403
失踪者たちが続々と帰還を果たしてから四日後。
メディアの情報は、まさにセレンが言っていた通りに終息し始め、世間が次第にその話題に対して気持ちが薄れ始めていた時、季人とウィルはワールドアパートの更新をしつつ、やはり自分達が足を踏み入れた不可解な事件についての足取りを継続して追い続けていた。
これは、ワールドアパートとしては、戒律に反する行為だ。
しかし、戒律は運営上のものであり、これはホームページの運営とは別で二人は調査をしている。
よってその調査結果が、サイトに載る事は決してない。
二人はまず、季人が意識を奪われた時の曲が手掛かりの一つになるかもしれないと思い、ヘッドフォンを通してウィルのパソコン内に保存されていた音楽ホールでの会話記録を精査した。 そして、それは微かではあったが、確かに残っていた。
季人もウィルも、生憎とクラシック方面に関しては無頓着だったが故に、特定するに至るまでは音楽教室や楽団へと足を運び、ようやくその苦労が実を結んでその曲の事が判明したのは三日後だった。
その笛の調は、二十世紀を代表する作曲家が作ったシェイクスピアの戯曲、ハムレットを題材としたもの。
ハムレットは世間一般でもよく知られている彼の者の四代悲劇の内の一つで、策謀と誤解、愛と憎しみ。 誰も救われない、復讐の物語。
その物語の中で多くの芸術家、特に画家を虜にし、今でも心を引き付けて離さない一場面がある。
セレンの笛で演奏した曲は、その絵画と同じ一場面を表したもの。
悲恋に翻弄され、恋人であったハムレットに父ポローニアス殺され、その死を発端として狂ってしまった少女オフィーリアの最後を謳った調だった。
しかし、調査した結果はそこまでの話でしかなかった。
そのハムレットの曲は世界中で何度も演奏されており、決して特別な物ではなく、セレンへと直接つながる要素にはなりえなかったのだ。
分った事と言えば、セレンにとって力を発揮させるのに、曲目は関係ないことくらいだった。
その調査結果に落ち込むことなく、二人は次々と気になる部位に手を伸ばしていく。
何よりも着目したのは、やはり音楽によって人を操るという点と、サウンドメディカルについてだった……。
「現状だとこれが限界だね。 それでも、かなり突っ込んだ部分まで入り込んだとは思うけど」
ウィルの部屋、事務所と化しているワールドアパート本部にて、ウィルは間断なくPCを操作し続けていたが、その手がここで一旦止まる。
「充分だろ。 流石は天才ハッカーだな、敵には回したくない男だ。 これは、給料を弾ませないと引き抜かれるかもな」
壁に立て付けてあるコルクボードに所狭しと張られた、事件に関連性のある記事の切り抜きや印刷した用紙を見ていた季人は、一度それから視線を外して称賛を告げる。
「そんなもの頂いたことあったかな? 俸禄はハンバーガーでいいよ。 それが僕にとっては至高」
「なんて安上がり……。 で?」
ウィルはUSBで繋がれていたタブレットを季人に手渡した。
季人が情報を収集する足なら、ウィルはネットに散らばった情報担当。 二人は……もとい、ウィルはその力をいかんなく発揮した情報収集能力で、フルタイムに近い時間を使い、今までサウンドメディカルを探っていた。
「まぁ既にその方面で結果を出している企業だからね。 医療用として普及しているもので類似した仕組みの物から調べ始めていったんだけど、現状で一番新しいモデルが、ハイレゾ対応のデジタルオーディオスピーカー型メディカルマシン。 音響治療機器っていう新しい分野のシステムだ。 プログラミングされているコードの一部が、御伽ちゃんも持っていたスマートフォンに内蔵されているサウンドデバイスに使われてる」
ハイレゾとは、今まで本来の音源で収録しきれず、削除されてしまっていた情報量をより明確に再現した、いわば原音により近い音声を再現したものだ。
「じゃあ、サウンドメディカルのマシンはその殆どに人を操れるプログラムが施されているっていうのか?」
想像するだけでゾッとする。 もしそうだとしたら、もはや自分たちの手に負える物じゃない。 それどころか、もう誰にも止められない。 町中どころか、国中、世界中にサウンドメディカルという蜘蛛の巣が張られているようなものだ。
