其の十四

『もうすぐ私は二十歳になるが、飲酒をした場合、本の内容はどうなるのだろう。支離滅裂になるのだろうか、たどたどしくなるのだろうか。ちなみに過去に読んだ酔っ払いの本の中身は十三ページに渡って「エイヒレ」と書かれていた。』


 鳴無家での騒動から早数か月。私はかじかんだ手を擦り合わせながら、バイトへと向かう。空を見上げればすでに群青色になっており、そろそろ日が涼みそうになっているのがわかった。

 もう、冬か? ついこないだまで春だったはずなのだが。

 私は日々の巡る早さに少々混乱しながらも、学業へ勤しんでいる。今も学費や生活費を支払うため、いくつものバイトを掛け持ちしながら、私は今を生きている。忙しかったり、大変なことも少なくはないのだが、時折大家さんが私の家へ料理のお裾分けをしてくれたり、本当にたまにだが、小夜が私の家へやってきて、色んな家事をしてくれる。

 その度に偏食気味な私は説教されるのだが。

 そんなことはともかくとして、私は今、バイト先に向かっている。ここ最近、ちゃんと着こんでいるはずなのに、手足が冷え切り、身体も心なしか冷たくなっている。バイトで結構動いているはずだから、運動不足ではないはずなのだが……。

 すると、私の目の前に人影が差す。反射的にその人影を避けようとした時。


「やあ。お急ぎかい?」


 あまり聞きたくない声が聞こえてくる。振り向こうかなとも考えたが、私はそのままそいつを置いていくことにした。相手にするだけ、時間の無駄だ。

 しかし。


「無視するなんて、相変わらずキミはつれないねぇ」


 そう言って回り込まれてしまう。私は不機嫌な表情を一つも隠さずに、目の前の人物に言葉をぶつける。


「……げ」

「やあ、一昨日ぶり」


 いつものように飄々とした態度で私にそう声を掛けてくる。彼女の言う通り、一昨日も彼女に学内で絡まれて追っ払うのにそこそこ時間が掛かった。私はイライラしながら、太宰の横を通ろうとする。

 だが、太宰の腕によって、進路をふさがれる。私は深い溜息を吐き出しながら、彼女を拒絶するように腕を払う。


「……同性でも犯罪は成立するんですよ?」

「なんてことを言うんだい、おそろしい」


 私が脅すように言っても、彼女はおかしそうに笑うくらいで、遠くに離れる気配はない。いっそのこと本当に交番に駆け込んでやろうか。そんなことを考えていると、太宰は小さく笑いながら言葉を紡ぐ。


「バイト先まで送らせてくれないか? ほら、こんな夕方に女子大生が一人歩くのは危険だよ」

「……貴女もその女子大生でしょう?」

「私は大丈夫だよ。中性的過ぎて、女性にしか狙われない」


 そんなことはないだろ。

 思わず口からそんな言葉が漏れ出てしまいそうだったが、何とか言葉を飲み込みなかったことにする。本当にこの人と会話をしているとイライラしてくる……。

 構わず私がバイト先へ歩き出すと、太宰も私の後を追いかけ始める。鬱陶しい。


「いち、いち、ぜろ、いち、いち、ぜろ……」

「おっとそれはさすがにやめてくれないか? いくら私でも今月三回目になると、警察に顔を覚えられてしまうよ」


 警察屋さんにそんなに顔を覚えられているのかこいつは。

 私は唖然としたが、頭を振り、気を取り戻す。

 いけないいけない。どうも彼女のペースに飲み込まれている気がする。


「……他の女の人に声を掛けれ良いんじゃないんですか? 私なんか相手にしていないで」

「私なんか、じゃないよ。お嬢さん。キミだからこそなんだ」

「…………」


 冗談抜きで鳥肌が立った。背中から全身へかけて一気に。私は自分自身の身体を抱きしめながら太宰に言う。


「きもいです」

「えー」

「えーじゃないです、本っ当にきもいです」

「え、ちょっと」

「本当に無理です」


 太宰の顔がいくら良くても、私には本当に無理だった。私は半ば逃げるように駆け出す。疲労がたまった身体にはかなり厳しい運動だったが、あいつの傍にいるよりかはマシだ。


「また今度ー!」


 能天気な彼女の言葉を尻目に私はバイト先へ駆け出す。冷え性とか疲労とか明日の大学のこととか、ほとんど頭から抜けて落ちた状態で、バイト先まで走り抜けた。

 バイト先に到着し、私はぜえぜえ言いながら、従業員用のロッカールームへ行き、バイト先の制服に着替える。少しだけ汗をかいてしまったが、すぐに乾いてくれる……と願いたい。

