第5話 クローフィ


「ふん、ふんふん、ふーん」


消毒液の匂いが漂う白い空間で、男は陽気に鼻歌を歌っていた。


それは病院の一室のように見える部屋であり、中はそれほど広くない。ベッドは二台だけだが一台が大きく、そのそれぞれにカーテンが付いている。半透明で中の患者の様子を確認出来る造りでありながら、細かい情報は遮断するプライバシー保護の観点でもちゃんと役立っているものである。無機質な白であること以外はどこか貴族の天蓋付きベッドを思わせるが、中の患者が圧迫感を感じないことや風通しの良さ、前述の面でも機能性に優れた二台だと言える。ベッドの脇にはキャスター付きの棚があり、ここで必要な道具、つまり医療用器具が全て揃って乗っていた。ベッドが置いていない方の壁際にはデスクと回転椅子、それにパソコンが一台とそれに繋がる三台の画面があった。まるで株トレーダーの仕事机の様だった。

部屋はかなり明るいが、いたずらに眩しい訳ではなく森の中の太陽光のような優しさがある。ただ白いだけの壁には、深みのある赤が特徴的な高そうな絵画が額縁に入って飾ってあった。


鼻歌の男が座っているのは二台あるベッドの内の一つの脇で、そこに置かれた椅子の上だった。灰色の髪とエメラルドグリーンの目、その左目の下にある二つ並んだホクロが特徴的な男は、鼻歌を歌ってしまうほどに最高に気分が良かった。

その理由は彼の目の前のベッドに眠っていた。待ちに待った新しい患者が彼の元にやってきたのだ。


この日をどれほど待ち望んだことだろうか。


元々彼には担当の患者が数人いるのだが、いつも同じ患者を診ることに若干の飽きを感じてしまっていた。


男、イル・クローフィは、おおよそ医者としては絶対にあってはならないタイプの人間だった。彼の患者がからか、彼もまた普通ではないのである。医療の手腕に関しては申し分なく、様々なジャンルに精通し、書類仕事も完璧で検死も出来る。一見すると引く手あまたの有能な医者だ。……だが、彼は医者としてのモラルは何一つ持ち合わせてはいなかった。

患者に”飽き”を感じている時点でお察しというやつなのだが、一番の問題は人間が死ぬことに対して何も思わないことである。人の生命を守るという使命を持つ医者にとって致命的な欠点であり、他の医者からは「ふざけるな」と罵られてもおかしくない性質である。

そんな彼が何故医者として働けているかというと、それは彼が何処まで行っても変人だからであった。

人間、もしくは珍しい血液を持った生き物を尊ぶ彼にとって、今の仕事はまさに天職だった。ここに運ばれてくるのは主に人間以外の”何か”であり、その”何か”を診られるだけの能力が彼にはあった。


”人外専門の医者”。それが彼の肩書きだった。


彼が待ち望んでいた患者が運ばれてきたのは少し前のこと。連れてきたのは調査部に所属する背の高い男で、そのめいを出したのは警察局の局長だった。

患者自体の情報は一切なく、教えられたのは何処でどのようにどんな怪我を負ったか、ということだけ。渡された報告書には”昨日の事件に関与””容疑者の疑いあり”と書いてあり、事件の詳細はちゃんと記載されていた。ただ、もちろん患者の名前は不明で、性別も血液型もどのような生き物であるかもまた、不明である。

とはいえ人外に関してのみ詳しいクローフィは、”突然獣に変化した”という情報だけでどのような生き物であるかという問にはあっさりと答えられるのだが。


念願の患者を前に手をわきわきさせながら、彼らに対してはその命を大切にするクローフィは、先に治療をすることを忘れない。料理をしているかの様にご機嫌に、自分の患者を治療していく。

患者は恐らく十代半ば。黒髪と中性的な顔を持つ小柄な人物で、見た目はただの人間だ。枝のような手足はしかし、骨と皮だけということはなく適度な筋肉が付いて引き締まっており、見た目通りの子供ではないことを伺わせる。同じく長距離走者のようにしなやかな筋肉が付いた足は、両足とも血に塗れていた。止血の処置がされており、乾いた血液があちこちに付着している。