しかし、季人の悲観的な想像は直ぐにウィルによって否定される。
「いや、このプログラムをハードから出力するための技術は、最近になって完成したものみたいだ。 ソフト面のアップデートだけじゃ人を操るだけの力は出せないと思うよ」
最近というのは失踪事件が始まったころという事だろう。
「まぁ、これから出てくるプロダクトタイプには、殆ど搭載されているだろうけどね。 あの携帯がいい例だ」
「そう考えると、医療系企業って肩書が既にもう胡散臭さ大爆発だな」
人攫いに一枚かんでいる時点で爆発どころか臨界スピードを超えている。
「季人の言う事はもっともだ。 この音楽を利用した……というより、波長を利用したシステム。 既に世界で研究は進められていたとはいっても、これだけ実用的なレベルに持っていくのは、一民間レベルでは正しく脅威と言っていいだろうね」
「だよな。 なんせこれ、技術革新のレベルだろ。 蝋燭がLEDにとか、VHSがブルーレイに進化する次元だろ?」
「うん。 それでこのプログラム、僕たちは初めセレンの事も含めて、ハーメルンの笛吹き男みたいだなんて言ってたけど、サウンドメディカルはもっと女性的な名前を付けていたよ」
「女性的?」
――「システム・セイレーン。 ギリシャ神話に登場する、上半身が女性で、下半身が魚の人魚のような姿をした、歌声で人を惑わせる怪物の名前だよ」
岩礁よりその歌声で船乗りたちを遭難や難破させる、美貌と美声を併せ持った存在。
多くの逸話があり、時には姉妹であったり、ハーメルンの伝承があるドイツでは、ローレライの一種であるとも言われている。
有名な逸話としては、セイレーンの歌が聞こえても誘われない様に、両耳に蝋で耳栓をすることにより、呪いにも似たその歌から逃れる事が出来たという。
そして、歌を聞かせても生き残った人間がいた場合、セイレーンは自ら海に身を投げて死んでしまう運命なのだ。
「その話なら知ってるぜ。 共感できる奴が物語に出てくるからな」
「オデュッセウスだね。 興味本位でセイレーンの歌を聞いてみたいとか言いだして、マストに自分の体を縛りつけて船員には耳栓をさせて、セイレーンに誘われるのを防ぐなんて、まるで君みたいな奴だ。 付き合わされる船員には同情するね」
その美女に会いたいが為に、最悪心中に付き合わされる部下達の事を思えば、確かに不憫ではある。
だが、しかし……。
「やっぱり、男ってのは古今東西、美女と探究心には勝てないように出来てるんだって」
拳に力を籠め、季人は確信の籠った瞳でウィルに断言する。
ただ、オデュッセウスの意思まで投影して口にしたそれは、暖簾でも払うように軽く流された。
「はいはい。 で話を戻すけど、元々このシステムは、医療用やカウンセリング用にと開発されたものだったんだ。 身体的障害や精神的障害を持った人達を、音楽の力で治療するだけでなく、運動能力をサポートするのが目的のシステムだったんだよ。 身を持って味わった今の君になら、何となくでも分かるだろう? 聴覚から脳にアクセスして神経を経由し、筋肉を動かすっていうのは本当に革新的な技術だと思うよ」
「まぁ俺の場合は麻酔効果とでもいうのか、意識を失ったからな」
睡眠導入剤なんて目じゃない位の速さで、自分の感覚が自らの意思から離れていったのを思い出す。
「しかしそうか。 確かにウィルの言う通り、松葉杖の代わりにイヤホンなり音楽を聴く術を身近に用意しておけば、自分の意志ではどうにもならない自分の筋肉が勝手に歩行をサポートしてくれるんだ。 最高のシステムじゃないか」
精神治療のみならず、運動神経にまで作用するとなれば、それはもはや医学界のアインシュタイン。 ノーベル賞どころの騒ぎではない。 各機関、あらゆる業界から引っ張りだこになること請け合いだ。 間違いなく歴史と医学教本に載ることとなるだろう。
だが、実際にはそんな事にはなっていない。
医療業界ではそれなりに賑わったかもしれないが、大々的にニュースに取り上げられたという話すら聞いた事が無い。