 制汗スプレー、持ってくれば良かったなぁ。とハンカチで額の汗を拭いながら、レジへ向かう。レジ付近に打刻するためのパソコンがあるからだ。

 店内は暖房がそこそこ効いていて、ただでさえ熱い身体がさらに熱くなってしまいだったが、文句も言っていられない。数分もすれば落ち着くだろう……そんなことを考えながら、パソコンを使って打刻していると。


「おはよー、そういえば聞いたことある? 湯川さん」


 突然私は声を掛けられる。振り返ってみると、そこには見知ったパートさんが。私に対していつもにこにこしてくれて、しかもかなり親切なパートさんだ。主婦らしいのだが、よく旦那の惚気話をされる。

 今日もその類かな? と考えながら目を向けると、なんだか申告そうな顔をしながらパートさんが、半額シールを手の甲に貼り付けている。


「おはようございます。何の話ですか?」

「ここらへんで女性が襲われてるって話ー」

「……雑談の話題にしては、あまりにも物騒すぎません?」

「そう? まー、注意喚起的なあれだよ。私も近所の噂程度でしか聞いていないんだけどさ」


 パートさんはそう言いながら、消費期限が近い惣菜パンにシールを貼り始める。バーコードに赤い線も描き、レジ打ちにもわかりやすいようにする。


「なんかね。おじさんとか悪いおにーさんとかがやってるわけじゃなくて、女が女を襲ってるらしいよー」

「……ご時世ですかね?」

「なんでもご時世で片付けていい問題じゃないけどねぇ」


 けらけらとパートさんは笑いながら、作業を続ける。その間私はレジに自分の名前を登録し、お客さんに応対できるように準備する。


「湯川さん、最近やつれ気味だから気を付けなよー? がおーってされたら抵抗できなさそうだし」

「がおーってなんですかがおーって」

「あははは」


 パートさんは笑いながら、作業を続ける。十分もしないうちにパートさんは日配のチェックを終わらせ、レジ近くの壁に背中を預ける。

 夜担当の社員さんは事務所で帳簿を取っているし、他のバイトさんも暇そうに店内を掃除している。


「……がおーって襲ってくれるなら、近所の誰かが気が付くなりするもんだと思うんだけど、どうも変な話でね」

「変な話?」

「そう、被害は確認されているんだけど、だぁれもその現場を見てないんだってねぇ」

「…………それも近所の噂話?」

「そんなとこ、実際はわっかんないけどねぇ」


 パートさんはそう言い、広告用のポップを一つつまみ「これ古いやつじゃん」と言い、ポップを外し、ゴミ箱へ捨てる。


「ま、気を付けなよー? 本当に今の湯川さん、簡単に食べられちゃいそうだから」

「脅かさないでくださいよ……」

「あっはっはっはっー」




 仕事が終わった帰り道、私は大きなあくびを作り上げながら、夜道を歩く。

 当たり前だが、人通りも車通りも少なく、ぽつ、ぽつと点灯している街灯だけが、夜道を照らしている。そんな光景を見ていると、パートさんが言っていた事件を思い出してしまう。

