Episode.0﹣七瀬 麦


数年前。

七瀬ななせ むぎはとある会社で懸命に働いていた。


「おい、ここ間違ってるぞ」


静かに、されど重苦しい言葉が私の頭上の遥か上をから降ってきた。

ああ、振り返りたくない。

先程までタイピングしていた手が、かたかた震えた。


「は、はい、すみませ」


「なぁ。何回目だよ」


上司の手がゆっくりと私のデスクにのった。

僅かに煙草の匂いが鼻につく。

私はただ回転する椅子の上で震えて俯くほかなかった。


「別に謝って欲しいわけじゃねぇんだよ。

責任だよ。責任。ちゃんとしてくれよ。

社会人だろ」


視界がぼやける。

あれ、なんで頑張ってるんだろ。


「聞いてんの?

せっかく良い学歴なんだからさ、会社のためになるように働けよ。

そんなにミスばっか、返事もできないやつなんて不良品。

社会の歯車の欠陥でしかないの。わかる?」


ばさばさと音を立てて、上司の右手のファイルから紙が落ちた。

涙は抑えようとしても意思に反して、ぽろぽろ落ちる。

ブレザーの袖で必死に拭う。


「…もういいよ。これやっとけ。

せめて後始末つけろよ」


ファイルにしがみついた紙切れを最後に1枚、放り投げて上司は私に背中を向けた。


ぐすぐす、床に散らばった文書を集める。

あれだけ頑張った行く末がここか。

血のにじむような努力、受験期を思い出す。

この会社に就職して、早数年。

今までの全てを否定された気分だった。


どうすればいいんだろう。


文書をデスクにまとめて、椅子に腰をかけた。

ぎしりと鳴いて、それっきり。


ここから逃れる方法は。

やりがいを感じる方法は。

やりたい事で生きていく方法は。

無理だ。ここからどうやっても明るい方向へ行けるようなビジョンが思い浮かばない。

ゆっくり頭を抱える。

胸から下げた社員証にくらい影がおちる。

その精一杯の笑顔の私。

もうだめだやり直すしかない。

静かに明確に迫り来る選択肢。


もう、自殺しか━━


「麦ちゃん、大丈夫?」


はっとした。

さっきまで何も聞こえない静寂の世界から、一気に少し雑音とざわめきがあるオフィスに戻ってきた。

思わずきょろきょろと辺りを見回す。


「さっきは災難だったねぇ。

ちょっと休憩スペースいこっか」


「先輩…わたし」


「うんうん、休憩しよ。ね?」


いつも通りおっとりとした先輩は、少しばかりの安心を運んできた。


「はい」


そう言うほかなかった。

ずびりと鼻を啜った。



コツコツと先輩の靴が硬い廊下を鳴らす。

それにとてとてついて行く。

今はもう夕方だからだろうか。

お昼時は社員さんがお弁当を食べたりしている、自販機の前の休憩スペースには人がいない。


「麦ちゃん、座ってて」


「…はい」


先輩が椅子を引いて、私に座るよう言った。

大人しく座ると、先輩はすぐ近くの自販機に向かう。

私はと言うと、目の前の真っ白な狭い円卓のシミを見ていた。


不良品。

そっか。


「麦ちゃんって珈琲飲めるっけー?」


「はい」


社会に必要とされるってなんだろ。

私、失敗ばっかりだし何に必要とされてるんだろう。


「ホットでいーい?」


「はい」


人の前に立つと緊張して喋れなくなっちゃうし、お酒飲めないから一緒にお食事にも誘われないし。


「じゃあ私もこれにしちゃおっと」


「…はい」


「もー、麦ちゃん適当に返事してるでしょ」


「は、い」


シミから目を離すと、目の前に缶コーヒーが1本、置かれていた。


「あげる」


私の向かいに座りながら先輩は言った。

にこにこ、私と同じ珈琲を両手に暖をとった。

私はそんな先輩と缶コーヒーを交互に見て、しばらく経ってから珈琲を手に取った。


いただきます…。

か細い声で言った。

ぷす、と音を立てて缶コーヒーを開けて、口をつける。

にがい。大袈裟だが、ちゃんと生きてる気がした。


「…気にしなくていいんだよ、麦ちゃん」


「…」


にがっ。先輩は小声いって顔をしかめた。


「なんで、先輩はそんなに優しいんですか。

わたし、本当にだめだめなのに…」


「麦ちゃんには麦ちゃんのやり方があるの。

それを否定する権利、私たちには無いわ」


「でも、誰にも役に立ててないし、迷惑ばっかだし…」


先輩は寄り添うように薄く笑った。


「…あたし、嬉しかったの。

女の子の後輩が来るって聞いて。

ずっときつい仕事場で、なんの楽しみもなかったし」


先輩にまで拒絶されたら、私はどうなっちゃうんだろう。

嫌な想像に冷や汗が背中を伝う。


「でもね、麦ちゃんが来て楽しくなった。

ちっちゃくて、頑張り屋さんで。

確かにありえないような失敗はする、けど…」


「…?」


急に黙った先輩。

心配になって思わず顔を上げて、先輩と目を合わせる。


「挫けなかったじゃない、麦ちゃん。」


相変わらずいつものおっとりとした佇まいだった。

なんでそんなに優しくしてくれるんだ。


ようやく収まったと思ったのに。

先輩の姿がぐにゃぐにゃになっていく。


あああ、泣かないで。

先輩の椅子が音を立てて下がった。


先輩の優しい匂い。

あたたかい。


「麦ちゃん。こんな会社辞めちゃいなさい。

あなたにはあなたにしか出来ない、この世界が必要としてる仕事があるはずなの」


こくこく、腕にすがって頷いた。


「何度転んだって、また起き上がって、ぼろぼろになっても諦めないで進み続けられるのがあなたの強み」


私は黙って聞いていた。

ずびずび鼻を啜って、先輩の腕に泣きついて、強く缶コーヒーを握りしめた。



「負けないで」




それ以上先輩は何も言わなかった。

こんな人になりたい。

人に寄り添って導ける人になりたい。


缶コーヒーはもうぬるい。


先輩は私を抱きしめて、頭を撫でてくれた。

残る感触。

弱虫なりに、覚悟を決めた。












「…さん、…うさん…」


「んう…」


「塾長さん!」


「はいい!!」


塾の受付の机。

気づいたら突っ伏していた。

後ろを向けば、心配そうな浦先生。


「大丈夫ですか?

さすがに疲れましたね」


「あっ…、ごめんなさい。わたし…」


痺れる両手。

おでこも赤くなっているのであろう。

ちょっとじんじんする。


「もうそろそろ時間です。

帰る準備させてもらいます」


「あっ、ハイ!」


がたりと音を立てて立ち上がった。

もうそんな時間か。

買ったばかりの塾の時計を見て驚いた。


浦先生は相変わらずで、いそいそと荷物をまとめている。


ーー先輩見ててください。


懐かしい顔を思い浮かべた。


もうすぐ私の第一歩。

生徒さん達がやってきますよ。

ここまでこれたのは、あなたのおかげです。


だからいつか、お食事にでもご一緒した時に良いご報告ができるようにがんばります。



決意を新たに、小さな鞄を持った。


もう外に出そうな浦先生。

鍵かけるの忘れないでくださいね。

腰をかがめて振り向いた


あっ。



ぱたぱたと職員のスペースのロッカーからとって戻る。


待ってくれていた浦先生。

怒るでもなく微笑みを浮かべてくれていた。







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