もしかしたら一時そんなニュースが流れた事もあったかもしれないが、季人もウィルも耳にしたことが無かったくらいなのだから、やはりそれほど大きくは報道されなかったのだろう。
それが一体何故なのかは分らないが、簡単な予想くらいなら季人とウィルにも出来た。
難しい話ではない。 言うなれば、現代の麻酔や、飛行機、睡眠時の夢……等々。 そこには確かに存在しているが、メカニズムが解明されていない分野と同類ではないかという事だ。
音楽が医療の常識を変える。 考えるだけでも常識の外にあるかのような力。
クラークの三法則ではないが、まさに魔法の様な力だと季人は思う。
サウンドメディカルがその分野に特化した企業であり、その力を使って急成長を遂げたといっても、その全てを解明しきったとは言い切れない。
もし解明しきっていたとしたら、きっと世界は良くも悪くも今とは違った様相を呈していることだろう。
「その開発の為に、当時このシステムの根幹を作成したフランク・レイノルズ博士は、社長という立場も兼任して方々に根を回していたみたいだ」
随分な熱の入れようだと思っていた季人の手元、タブレットを指さすウィル。
そこには、システム開発に関する当時のメディアが報じた詳細の書かれた文章と一緒に、四十代位に見える細見の体とルックス、真剣な眼差しを湛えたフランク博士の画像データが添付されていた。
「ん? レイノルズ? あとこの博士の隣にいるのは……」と、季人が画像を拡大してみる。
「分らないかい? その写真は十二歳の時の物らしい。 君が出会った少女というのはきっとそこに移った子の五年後の姿だ」
言われてみれば、先日見た時よりも髪が短いが……。
この頃から既に将来有望な顔立ちをしている。 目元は父親にそっくりだ。
「……なるほど、間違いない。 セレンか」
「うん。 だけど、メディアにその少女がセレンだと名前が載ったことは一度もないんだ。 大抵が一人娘とか、少女っていう名詞でしか出てこなかったよ。 保護者が名前を出さないようにと要請した事もあるだろうけど、周りの注目は研究内容だけだったみたいだね」
「枯れてるな~」
「へはは。 それだけ、フランク氏の打ち出した研究内容が眩しかったってことなんだろうね」
タブレットに添付ファイルが送信され、ピコンと通知音が鳴る。 今PCの前にいるウィルから送られたものだ。
「それはサウンドメディカルが会社という形になる前、フランク氏がレポートとしてまとめていた資料を僕なりにまとめ直した物だ」
「そんなもの、どうやって……?」
「当時の研究室があった大学のメインサーバーに、研究当初の実験内容が少しだけ残ってた。 けど、本当に初期の物しか残ってなかったんだ。 それと当時のマスメディアの取材内容から該当する項目をひたすら引っ張ってきた。 スポンサー集めに公開していた内容が殆どだから、真新しい情報はそんなに無いけど、マスコミの貪欲な情報収集能力はバカに出来ないからね。 プライベートなんて在って無いようなものだし。 あとは、僕の推測が少々。 だけど、結構自身はあるよ」
季人がタブレットに表示された資料のアイコンをダブルタップする。 すると、文字の羅列とゴシップ紙から切り取った画像などが張られている調査資料が全面に表示される。
それを確認したウィルが、一拍置いてから語りはじめる。
「このシステム誕生の始まりは、自分の娘であったセレンに、音楽の才能を見いだす以外にも、特異な力がある事を発見したのがきっかけだった」
「セレンの力は、先天的なものだったのか?」
ウィルは頷いて、自分のPCを操作して、季人に渡したものと同じ資料をモニターに表示させる。
「最初に確認された力の発現は、ある日音楽学校の講師でもあったセレンの母親から、フルートのレッスンを受けていた時だった。 セレンの奏でるその音色を聞いていた母親は、自分の精神状態に高揚感のような、多幸感とも言える変化が起きている事に気がついたらしい」
「それって普段音楽を聴いてる時に感じる精神的なテンションの変化とは違うのか? 俺だって好きな音楽を聴いたら気分はよくなるぞ」
「どうやらその演奏していたのが簡単な練習用課題で、それほど上手に演奏できていない上での影響だったらしい」