右足のももには銃弾を受け、左足首はトラバサミに挟まれて目も当てられない有様だ。外傷が酷い上に、強い力で挟まれた衝撃で骨が粉々になっていた。この形状のトラバサミを仕掛けた人物は余程獲物を逃がしたくなかったと見える。一般的には獲物が足を踏み入れるとワイヤーが絞まる『括り罠』が使われ、獲物に無駄な苦痛を与えないという観点からこの国でも推奨されている。トラバサミは違法とまでは行かないが、人型の生き物に害を与えた以上、この先使うことは厳しくなるだろう。

患者が足を挟まれたまま暴れたのか、傷口がより深刻なものとなっていた。血流が阻害されていたため、もう少し発見が遅れていたら足首より先は壊死えしし、切断しなければならなくなっていただろう。壊死した箇所を付けたまま血流を戻すと、腐った血液が逆流して他の箇所ももれなく壊死するからだ。

かなりグロテスクな傷口だったが、新しい患者に興奮を抑えられないクローフィは恍惚こうこつとした笑みを浮かべたまま治療に勤しんでいる。頬を染めて時折舌舐めずりをしながら傷口を弄っている様は変態的であり、そのそれなりに整った容姿を全く台無しにしていた。端から見なくてもしっかりと気持ち悪かった。

ただ、その代わりとして手際は良く、患者の足を固定して麻酔をすると、素早く切開して粉砕骨折した部分をボルトで繋ぎ合わせていく。それが済んだら今作った切れ目と元からある傷口をそれぞれ縫い合わせて、ギプスで固める。右足も手早く治療した。近距離で撃たれたのか、弾が足を貫通していたのは幸いだった。弾が残っていると、それをまず取り除かなければならないからだ。

そうして一時間ほどで全ての治療を終えると、傷に障らないようにしながら患者のあちこちを裏返し始めた。患者の皮膚を舐めるように見る。セクハラ紛いの行為だが、クローフィの目的は性的なものではなく、そもそもそういったことに興味がなかった。


クローフィはただ捜し物をしていた。


患者が自分の思っているとおりの生き物ならば、ほとんどの場合”印”があるはずだった。希にない個体もいるが、その確率はかなり低い。それを見つけられれば報告書にしっかりとその生き物だと記載することが出来る。

結果、数分後にお目当てのものを首筋の鎖骨付近に見つけ、一度デスクに戻ってカルテのようなものを持って来た。


「……これはまた珍しい」


クローフィは真剣な表情に切り替えて顎に手をやりながら呟いた。視線の先、鎖骨付近には入墨いれずみによく似た奇妙な文様が描かれている。これでクローフィの確信に近い仮説は確実なものとなった。

『∞』を回して重ねたような、もしくはSを引き延ばして十字にしたような、どこか花に似た文様だった。クローフィはそれをカルテのようなものにそっくりそのまま描き写す。治療している時と別人なのではと思われる程に真面目にペンを動かして、患者の見た目や体格などの情報と供に文様を描き上げた。


「さて、と」


クローフィは立ち上がるとまた変態的な笑みを浮かべて、患者の情報が書かれたそれをデスクに戻した。代わりに持ってきたものは一本の注射器。中身は空だ。何かを入れる為ではなく何かを抜く為のものだった。クローフィは今この時が人生最高の瞬間だとでも言いたげな、実に幸せそうな顔で手の中の道具を患者の首筋に突き立てようとした。が、それよりも先に彼の手首を掴む者がいる。自分にとって最高の瞬間を邪魔されたクローフィは、不機嫌そうにその邪魔者を見る。

視線の先には、顔を覆うヴェールが付いた看護帽と白衣に似た白い服を着た人物が呆れた様子で立っていた。クローフィが患者に夢中になっている間に部屋に入ってきたらしい。帽子からはクローフィと同じ色の髪が飛び出している。雰囲気からしてもまだ若いその人物は、クローフィの助手兼息子だった。