 こんな暗闇で襲われたら……うん、早く帰らないと。

 そう考え、歩く速度を上げたその時、目の前に人影が差す。

 そこに居たのは……由香だった。


「……あれ? 由香?」


 私は首を傾げながら、由香に近づく。スマートフォンを覗き込んでいた由香は、ゆっくりと振り向き。


「おう、偶然」


 と言い始める。私は不思議に思う。何故ここに由香がいるんだ? と。しかしそんな私の考えを見抜いたのか。


「大学の友人に用事があってね。こっちで遊んでた」

「……あれ。家の手伝いは?」

「今日は休み。お義母さんが腰痛いって」


 確かに由香の義母は腰が痛いと聞いてはいたが……。


「んで、家で付きっきりで看病しようとしたら、『少しは大学生らしいことしろ』って怒られたってわけ」

「……友達と遊ぶことが大学生らしいこと?」

「お義母さんは認めてくれたけどな」

「なんでまた」


 私は頭を抱えながら、家に向けて歩き始める。今日はもう遅い、さっさと帰らないと……。


「……由香、終電は?」

「あ? あー……」

「あー、じゃないよ。私の家泊まる? 狭いけど」

「そーさせてもらいまーす」

「由香……あんたね」


 私は由香の肩をかるーくチョップし、歩き始める。疲労困憊であるこの身体を早く休ませたい。

 そんな私の後ろにぴったりと由香がつく……いや、もはや腕を組んでいた。振りほどく気力すらわからない私は。


「好きにして……」

「言ったな?」

「……手加減して」

「…………ちぇ」

「ちぇ。じゃないよ」


 そのあと、私と由香は二人で私の家へ向かった。

 ほどなくして家へ到着し、私は鍵を開け、玄関の扉を開く。部屋は当たり前だが真っ暗であり、私はすぐに電気をつける。片づけるように努力はしているのだが、食べ終わった弁当の器であったり、大量のレトルト食品の空箱が机の上に重なってしまっている。

 それを見てか、由香が顔をしかめる。


「……お前な」

「見なかったことに……」

「できるわけねぇだろ。飯は?」

「……タベタヨ?」

「いつ」

「…………昼」

「……はぁぁぁぁ」


 由香は深い深いため息を漏らしながら、私の部屋へ上がりこみ、キッチンと冷蔵庫を確認する。すると、さらに頭を抱え始める。


「なんもねぇ」

「なんも買ってないから」

「……そういう問題じゃないだろ」


 由香はそう言うと、自分の荷物を持ち、玄関に立つ。

 来たばかりなのに、帰るのかな? と考えたが、由香がすぐに私に声を掛ける。


「コンビニで軽く食材買ってくる。ちゃんと食べさせるまで帰んねぇからな」

「疲れたから寝たいんだけど……」

「寝たら襲うぞ」

「やめてよ恐ろしい」


 冗談だよ。由香はいたずらっぽく言うと、靴を履いて外へ出て行ってしまった。由香に鍵は渡していない。開けっ放しであろうが、施錠したままであろうが、どちらにしてもこのまま寝たら私の明日が危ない。