「あ~なるほどね」と季人は納得する。 流石につたない演奏で感情の針は振れないだろう。
「それはセレン自身にとっても、力を確認し、知覚した最初の出来事だった。 己の感情が演奏を通して他者に与える影響に初めて気がついたセレンは、元来の音楽的才能と、尊敬し、講師でもあった母への愛情をその音色に乗せて、毎日の様に演奏を続けていた。 フランク博士はその娘の才能と能力に胸を躍らせただろうし、音楽医療を確立する為、これほど心強いものはなかっただろう」
夫婦が音楽関係の仕事に付き、その娘に特別な力が宿っていた。
もしも神様って奴が本当にいるのなら、これだけ美しい気まぐれもそうあるもんじゃない。 粋な贈り物をしてくれるもんだ。
季人が微笑ましく思いつつ、その気まぐれな贈り物を自分も欲しいものだと笑っていたが、ウィルは反対に消沈した乾いた笑みを浮かべていた。
「しかし悲しいかな。 セレンには才能がありすぎた。 いや……その能力が、フランク氏が想定している以上に強すぎたと言うべきかな」
「……強すぎた?」
ウィルが頷く。
「まだ幼かった彼女の無邪気な心は、母を喜ばせたいという思いを素直に演奏として自身の能力と共に乗せていたが、それを毎日のように聞いていた母親は少しずつ、徐々にではあるが精神に影響が出始めていた」
セレンの力。 今の完成されたシステムと同等か、似たようなものだとしたら……。
フルートの音色と共に、無意識に毎日交感神経、副交感神経に作用する力を浴び続けたセレンの母親は、娘の喜ばせたいという気持ちを延々と多幸感として受け続けてきた事になる。
「言うなればね、彼女の演奏の影響は図らずも麻薬のような効果を母親に与えていたんだ。 聞いていた母親本人ですら気づかないほどゆっくりと。 しかし、確実にね」
じっと聞いていた季人が納得するように頷く。
「麻薬か……。 確かに、内容だけを見るなら、そういう事になるんだろうな。 中毒性があるかは知らないけどよ」
「本来、セレンの演奏を聴いても強い中毒性は無いらしい。 けど、常習的に聞いていた母親は例外だ。 自身でも気付かぬ間に、完全に依存体質へと陥っていたようだ。 母の様子が次第に変わっていき、ただのレッスンではなく、演奏の強要という形に日常がシフトしていく事を感じていたセレンは、次第に母親に対して違和感を感じ初めた。 加えて連日長時間に及ぶレッスンで、初めの頃に持っていたモチベーションは徐々に下がっていった」
そりゃそうだろうと季人は共感する。 ただでさえ年ごろの子供は気持ちの移り変わりが激しい。 生活環境によってその幅は様々だろうが、少なくとも穏やかなレッスンが急にスパルタの様相を呈したら、セレンのテンションだって下がるはずだ。
「そして、それは当然、彼女の能力へ影響を及ぼした。 楽しかった時の演奏が多幸感を与えるのに対して、落ち込んだ気分の時に演奏するものが与える結果は……分るだろう?」
「……ああ。 鬱だな」
季人の答えに、ウィルは頷く。
「そう。 多幸感をもたらしていた時とは一転して、今度は抑鬱的な精神疾患を母親にもたらしたんだ」
抑鬱となれば、不安、悲壮、焦燥、空虚といった全ての負の感情を抱き、それはやがて肉体的な影響を及ぼす。 食欲は無くなり、集中力や記憶力は低下し、最終的には生きる活力を失って、最悪の場合、自殺を考慮し始める。
「笑顔の絶えない幸せだった家庭は、それを機に不協和音を響かせながら、一気に転落していった」
「……」
「セレンの母はその後精神病院に入ったが、一月とたたず衰弱死した。 セレンの演奏による回復も試みたようだけど、その時にはもう、母親の耳には彼女の演奏は聞こえない状況だったんだろうね」
生きる意味が消失する。 それはつまり、五感の存在理由の消滅だ。
音を捉えられない母親には、彼女の力は届かなかったのだろう。
想像する事しか出来ないが、その時のセレンの心中は想像を絶する。
たとえ意図しないものだったとしても、自分の演奏が、母親を廃人にしてしまったのだから。
