地下鉄千代田線北千住駅の決闘

いぬかい

地下鉄千代田線北千住駅の決闘

 常磐線快速に乗って都内に向かう。雨が車窓を叩いていて、俺は左手に持った傘を意識する。もう博物館でしか見ることのないウォーターフロント製のニコちゃんマークは、祖父の代から我が家に伝わる伝説の宝傘だ。久しぶりにこれを持って家を出たのは、やはりある種の予感が働いたのだろう。

 快速電車は北千住駅に滑り込んだ。人でごった返すホームから階段を下りて地下鉄への連絡通路を足早に歩く。東京メトロ千代田線のホームへは五分もあれば乗り換えられる。目を瞑ってても歩けるほどのいつもの通勤経路――のはずだった。


 ふと、後ろから追い越した男がいた。紺色のスーツに同じ色の傘を持っている。ガゴッと鈍い音がした。そいつの傘が俺のに当たってシャフトどうしがぶつかる音だ。そいつは二三歩歩いて立ち止まり、振り返って俺を見た。目が合った。まだ若い。おそらく二十代半ば。背格好は俺とそう変わらないが、鍛えているらしく上半身は逆三角形に広がって、男子トイレの入口マークを思わせた。男はゆっくり視線を落としてニヤリと笑った。たぶん俺の傘を見ているのだろう。なるほど、と俺は頷いた。

 ――こいつ、誘ってやがるな。

 時計を見ると七時半だった。手早く済ませば遅刻せずに済む。こうした場合は遅刻にカウントされないのが通例だが、さすがに俺も管理職だ。遅れずに済むならその方がいい。

「何か用か」

「あんたの傘が当たったようだが」男の声は甲高かった。

「お前が当てたんだろう」

「そうかな」

 こうしたやりとりは形式化されているが、物事には様式美というものがある。俺は流儀に則って大げさに溜め息をつくと、「お前の傘か俺の傘か、決闘で決めようじゃないか」と決まりの口上を述べた。

 そうしよう――と応えるが早いか、男は戦闘態勢に入った。どこからか死合開始を告げるゴングが鳴った。人混みが洗剤を垂らした油のように押しのけられて、通路内にバトルフィールドが出現した。これは許可された殺し合いなのだ。雨の日限定、傘と傘でのみ許された東京府条例に基づく果たし合い。傘という旧時代の雨具が未だに残っている理由がここにあった。

 相手は血走った目をして突っ込んできた。速くもなく、遅くもない。傘を剣のように振り回したが傘筋は粗い。全て俺にかわされると、今度は傘を広げて幻惑するようにぐるぐると回し始めた。男の得物は十二本骨六十センチの戦闘傘。布の光沢からしてアマゾン社製のプレミアムだろう。なかなか金がかかっている。だが傘を展開すると防御力は上がるが索敵視界が失われてしまう。そんなことすら分からない素人なのだ。俺は相手の動きを注意深く観察した。隙を見てしゃがみ込み、相手の傘の向こうに見える男の軸足をなぎ払った。傘の向こうから小さな呻き声が聞こえた。ガンダリウム合金製のシャフトは一撃で相手の骨を粉砕するほど剛性が高い。ひとたまりもないだろう。

 男は傘を被るような格好でうずくまったまま動かなかった。これで終わりだ。俺は傘を逆手に握り直した。切っ先を下に向け、相手の傘の布越しにとどめを刺そうと勢いをつけて飛び上がった。丸みを帯びた傘はまるで亀の甲羅のようだ。だが俺の傘がそれを貫く一瞬前、甲羅を突き破って何か鋭いものが飛び出してきて、俺の腹に突き刺さった。


 ――気がつくと、俺は床に横たわって虫のように丸まっていた。

 声も出せず、激痛に耐えながら俺は自分の不覚を呪った。俺の腹には小型の折りたたみ傘が刺さっていた。――そうかあいつ、初めからこれを狙ってたんだな。

「俺の勝ちだ」男は不敵な笑みを浮かべた。「そのウォーターフロント、こっちに渡してもらおうか」

 勝者は戦利品として敗者の傘を奪うことができる。だが俺は声を震わせながら首を横に振った。「……こいつはうちの家宝でね、お前さんみたいな素人に扱えるもんじゃないのさ」

 それを聞いて男は小さく眉尻を上げた。「そうか、なら殺して取るだけだ」

 男はゆっくりと傘を畳み始めた。さっきの一撃は確実に男の足を砕いたはずで、ならばそう速くは動けない。足の踏ん張りがきかないからこそ、やつは突き技で決めようとしているのだ。

 俺は歯を食いしばって身を起こした。力は入らず、視界はぼやけた。男は目の前に仁王立ちしているが、このままやられる訳にはいかない。

「馬鹿な若造め」俺は方向を見定めながら呟いた。「……雨が降るのに傘を畳むやつがあるか」

 男は笑ったような表情になっていきなり傘を突き出してきた。チャンスは一度きりだった。切っ先が俺の左目を貫いた。それが眼底に届くやいなや、そのまま左手で男の傘をつかみ、右手で脇腹に刺さった折りたたみを引っこ抜いた。堰き止められていた血が噴水のように噴き出して男の顔に当たった。男は悲鳴とも怒号ともつかない声を上げて顔を伏せた。その瞬間を待っていた。俺は目に傘を刺したまま、最後の力を振り絞って体を起こし、倒れ込むように男の延髄に折りたたみを突き立てた。声にならない声が聞こえ、頸椎が折れるいつもの感覚があった。

 だがそこまでだった。もう息もできなかった。

 破線のように並ぶ通路照明を眩しく感じながら、俺は坂を落ちるように意識を失っていった。


 あの戦いから何日が過ぎたかもう数えていない。

 俺は昏睡から奇跡的に意識を取り戻し、長い療養生活に入っていた。左目の視力は永久に戻らない。腹の痛みも一生続くという。もう決闘はうんざりだった。

 挑戦願いが百件以上届いています――と府の決闘担当が言った。「残念ですが、人が傘を持つ限り、血の雨がやむことはないのです」

 決闘担当は俺の顔を覗き込み、仮面のような笑顔を見せて続けた。「――お受けしても、よろしいですね」

 俺は横を向いて聞こえないふりをした。ベッドの横には血で染まったウォーターフロントが立てかけてあった。祖父の代から受け継いだ家宝の傘。俺にはそのニコちゃんマークが、俺を殺すためにほくそ笑んでいるように見えた。 <了>

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