 疲労でギシギシ言っている身体を無理矢理動かし、由香が料理をするためのスペースを確保しながら、私は首をぐりぐりと回す。

 首から音は鳴らなかったが、十分に疲れている、そんな気がした。

 しばらくすると、由香が帰って来たのか、私の玄関ドアを軽く叩く。私は床の上に座りながら。


「開いてるよ」


 と返す。すると玄関ドアがすぐに開き、由香が驚いたような表情を浮かべ、部屋の中に入ってくる。


「おま……鍵掛けとけよ」

「すぐに帰ってくると思ったし」

「だったとしても、だ」


 そう言いながら、由香は近所のコンビニで買ってきたであろう食材をキッチンに並べ始める。何を作るつもりだろうか? 覗き込もうかとも思ったが、うまく身体を動かせない。


「疲れてんだろ? 恵里衣は座ってろ」


 由香にそう言われ、私はおとなしく、座っていることにする。

 家のコンロが使われたのはいつぶりだったか、由香はテキパキと料理を作っている。先程キッチンや冷蔵庫を覗いた時に調味料とかも確認していたのだろうか。


「……恵里衣」

「ん?」

「恵里衣は、止まるつもり、ないんだよな」


 由香は料理をしながらそんなことを尋ねてくる。私は質問の意図がわからず聞き返す。


「止まるって?」

「色んなやつに言われてるだろうが……今のお前は本当に疲れているように見える。いっつも勉強してるし、いっつもバイトしてる。しかも援助もほっとんど断ってる」

「……うん、最近よく無理してる? って聞かれる」


 小夜、朱夜さん、お隣さん、大家さん、そして……由香。


「色んなやつに言われても、お前は今の生活をやめるつもりはないんだな? そう聞いてる」

「……ん、まぁ」


 私がそう返すと、由香は包丁を洗いながら深い溜息を吐き出す。


「……多分、そろそろ言ってねぇしっぺ返し食らうぞ」

「しっぺ返し? そりゃあ体調はあんまり良くないけど……」

「そういうことじゃなくて……ああ、もういいや」


 由香は何か諦めたように首を振り、フライパンから料理を平皿へ移す。


「ほら、チャンプルー。ちょっとはバランスを考えながら、飯食え」


 そう由香に言われ、私は平皿を受け取りながら。


「うん、努力する」


 そう返した。


「努力する、じゃ足りねぇんだよ」


 由香にそう言われたかと思うと、額を軽く指で弾かれる。痛くはないのだが、平皿を持ったままひっくり返りそうになる。

 そんな私を見て、由香は再び頭を抱える。


「食べさせてやろうか?」

「遠慮します」


 私はゆっくりと起き上がりながら、由香にそう返した。




 水の音を聞きながら私はボールペンを走らせる。顔を上げると、そこにはキッチン立つ小夜の姿があった。

 今日は、バイトと学業が休みの日。

 小夜へ、由香に夜食を作ってもらった話をしたら、小夜が。


「私も作る!」


 と聞かなかったため、私の家に小夜を上げた。

 小夜は慣れない手つきながらも、朱夜さん直伝ロールキャベツを作ってくれたのだ。トマトベースでとても、とっっっても美味しかった。

 今は食後、小夜は先程使った食器を洗ってくれている。


「恵里衣お姉さん。私は主張したいことがある」


 小夜は洗い終わった食器を定位置に戻しながら、私に声を掛ける。私はと言うと、大学から出た課題を片づけていた。ある程度大学の図書館でまとめていたため、そこまでの時間が掛かるでもない。

 端っこが少し汚れたルーズリーフを片づけながら、私は小夜の方を向く。


「どうかした?」


 私がそう返すと、小夜はハンドタオルで濡れた手を拭きながら、私の方へ身体を向ける。

 今日の小夜は家庭科でも使っているエプロンを身に着けている。自分で作ったとのことだが、既製品だと勘違いするほど綺麗に作られている。何故かワッペンには大量のひよこが取り付けてあったが、気にしないことにする。