「だが、そこでフランク氏の研究は終わらなかった。 いや、むしろそこからが本当の始まりだったのかもしれない。 セレンの能力が母の死を境にしてより強力な物へと変わった事もあり、幸せな家族としてのあり方は崩壊したが、博士の研究自体は継続して続けられた」
「……執念だな」
それが、自分の研究に向けたものか、亡き妻に向けたものかは分らないが。
「ここからは僕の推測も交えるけど、奥さんの死から数年後に研究は実を結び、政府への認可を求めようとしていた時に、大学時代に研究を共にしていた経済学部出身の那須厚貴という男が、システム・セイレーンは軍事的利用価値があると進言し、転用可能なことを申し出た。 当然、医療目的にしか考えていなかったフランク氏と那須は対立。 話は平行線の一途をたどり、論争に決着を見ないままシステム・セイレーンが医学界に発表される……はずだった」
季人のタブレットに再度送られる添付ファイル。 開くと、新聞の切り抜き記事が表示される。
「システム発表の直前、フランク氏は会社からの帰宅途中に交通事故によって事故死した」
「それは、本当に事故死だったのか? どうにも胡散臭いタイミングだな」
意見の対立から始まり、要となるシステムの利用を巡る策謀。 その最高責任者は、尊い者の犠牲の果てに完成したシステムが社会へ羽ばたく前に、この世を去った。
「記録上ではね。 真実がどうだったかは、ネットの海には落ちてなかったよ。 ともかく、こうしてシステムは認可も見送られて日の目を見ないまま消えていった」
「……ん? その那須っていう男が発表したんじゃないのか?」
「プログラミングコードは高度な暗号化が施されていて、複製や解読はフランク氏にしか出来ないものだったらしい。 まぁ、発表前に一悶着あった上に、それが軍事利用される可能性があるとしたら、本人も慎重にならざるをえなかったんだろう」
「厄災が飛び出す事を予期して、パンドラの箱に鍵を閉めたってことか」
それも、ギリギリのタイミングで。
フランクにとってはそれが唯一の救いと言ったところか。
「でも、最近になってその技術の一端が使われている商品が出回るようになった。 それが、最近出回っているメディカルマシンや携帯電話に使われているサウンドデバイスであり、世間を賑わせていた都庁前駅に設置されたスピーカーだ」
「消えたはずの技術が、形を変えて医療とは関係のない別の所から出てきたわけだ」
「恐らく、現社長が研究データを使えるところまでサルベージして、何とか形にしたんだろう。 本来の性能とまではいかなかったはずだけど。 それでも、効果のほどは十分だったようだ」
「……現社長っていうのはやっぱり」
薄々答えは分っていたが、季人はウィルに尋ねた。
「もちろん、那須厚貴代表取締。 いや~、本当に上手くやったよね」
上手くやったというのは、つまりそういう事だ。
妻を失い、家庭は崩壊し、それでも執念で完成させたシステムを、ハイエナの如く漁夫の利で奪い去り、社長という地位まで手に入れた那須という男。 叩けば真黒な埃が出てきそうだ。
「……なぁウィル、セレンの情報は何か掴んだか?」
一週間前に音楽ホールで出会ったセレンは、年頃から見て普通に学生として勉学に励んでいそうなものだが、そんな風には見えなかった。
話し方から教養はありそうだったが、言葉を濁さすに言えば、籠に囲われ、純粋培養されているような雰囲気だった。 とても学校に行っているようには思えない。
事件の首謀者……なのかどうかも、まだ断定することはできない。
「う~ん、それが彼女の情報はからっきしなんだ。 さっきの家族情報は、研究情報の推移とデータをもとに、僕の主観分析を取り入れているからさ……」
「そうか……」
「そんなに気になるのかい?」と、ウィルが片目を吊り上げ、ニヤニヤした表情で問いかける。
「ん?」
「珍しく考え耽っているからさ。 それも、女の子の事で」
「俺だってまだ枯れるほど老いちゃいないからな。 女の子には興味あるさ。 だけどセレンはさすがに若すぎるだろ。 犯罪ってやつじゃね」
「いやいや、恋に年齢は関係ないよ。 同性愛だって寛容になり始めた時代なんだ。 歳の差くらい、愛の力でどうとでもなるでしょ。 それに、年齢差だって十も離れてないじゃない。 考えすぎだよ」