事故で顔に大怪我を負った息子、レヴァンは「醜いから」という理由で自分の顔を布で隠して生活している。普段から白地に赤十字の入った看護帽を被っている彼は、透け感の薄いヴェールを帽子そのものに縫い付けて身につけていた。


「先生、怪我をした患者様から血液を抜くのはおめください。ただでさえ出血していますのに、医者がさらに抜いてどうするのですか」


ヴェールの下の額を抑え、ため息をきながら首を振る息子に対して、クローフィは大人げもなく、


「後で輸血するから! 採らせて! とーらーせーてー!」


駄々をこねた。頭をぶんぶんと振りながらわめく男はおよそ医者とは思えない。そして成人男性とも思えない。


「駄目です。患者様が目を覚まして、傷が完治して患者様が許可を出したらにしてください」


一方で落ち着き払ったままクローフィににべもない返答をする青年は、まるで息子ではなく母親のようだった。とてもクローフィの息子とは思えないほどしっかりした受け答えと丁寧な言葉遣い、流麗な所作を身につけているレヴァンは、医学以外はちゃらんぽらんな彼の補佐にぴったりだった。


「ええー……そんなのいつになるか分からないよ。耐えられない。ああ、こんなに綺麗で美しくて珍しくて素晴らしい血液が目の前にあるのに、それを今すぐ堪能出来ないなんて……」


悲劇の主人公のように絶望するクローフィの口からは、気持ち悪い言葉がポンポンと飛び出す。人外そのもの、特にその血液に異様な執着を持つ彼は、禁断症状を起こした患者のように注射器を握りしめて暴れる。それを見せつけられたレヴァンは何度目か分からないため息をくと、左の袖をまくって彼の目の前に差し出した。


「ほら、私の血ならいくらでも採っていただいて構いませんから、今日の所は諦めてください」

「う……。枯渇させるくらい抜いてもいい……?」

「いや、死んでしまいます。そうしたら二度と採れませんよ」

「なんでレヴァンは世界に一人しかいないんだ……」

「逆にたくさんいたら気持ち悪いですよ……。クローンじゃないんですから」


レヴァンの捨て身の作戦によって、患者の強制採血はとりあえずなしということになったのだが、代わりにレヴァンが多大な被害を被りそうだ。

立場と内面が見事に逆転している二人の内の駄目な方、つまりクローフィは、しっかりしている方のレヴァンの腕に注射器を刺し、うっとりした表情で採血を始めた。レヴァンの表情を伺い知ることは出来ないが、恐らく眉間に皺を寄せていることだろう。


「ああ……イイ……この色も香りも最高級のワインみたいだ……」

「……さすがに気色悪いです先生。なんかもう、本当に」

「そろそろ慣れてよ。君は僕の助手兼息子だろう?」

「そうですけれど、それでも限度というものが。だいたい、こちらから提案しておいて何ですが、私の血など珍しくないのでは」

「僕の息子の血なんだから、それだけで珍しいに決まっているでしょ。だって”この僕の息子”なんだからね。……それに、綺麗な血液はいくつストックがあっても足りない。こうして積極的に採らせてくれる内に成る丈多くせしめないと」


全く親子とは思えない会話を繰り広げる二人。兄弟の片方がちゃらんぽらんだともう片方はしっかりするという話があるが、それは親子間でも通じるのかもしれない。

クローフィが採血したレヴァンの血を小さな真空瓶に詰めている間、レヴァンは患者の方を見ていた。治療だけは完璧にされている患者に異変はないか、寒そうではないか、不快感を覚えていないか等を確認する。彼の背後でクローフィが血を瓶に詰め終わった頃、患者を見ていたレヴァンだけがその瞬間を見た。


「あ」


患者の瞼がゆっくりと開いていく。その深い海の様な、あるいはサファイアの様な双眸に光が入り、そこを眩しそうに細めさせた。急な光によって縮小していた瞳孔が正常な大きさに戻ると、視線はしばらく天上を彷徨って、それからレヴァンの顔を見た。正しくは、顔に掛かったヴェールを見た。


