいくら帰りが遅いといっても、アンナが最近家をあけることが多くなったのには、さすがに気がついたのかも知れない。

 レオンのアパートを最初に訪れた日から半月ほどの間、殆ど毎日彼のところへ通っていた。ジュリアの店にも何度か行って食事をした。ワインを飲んで、また彼のアパートに戻る。

 夜更けまで二人で優しい時間を過ごした。彼のピアノを聴いたり、それに合わせて歌ったり、ベッドで何時間でも愛し合ったり・・・。

短い期間ではあったが、彼と過ごす一秒一秒が大切な時間だった。

 

 アンナが夫に離婚を持ち出してから数日経ったある日、別れ際にレオンはこう言った。

「明日は会えそうもない。」

「そうなの。それじゃ、明後日に来るわね。」

「いや、まだ予定が分からない。すまない。」

「そう・・・。」

 アンナは不安な気持ちになった。そういえば、このところ、レオンはどこか塞ぎ込んでいたような気がする。私と過ごすことに何か戸惑いがあるのだろうか?いつ会えるか分からないなんて、おかしいわ。

「それじゃ、またね。連絡を頂戴ね。」

「ああ。」

そして、彼はアンナを強く抱きしめた。レオンが不安な思いをしていることを確信した。アンナはその理由を聞こうとしたが、そうさせない何かがレオンから感じられた。

 アンナは家路を歩きながら、もう一度レオンのところへ戻ろうかと何度も思い足を止めた。しかし、レオンは一人になりたいのかもしれない。そういえば、毎日彼のもとを尋ね、多くの時間を過ごしていた。一人になりたい時だってあるわよね。それに、彼は今までずっと一人だったのだから。アンナはそう自分に言い聞かせ虚ろな気持ちで家に帰った。

 翌日、会えないと言われていたにもかかわらず、どうしてもレオンの様子が気になり、アパートを訪ねた。彼は部屋には居なかった。数時間じっと彼の帰りを待ってみたが、彼はとうとう帰っては来なかった。

 それから毎日彼の部屋に行き、彼の帰りを待った。2週間が過ぎた頃には諦めて、彼のアパートに行くことはしなくなった。

 アンナは夢を見た。それは、リアルで肉感まで伴う生々しい夢だった。夢の中で、レオンはアンナに激しく狂おしいような口づけをした。それは、夢から覚めた時、まるで現実に起こったような錯覚を持ったほど、湿った感触が唇の周りに残っていた。唇をそっと指で押さえた。けれど、当然のことながらその夢はフェイドアウトして霞んでいった。むしろ寒々とした現実との落差を思い知らされるようなものだった。

 彼が貸してくれた一枚のレコード。ジャズのナンバーで1965年ごろのオールドジャズの擦れた音がする。サックスが部屋の空気を揺らす。アンナもジャズは大好きだった。どこか語りかけてくるような詩的な音楽・・・。

 レオン、今、どこで、どうしているの?

アンナは無性に彼に逢いたかった。

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