ウィルはそう言うが、それはもう少し互いの年齢が上の時に適用される考え方なんじゃないだろうかと思う季人。 それに、多分これは恋愛感情とかそういうんじゃない。
「俺って雰囲気とかシチュエーションに弱いからさ。 多分それだ」
真夜中の音楽ホール。 ドレスを着た超能力少女。 未だ行方も知れない現状。 これだけ揃えば、自分を魅了するには十分過ぎる要因だろう。
「……まったく、本当に、ブレないね君は。 女性にではなく、それを取り巻く未知に惹かれるなんて」
「自分でも、病気じゃないかって疑いたくなる時がある」
だが、それでこその水越季人だろうと、自分で納得する。
当然、誰にでもそうなるわけでは無い。 自分にだって、人並みの美意識はあるのだ。
セレンはそれを十分に満たし、かつ謎の多い不思議っ子。 加えて特別な力を有しているとなれば、惹かれない道理は無い。
「へはは。 だろうと思ったよ。 けど、そうだね~。 これだけ情報が出てこないところを見ると、普段は意図的に表舞台に出ないようにしているのかもしれないね。 過去の素性だって、もしかしたら方々に手を回して消したのかもしれないし。 何せ、システムの根幹をなしている人物だ。 金の卵を産む白鳥を、わざわざ危険な目に合わせるようなことはないだろう。 いや、もしかしたら逃げ出さないようにかもしれないけど」
「それって、言い方を変えても変えなくても、軟禁てやつじゃ……」
箱入りも、そこまですれば極まれりと言ったところだろう。
「人間ってさ、巨万の富が目の前にちらつくと何だって出来ちゃうからね。 女の子ひとり外に出さないようにするなんて、デカい企業なら簡単でしょ。 ……いや、そういえば一週間前に外に出たんだっけ」
「それも深夜の外出な。 セレンには不良娘の素質ありだ」
「サウンドメディカルが許可を出しての事なのか、それとも抜け出してきたのか。 これは今の段階じゃまだ分らないね」
考えてみれば、本当によく分らない事ばかりだった。 何のために人々を誘拐したのか……それも音楽を利用してのかなり回りくどい方法で。
セレンがあの夜言っていた、「ここにいる人達にも別に何もしない」という言葉は、そのままの意味で受け取るのだとしたら、ただあの音楽ホールに集めただけという事になる。
それならそれで、何故あの場に失踪者達を集めたのか? 何の意図があってのことなのか?
一大企業が手の込んだ下準備をしてまでしたかった事、そしてそんな事とは縁遠そうな雰囲気を持ったセレンの行動。
何もかもが、結局のところ着地点を見失って答えを見いだせないまま宙ぶらりんになっている。
「……」
――いや、答えの在り処ならもう分っているじゃないか。 これまでにも、幾度となく名前は出てきているのだから。
「……季人、今君が何を考えているか手に取るように分るけど、やめておいたほうがいいよ」
「え?」
そこに、今までの軽い雰囲気はない。 まさに釘をさす様な硬いウィルの声質は、今まで自分の中に没入していた季人の意識の面を上げさせた。
「即断即決が得意な君の事だから、サウンドメディカルに行きたいっていうんじゃないのかい?」
「……ああ、そうだ」
短い付き合いではない。 お互い考える事は顔に出ずとも、ちょっとした会話の中の変化や間で容易に察する事が出来る。
となれば、多くの疑問を解決するための鍵がサウンドメディカルにあり、そこに季人が興味を示す事など、ウィルには直ぐに知れた。 しかし、だからこそ――。
「危険すぎる」
一歩引いた視線から、行き過ぎた行動を冷静に窘めるのも、右腕であり参謀である自分の役目だと、ウィルは十分理解しているのだ。
「……珍しいなウィル。 後ろ向きな意見なんてそうそうしないのに」
基本的には常に季人の言動に対しては賛成のスタンスを持つウィルが初めから反対意見を持つ事は滅多にない。 そういう時は決まって、季人がキルゾーンに踏み込もうとしている時だ。
「いいかい季人。 本来なら御伽ちゃんの件も警察に任せるべき事件だったんだ。 けど彼女は、言うなれば身内だし、時間的猶予も無かった。 だから多少は踏み込んでもいいだろうと思って、何も言わなかった。 そして結果、彼女を救い出す事は出来た。 もちろん、セレンの言い分がその通りなら、何もしなくても無事保護されただろうけどね」
