第13話 行方不明のレオン

 アーニャは学校でもあまり口を聞かなくなった。レオンのアパートを訪ねた時のことが頭から離れないでいる。

 あの時部屋にいた人は誰だろう?ううん、分かってる。いつかジャズクラブの前でキスをしていた人。あの美しい人だわ。

 私のことは、子どもだと思って相手にもしていなかったのね。いつだって、軽いキスをしてジュリアの店に行くだけなんだから、恋人というわけではなかったし。それにしても、私がどうしてアパートを訪ねるかくらいは、分かってくれても良さそうなものだわ。酷すぎる。私の気持ちなんかまるで無視というわけね。でも、愛されていると思ったことは一度も無かったわね。彼が悪いわけではない。私に魅力がないだけ・・・。

 学校は卒業に向けて課題も多くなっていった。採血やら、筋肉注射などの実習と実際の病院実習、点滴の方法や、その他看護の課題が待っていた。解剖学、生理学、看護学、外科、内科、細菌学などなど、看護師の勉強も医師と同じ広範囲だが、広く浅く学んでいく。国家試験に向けて必死で勉強しなくてはいけないのに、どうしても力が湧いてこなかった。

 

 クリスマスが近づいたある日、アーニャは街に出かけた。花飾りの付いた帽子を被って。たまには気晴らしも必要だわ。ここのところ、お洒落もしていない。でも、この帽子も何だか流行遅れで野暮ったいわ。茶色の皮のブーツは踵がしっくりこないから、歩きづらいけど少しは我慢して綺麗に見せなきゃ。頬紅を差して、まだあどけなさが残るぷっくりとした唇にもルージュを引いた。

 あの時見かけた女の人の帽子は、それは綺麗な帽子だった。黒のレースのドレスも豪華なもので、アーニャには袖を通したこともない代物だった。多くのものを手に入れることが出来る人は不公平だわ。あんなきれいなドレスも、美貌も、それからレオンも。アーニャは唇をきゅっと噛んだ。

 街は賑やかな音楽と人のざわめきで満ちていた。至る所にクリスマスツリーが飾られ、イルミネーションが冷たい空気の中で一層輝いていた。しかし、アーニャにとって一番目を引いたのは、幸せそうな恋人たちの姿だった。アーニャはどこに行くあてもなく、ただ街を歩いていた。お金も無いから、好きな帽子のひとつも買えるわけではない。でも、アーニャはこの街が大好きだった。街は一人ぼっちの私のことも優しく包み込んでくれる。どんな人のことでも。古い建物が曲がりくねった道にびっしりと建ち、所々にカフェがある。立ち止まってカフェに入ろうかどうしようか考えたが、結局そのまま歩くことにした。

 しばらく行くと、この寒空の中にテラスが設けられているカフェがあった。まばらだが、何人かの客がワインやコーヒーを飲んでいる。

 そこに、一人の女性の姿があった。アーニャは立ち止まった。

長い睫毛を伏せて、赤い唇をしたその女性は、レオンとキスをしていた女性に間違いないと思った。アーニャはそのカフェのテラスの隅のほうへ座った。カフェオレを注文して、時々こっそりとその女性の姿を目で追った。

 伏せられた睫毛はそのままじっと動かなかった。黒い帽子には紫色のローズの飾りが付いている。白いレースの飾りがコートの袖口からのぞいていた。豪華なカメオのブローチが襟元から見えた。首まで包んでいるブラウスは刺繍が施されてあった。黒いコートはビロードで裾の長いものだった。白い頬と赤い唇がそのビロードの中で浮き彫りにされていた。美しい人だわ。急に女としての未熟さが恥ずかしくなった。でも、なんだか寂しそう。あんなに恵まれて何でも手に入れているというのに、なぜそんなに寂しそうなのかしら・・。私からしたら、贅沢というものだわ。話をしたこともないこの女性に嫉妬を覚え、少し苛立たしい気分になった。レオンと出会わなければ、恋をしなければこんなに傷つくこともなかったのに。雨の日、傘を差しかけたからいけなかったんだわ。でも、あの女性は幸せじゃないのかしら?名前はなんていうのだろう。話しかけてみようかな。レオンの知り合いということで。