「…………」

「…………」


眉を顰めてレヴァンのヴェールを見る患者と、それを見つめ返すレヴァン。二人の間に微妙な空気が流れた。

患者は彼からそっと目を逸らすと、体を起こさないまま自分の体の状態を確認した。布団が掛かっているため視認は出来ないが、怪我をした両足からは痛みが引き、何かさらさらしたものが巻かれている感覚がある。どちらにしろこの足では逃げ出すことは難しいだろうが、無理して逃げ出すことは今のところないだろうと結論付ける。


「ああ、目が覚めたんだね。体の調子はどうだい?」


レヴァンの声で二人の方に視線を向けたクローフィが、彼の後ろに立って患者を覗き込みながら笑顔で話しかける。話しかけられた患者の方は、無言で見知らぬ男を見上げていた。


「ふむ。まだ緊張しているのかな。君について色々聞きたいことがあるから早めに打ち解けてくれると嬉しいんだけど」


クローフィはもう一度話しかけたが、患者は無言のままだ。少し黙った後、今の状況を説明しながら相手が話し出すのを待つことにした。しばらく話していれば、そのうち慣れてくれるだろう。


「ここは君みたいな”人ではない人”を診る施設でね、僕はその医者なんだ。一、二時間前に君が運び込まれて治療したんだけど、まあ、何て言うのかな……。随分やられたねぇ、君。足を撃たれた時に出た血の匂いで鉄の罠に気付かなかったんだろうけど、なら銃弾くらい簡単に避けられるだろうに」

「…………」

「『まじない』が入っていた以上、一応”ご主人様”はいるみたいだけど、それほど厳しくないのかな。今回の怪我以外に外傷はほぼなかったし、戦闘慣れしていないってことは後ろ暗い任務とかもなかったってことだよね。うんうん、良い”ご主人様”を持っているのは良いことだ。ああ、でも内面的にやられてる可能性もあるか……。彼らに碌な価値観を持った奴なんてほぼいないし」


最後の方は独り言のように呟くクローフィを見ながら、患者はようやく口を開いた。その高くもなく低くもない声には驚きとほんの少しの怒気が含まれていた。上半身を起こして正面からクローフィを見ている。正面からだとその豹に似た獣的な美しさがより一層感じられる。


「良い”ご主人様”……だと?」

「あれ、違うのかい?」


クローフィは患者がやっと喋ったことには反応せず、自然に言葉を返す。


「あんたは鉄格子の填まった部屋にずっと閉じ込めてきたあの男が良い人間だって言うのか?」

「閉じ込められていた?」

「そうだ」


患者は自分の自由を奪っていた相手を良い人間だと言われたことが気にくわなかったらしい。


「ということは、逃げ出したのかな?」


クローフィはごく自然な様子で身の上を聞き出し始めた。レヴァンが患者に見えないようにメモを取っている。


「いや。あそこで誰か死んでただろ? 本当はあいつに会えって命令されてた。会ってどうするかは聞いていないが、大方あんたの言う後ろ暗い任務とやらをやらせようとしてたんじゃないか?」

「なるほどね」


自分の治療をした以上、自分のここ最近の出来事は全て伝わっていると分かっているのだろう。淡々と事実を述べていく。嘘を吐いているようには見えないことと言い方からして昨日の事件に関与はしているようだが、犯人ではないらしい。所持品の小刀にほとんど血が付いていなかったことや、くだんの死体に付いた傷跡と一致しなかったことから、ほぼ犯人から除外されていたのだが、本人から証言を取ることもまた、大事だ。

死体の死亡推定時刻は一昨日の午後三時~五時の間。報告書からしても患者の言っていることとは齟齬そごがない。前日に殺して死体と供に一夜を明かす趣味でもなければ、現場にずっといた可能性は低いだろう。犯人ではないのは確実だ。

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