「ああ。 そうだな」
無駄足とは思っていない。 御伽を探したこと、音楽ホールにまで足を運んだことにそれほど意味が無かったとしても、代わりに多くの情報を得る事が出来たのだから。
「でもね季人、これからやろうとしている事は僕らにとって何のメリットもない。 と言うより、デメリットばかりで踏み込むことすらナンセンスだ。 相手にするのは新興とはいっても一大企業。 素人がどうこうできる問題じゃないんだよ?」
まったくもって正論である。 正論ではあるが、季人は最後の一言に対して片方の眉を吊り上げ、挑戦的な目をウィルに向ける。
「素人? 俺の目の前にいるのは、世界屈指のハッカーじゃなかったか?」
ウィルは真面目な雰囲気を崩さず、しかし自信を持って口にする。
「もちろんさ。 自分の技術が引けを取らないという事は誰よりも分ってる。 例え米国がエシュロンを使って僕のパソコンを弄りに来たとしても、逆に情報を吸い出してやるくらいはしてみせる。 だけど、それはデジタルの世界での話だ。 乗り込むのは生身の人間なんだよ。 いくら僕でも、物理世界の道理を捻じ曲げる事は出来ないんだから」
「ああ、分ってる。 そんな事は重々承知だ」
技術を売りにしている会社は、何よりも情報を大切にする。 それは自分達の飯のタネであり、命そのものだ。
だから、その命の取り扱いには最新の注意が払われている。
昨今は情報漏えいなどの問題が社会問題にもなるくらい、人の情報管理への意識は甘かった。
それに、漏えいするのは情報だけではない。 技術の源となる人材も、国や会社に不満を抱き、海外へと流失していく。 結果、技術は他国で完成され、独占市場を崩された会社は大損害を被る。
しかし、サウンドメディカルも同様かというとそうではない。
その扱う技術が特別も特別である以上、情報の管理体制は万全だろう。 会社の殆どの情報がスタンドアローンで管理され、決して外部からのアクセスでは見る事が出来ない。
いくらウィルが凄腕のハッキング能力を有していると言っても、ネットワークがオンラインでなければ、その力を十二分に発揮する事は出来ない。
それでも情報を得ようとするのなら、本丸に乗り込む以外に手段はないのだ。
季人は状況を理解していないわけではない。 かと言って、特別な心算があるわけでもない。 ただ、全てを把握した上で、思った事をそのまま口にしているだけだ。
「まぁ、ウィルの言う通り、少し踏み込み過ぎかもしれない。 これはワールドアパートの運営とは関係ない事だし、サウンドメディカルに行きたい理由だって、ただの好奇心からだっていうのは認めるよ」
季人は冷蔵庫からエナジードリンクを二本取り出し、一本をウィルに渡し、自分はプルトップを開ける。 静まり返った部屋に炭酸の抜ける音が響く。
「ついでに言えば、趣味や興味本位で足を踏み入れるには相手がデカ過ぎるってことも分ってる。 オブラートに包まなくても、それがばれた瞬間ブタ箱直行の犯罪行為だっていうのも分ってる」
それは音楽ホールに侵入した時にも言えることだが、あの時は施工中だったのに対して今度は絶賛運営中の会社だ。 前者でさえ本来はアウト。 常識という社会のルールに照らし合わせれば……合わせずとも後者がアウトなのは間違いない。
「それだけじゃないよ季人。 相手は民間人を人知れず誘拐していた企業なんだ。 迂闊に手を出したら、最悪命を攫われるよ」
「だな。 あ~きっと、ここが俗に言う分水嶺ってやつなのかもな」
人生の分岐点、分かれ道とでもいうのか、えらく唐突に下らない理由で訪れた択選びだ。
それは時として、思わぬところで、気付かぬうちに終わってしまっている事が多い。
しかし、これから何度くるかもわからないその分岐点の内の一つに、今自分が立っているのは間違いない。
「そうさ季人。 僕たちはここで手を引き、然るべき組織に情報を委ねて、日常に戻る。 それが一番の選択だ」