 意を決したように、アーニャは椅子から立ち上がった。

「すみません。少しお話してもよろしいですか?」

アーニャはアンナに近づいてそう話しかけた。

「え?」

アンナは顔を上げた。見れば見知らぬ若い女性が立っている。

「私、レオンの知り合いなんです。以前、あなたがレオンのライブにいらっしゃる時にお見かけしたんです。」

「ああ、そう・・・。」

アンナは椅子を指して、どうぞという仕草でアーニャに席を勧めた。

「レオンのピアノは素敵ですね。私、ジャズはあまり聴いたことがないんですけど、ショパンは何度もあります。レオンの弾くショパンはとても素敵。」

「ショパン・・・。そうね。ところで、あなたのお名前は?」

「すみません。名乗りもしないで。私、アーニャといいます。」

「そう。私はアンナ。あなた、学生さん?まだお若いわね。」

「はい。ナースの勉強をしているんです。」

アンナは言葉の変わりに、首を何度か縦に振って相槌を打った。あまり話しに乗ってくる気配はなさそうだわ・・。アーニャは話かけたことを後悔したが、話を続けることにした。

「あの。レオンは元気ですか?私はしばらくお会いしていなくて。それにレコードも返さなくちゃいけないのに。なかなか会えなくて。」

「レコード?」

「ええ。レオンが貸してくれたんです。ビル・エヴァンスという人の。」

「そう。彼の好きなピアニストだわ。」

「そうみたいですね。少し切なかったけれど、好きだったな。その、ビル・エヴァンスのピアノ。」

「私も好きよ。少しレオンの弾く音に似ているわね。繊細で。」

「・・・。あの。何だか少しお疲れの様子ですけど、大丈夫ですか?」

「え?そうかしら。」

「ああ、すみません。ナースの勉強をしているとつい人の顔色なんかが気になっちゃって。よけいなことでした。」

「いいのよ。ありがとう。私もしばらくレオンには会っていないのよ。いつ会えるのか私にも分からないわ。」

「そうなんですか・・。」

「ええ。旅に出たのよ。いつ帰るか分からないわ。」

「旅に・・・。いつ?」

「そうね、一週間位前だわ。突然、仕事も全部キャンセルして。だから心配で・・・。」

 そうだったのか。それで、この女性はこんなにも塞ぎ込んでいたんだわ。それにしても、レオンはどこに行ったのだろう。仕事までキャンセルするなんて、普通じゃ考えられないけど。レコードを返しに行った時から、数ヶ月しか経っていないが、あの時の二人はあんなに優しい声で語りあっていたではないか。

「何か、大切な用事があったのでしょうか?」

「そうね・・・。分からないわ。」

 2人の女は、しばし押し黙ってそれぞれの想いに耽っていた。そのうち、アンナがその沈黙を破った。

「何かの時連絡出来るように、これ。」

 アンナはアーニャに名刺を差し出した。アンナは立ち上がり、アーニャの顔を見て、軽い会釈をするとそのまま何も言わずに夜の街へ消えて行った。

アーニャは渡された名刺をしばし見つめ、大事に急いでバッグの中にしまった。ボーカリストと書いてある。それじゃ、アンナは歌手なのね。レオンのピアノで歌ったんだろうな。どんな感じなのだろう。愛する人のピアノで歌うということは。嫉妬と憧れのような気持ちが複雑に絡み合いながらアーニャの胸を過ぎった。

 それにしても・・・。レオンはどこへ行ってしまったのだろう。旅の仕事なら少なくともアンナには言うはず。どこか行きたい所があるなんて言っていたかしら。アーニャには記憶はなかった。それほど色々な話をしてきたわけではないから、レオンの故郷も知らない。そういえば、家族の話もしてくれたことはないわね。私は何も知らないのだわ。

 気が付くと、彼のアパートの前に立っていた。コンコンとブーツの音が階段で鳴り響く。ドアをノックしてみた。居るはずもないのに。ドアをそうっと開けた。相変わらずギィーと軋むドア。真っ暗な部屋の中は、凍てつくように冷たかった。そのまま部屋に入り電気を付けた。

 主の居ない部屋はひっそりしていた。ピアノは亡霊のようだった。ふと、ピアノの音が聴こえたような気がした。気のせいか・・・。

 そうだ、置手紙なんか無いのかしら?しばらく机の上やピアノの上を探したが何も無かった。その部屋はアーニャに何も答えてはくれなかった。

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