 そんな小夜が咳払いをし。


「もっと、どんと、私に頼ってくれても良いんだぞ」


 小夜は自分の胸を叩きながら言う。まだ小学生だと言うのにその姿はかなり頼もしい。私は小さく「わー」と声を漏らす。すると小夜はほんの少しだけムッとした表情になる。


「わー、じゃないんだよ恵里衣お姉さん」

「え」

「私は本気だぞ? 恵里衣お姉さんはあまりにも無茶しすぎてる」


 私はそんな小夜の言葉に対して、返答に困ってしまう。小夜の優しさはとても嬉しい、嬉しいのだが……。


「小夜の気持ちはとっても嬉しいけど、私は小夜が無茶しないようにしてほしい、かな」


 私がそう言うと、小夜は一瞬震える。そして、エプロンの裾を両手で掴みながら、声を絞りだす。


「そんなに……っ」


 身体を少しだけ震わせながら、小夜が声を荒げる。そんな珍しい小夜の姿を見て、私は固まる。小夜は私の目の前へ座り、言葉を続ける。


「そんなに、私は、頼りないか」


 小夜の言葉に私の口の中が一気に干上がる。小夜を心配させたくない、無理をさせたくない、そんなことばかりを考えていた。

 ……私の頭の中で考えていただけで、私は小夜にそのことをしっかりと伝えただろうか。私は震える手で小夜のノートを取る。小夜は抵抗もせず、私が本を読むのを待つ。


『力になれない、私が嫌だ』

『もっと早く生まれることができたなら、恵里衣お姉ちゃんと年齢が近ければ』

『もっと助けることができたのだろうか』

『私は、あまりにも……あまりにも』

『無力だ』


「そんな……っ」

「『そんなことはない』。恵里衣お姉さんは優しいからきっとそう言ってくれるかもしれないけれど、私は本当に無力感を覚えているんだ」


 小夜はそう言いながら、顔を伏せ、身体を丸める。


「私は、あまりにも、無力なんだ」


 俯き、小さく小さく小夜は呟く。そんな小夜を見て、私は。

 何も言うことができなかった。何もしてあげることが、できなかった。




「おーい? お嬢さーん?」


 私はハッと顔を上げる。そこにはパーマがかかった黒髪、大きな丸眼鏡を掛け、中性的な顔立ちの人間。

 そう、太宰が居た。

 私は急いで後ろに下がろうとしたが、背もたれ付きのパイプ椅子に座っていたため、つっかえてしまう。そしてそのまま後ろへ倒れそうになった……が。


「おっと。あわてんぼうさんだね」


 いつの間にか太宰が私の背中に手を回していた。私は全身に鳥肌が立ち、さらに離れようと身をよじらせる。

 しかしなかなかうまくこの状況を打破することができない。


「そんなに邪険にしないでくれよ。本当に助けたい、それだけなんだ」


 太宰はそう言うと、椅子を元に戻しながら、私からそっと離れる。私は机の上の筆記用具を片づけながら。


「……すみません。ありがとうございます」


 と足早に言う。私のそんなぶっきらぼうな言葉に対し、太宰はにこにこと笑いながら。


「キミの助けになったのなら、本望だよ」


 と返す。相変わらず彼女が何を考えているのかわからない。

 そんな太宰を無視し、筆記用具を片付け、私は思案する。

 小夜に「私は、あまりにも、無力なんだ」と言わせてしまったことに対して、私は少なからずショックを受けていた。

 あの日の小夜は私に向かって悔しさを吐露したあと、いつも通りに戻った。

 ……いや、正確には戻っていないとは思うが、それでも小夜は以前のまま、接してくれようとしているということはわかった。

 小夜に気を遣わせてしまっている。

 そう知ってしまった私は.。私はどうしたら……。


「これからランチかい?」

「……弁当ですけど」

「おお、そっか」


 太宰は一瞬だけ何か考え込むような動作をした後、ぽんと手を合わせる。

 

「ご一緒しても良いか? 今のキミを一人にしておくのは……ねぇ?」

「いや……遠慮します」

「うーん、相変わらずつれないね」


 私が断っても、太宰はにこにこと笑いながら迫ってくる。なんだろう、他人事であれば良い人なんだろうが、当事者である私にとってはたまったものではない。

 確かに優しいし、親切な人だ。

 けど、前にも感じたことだが、この人は何かおかしい。底知れない何かがある。

 どうやってお誘いを断ろうか、定まらない思考でそんなことを考えていると。


「おい、何してんだ」


 低い声が私の耳に入る。振り返るとそこには由香の姿が。眉間に皺を寄せ、太宰に対して敵意をむき出しにしている。

 私は急いで由香と太宰の間を遮るように腕を伸ばし、由香を制する。このままだと何をしでかすかわかったもんではない。しかしそんな私の言葉が聞こえなかったのか、意図的に無視したのか、由香はさらに太宰に向かって詰め寄る。

 由香の言葉を聞いて太宰は肩をすくめ。


「別に? ランチにお誘いしただけさ」


 と悪びれもなく言う。由香はわざとらしく舌打ちをする。見ていてわかる。今の由香は相当機嫌が悪い。

 いざとなかったら身体を這ってでも止めないと。

 そう感じてしまうほど。由香は興奮している。どうやったら太宰から由香を引き剥がすか、この前みたいに飛び蹴りとかさせないようにしないと……。

 そんなことを考えていると。


「どうやら私はお邪魔みたいだね」


 唐突に太宰がそんなことを言い始める。驚いた私は思わず太宰の方を見てしまった。太宰は首の後ろを搔きむしりながら溜息を零している。

 そして私に向かって軽くウインクをすると、そのままどこかへ向かって歩き始める。軽く手を振りながら。

 助かった……のか? 私は由香に向かって文句を言おうとしたが、口を開く前に由香が私の手を引っ張ってしまう。私は転びそうになりながら、空いていた方の手で荷物を取り、歩き始める。