しかるべき組織。 まっとうに考えれば警察ということになるのか。 ウィルがこれだけの情報を集めたのだ、多少なりサウンドメディカルへの切り込む動機はそろえた事になるだろう。
世間を一時とはいえ賑わせた事件。 マスコミも同時に動けば、多少なり揺さぶりをかけることが出来るだろう。 結果、サウンドメディカルの胡散臭い部分が露呈すれば万々歳で、さらに掘り進んで悪事でも発露したら、本当の意味で今回の事件に幕を下ろすことになるだろう。
季人は目を瞑り、一つ息を吐く。
「ウィル……」
「うん?」
「もっともだ。 ウィルの言うことは何も間違っていない。 実際その通りだ」
「季人……」
季人がやろうとしている事は、単なる探究心、好奇心を満たす為というにはあまりに割が合っていない。
これまでに季人とウィルがやってきた検証作業とはわけが違う。 言うなれば、それはサウンドメディカルからしたら間違いなく秘密を脅かす相手からの敵対行為に他ならない。
これが無事で済むわけがない。 そんなことは、季人自身も十分理解していた。 それでも、ウィルは敢えて口にしてくれたのだ。
To be or not to be……。
進むべきか退くべきか。 そこに、疑問など差し挟む余分は無いのだと。
アパートの一室に沈黙の蚊帳が下りる。
……だが、それも数秒の事だった。
直ぐに部屋の二か所から笑い声が漏れ始めた。
「くく。 そんなことを言われて」
「へはは。 怖じ気付くような君じゃないよな。 もちろん、それも分っていたよ」
お互いに似合わない空気を醸し出していたことが心底おかしかったかのように笑いが絶えない。
「誰よりも非日常に焦がれている俺達が、こんな面白そうなことから、手を引くなんて、あり得ないぜ」
季人が一気に手にしたドリンクを飲み干す。
これだけの危険材料が揃っていても、面白そうな非日常性という、ただそれだけの事で全ての危惧がチャラになる。 それに、悪事の疑惑がインフレを起こしている企業に対してなら、何の遠慮も必要ないと、半ば本気で考えている。
そして、何よりも季人が通報という選択ではなく本丸への潜入を決断した理由の一つには、セレンの事が関係している。
サウンドメディカルがガサ入れされた時、行き着く先はセレンとなるだろう。
それは出来れば避けたい事態だ。 警察に知られてもマスメディアに漏れても、絶対面白くない事が起こる。
サウンドメディカルの悪事云々はこの際どうでもいい。 真相さえ知る事が出来れば満足なのだ。 普通に医学界で成果も上げているのだし、医療技術の進歩を態々後退させる必要もない。
だが、今回のごたごたにセレンが巻き込まれるというのはどうにも気に食わない。
季人の主観でしかないが、あの音楽ホールでの会話、時折見せていた表情から感じ取った些細な変化から、彼女はどちらかと言えば知らず知らず片棒を担いでいたような印象を受けた。
それを調べる為にも、ハッキリさせる為にも、サウンドメディカルを直接調べたいのだ。
「季人がそういう男と分っているからこそ、僕は君と組んでいるのさ」と、ウィルも季人と同じようにエナジードリンクを煽る。
「それを解ってくれるあんただから、俺は組んでるんだ」
「へはは。 当然だよ。 僕だって、中途半端に全容が見えないのは好きじゃない」
笑いながらウィルが言った後、一拍の静寂が室内に訪れる。
そして、互いに示し合せたかのように勢いをつけて立ち上がった。
「……やべぇ!! ちょっと、いや、かなりテンションが上がってきた!」
「僕もさ! こうなりゃさっそく準備に取り掛からなきゃこの興奮を抑えきれない。 力んだタイピングでキーボードが壊れる前に、材料調達を兼ねて秋葉に行ってくる!!」
「俺は作戦会議に必要なジャンクフードセットを買い込んでくるぜ!! 今日は徹夜だぁ!!」
まるでピクニックに心躍らせる子供の様にはしゃぎ始める大のおとな二人。
しかし、彼らがこれから挑むのは小川のせせらぎが聞こえてきそうな自然公園ではなく、大雪の吹きすさぶヒマラヤの一角である。
ただ、ワールドアパートの二人はそちらの方が望むところであろう事は言うまでもない。
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