「由香?」

「…………」


 反応してくれない。


「由香……っ」

「…………」


 引かれている腕を少しだけ引っ張り返す。しかし由香は止まらない。


「由香!!」


 無言で引っ張る由香の手を振り払うように腕を振るう。

 だが、びっくりするくらい動かない。何という馬鹿力……っ。

 しかし大声を上げたのには効果があったらしく、由香は止まり、私の方へ向き直った。そして。


「……なにもされなかったか?」

「なにもされなかったよ。本当にお昼ごはんに誘われただけだよ」

「そっか」


 そう言ったかと思うと、由香はまた歩き始める。今度は私の手を引っ張らなかったが。

 そんな由香に私は少しムッとし、声を掛ける。


「由香、何か変だよ」


 私がそう言うと、由香は一瞬身体を震わせ、停止する。ゆっくりと振り返ったかと思うと、彼女は困ったような表情を浮かべ。


「あー、うん。そのごめん」


 と言う。私は煮え切らない由香の態度を見て、彼女の分厚い本を取ろうとした……が何とか理性で抑えつける。

 大学生活が始まってから私は、誰かに促されない限り、自分から他人の本を読むことはなかった。できるならこれからも貫き通したい。

 すると、そんな様子を見てか由香は少しだけ息を吐き。


「……読まないのか?」


 と尋ねてくる。私は荷物を持ち直しながら。


「読まない。由香が隠し事するなら……それもしょうがないって思う、ことにした」


 私は由香にはっきりとそう伝える。すると由香は少しだけ驚き。すぐに顔を伏せる。

 その表情は窺い知ることができない。


「そっか。そう、だよな。それが普通なんだよな」


 由香はそう言いながら、顔を上げ、私を手招きする。


「お昼まだなんだろ? 食べに行こうぜ」

「……私弁当」

「知ってるよ。中庭の日向で食べようぜ」


 そう言って由香はいつも通りの笑顔を浮かべる。由香のよくわからない態度に首を傾げながら、私は由香の隣まで近づき、一緒に歩き始める。


「……さすがに寒くない?」


 学内の廊下を歩きながら私が由香に言う。


「防寒具をしっかりとつけてりゃ平気だろ」

「由香と違って寒がりなんだけど」

「それはお前の食生活の問題だろ?」

「それは問題にならなくない?」

「なるんだっての。食堂の娘だからわかる」

「いや、絶対にそれ関係ない……」


 そんなくだらないことを言い合いながら、私と由香は廊下を突き進む。


「今日は私も弁当持ってきてっから」

「え? そうなの?」

「誰かさんの栄養バランスが心配でね」

「……そっ、ソンナコトナイヨ?」

「そんなことあるだろうが、引っぺがすぞ」

「何を……?」


 廊下を抜け、私と由香は大学の中庭に出る。気温が低いのもあり、春や秋に比べれば人が少ないものの、複数人中庭でコンビニ弁当を広げ談笑しながら食べている。

 私は現在時刻を確認するため、スマートフォンを取り出し、ロックを解除する。


「……わ。もう充電が」

「ん? 充電でも忘れたのか?」


 何か大きく立派な弁当を取り出しながら、由香が私に問いかける。私はスマートフォンの画面を閉じながら、自分のおにぎりを取り出そうと荷物を探る。


「ここ最近本当に充電が減るの早くて……」

「そんなに年数経ってたっけ?」

「いや、そんなことないと思うんだけど」


 私は首を傾げながら、おにぎりを頬張る。すると、由香が箸を私に差し出してくる。挟まっていたのは、大きな鶏の照り焼き。

 絶対、美味しい。美味しいが……。食べ物を呑み込み私は由香に文句を言う。


「あーんはやだ」

「えー我儘な」

「正当な理由!!」

「えー……」

「絶対に食べないから」

「わかったわかったよ。本当に我儘な姫君なんだから……」

「誰が我儘かっ」


 私は由香の箸をひったくり、鶏の照り焼きを食べる。

 ……とてもおいしい。自然と顔が緩んでしまう。

 すると、それを見ていた由香がなんかドヤ顔をしている。

 それをみた私は、何だか気恥ずかしくなり、由香の鎖骨を軽く叩いた。




つづく。

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