Episode.0﹣浦 正人




都会からローカルな電車に乗って、誰も降りない駅ひとつ。

土日の暖かな休日に、ふらっと降りて散歩でもしたくなるのは変人か。


少し古びた団地の近所には、夏でもないのに風鈴ふうりんを下げた低い屋根の駄菓子屋だがしやがある。


今でも子供たちに人気なのだろうか。

お世辞にも広いとはいえない店内に、目移りしてしまうようなお菓子が沢山並べられている。

店主のおばあさんは今日も、学校終わりをじっと待つ。


跳ねたはと。早足で去った。


大手企業に入るよりも、

有名人になるよりも、

成功して大富豪になるよりも。


手に入れ難い、ささやかな幸せを影に感じた




そんな辺境、楠の木町とはかけ離れた存在である場所。



数々のビル群の下、お洒落しゃれできらきらとした学生たちが行き交う交差点。

流行を追って日々忙しそうに歩く。


スーツを着て歩く男性や女性はとっても仕事が出来そうだ。

この街をスーツとバック片手に歩くその姿だけで。



魅惑な大都会、東京。

時は楠の木町に塾がくる何年も前にさかのぼる。









今日も電車に揺られながら、高校生のうら 正人まさとはとある数学者の本を開いていた。



数学者とは思えないほどに卓越たくえつした言い回しや語彙ごいの数々。


内容は環境問題についてであったが、うらの頭の中には、

環境問題なんかよりもこの本を書いた数学者への憧れがしめていた。


著者の数学者からしたら、まったく伝えたいことが伝わらなかったということなのだが、そんなことうら少年には関係ない。


どうしたら数学者になれるのだろう。

果たして数学者とは職業の一種なのだろうか?


人差し指で四角い黒縁の眼鏡を直した。



本文をあらかた読み終えた後、巻末の著者のプロフィールに目が止まった。


電車が止まって、割と急な慣性の法則に身を委ねる。

数人の足踏みがぱたぱたとなりながら、電車がゆっくりと止まった。





『高校数学の教師を務めてから13年後ーー』

少し堅苦しい書体で書かれている。

なるほど。

経歴を見るに、高校教師から数学者になったらしい。


うら少年は、駅をおりるでもなくただゆっくり閉まるドアに目を移した。

昨晩の母の言葉が思い起こされる。


動き出す電車。

人が沢山、すしずめ状態だった。


『頑張って、正人まさと。どうにか国立にーー』


目を細く閉じて、また眼鏡をかけ直した。


もさもさとした髭と優しげな目が構成する著者の写真。

それを内の影に溶かすように本を閉じた。


この人混みの中で本を読むのは見られているようで気が引ける。

不満げに息をひとつ吐いた。


やがてまた電車が止まる。

車内の人々が降りる準備を始め、かちゃり、がさりと荷物が擦れ合う音がする。


うら少年は、緑色のふわふわとした椅子から立ち上がる機会を伺った。



ふしゅ、とドアが気の抜けた声を上げる。



人の波が出口を求めて奔流ほんりゅうする。

うら少年はそれをものともせずに、落ち着いた足取りでホームに足をつけた。


「…なるほど。教師、教師か」


呟いた一言は朝の東京の喧騒けんそうの前に掻き消えた。














「…どうやって先生になったか、だって?」


「はい」


放課後、授業とホームルーム、当番によっては掃除。

それらを終わらせた生徒たちは、朝の登校時よりも遥かに明るい表情で下駄箱に歩き出す。


そんな中、部活にも何も所属していない浦少年は夕日差し込む一室にいた。


「なんだ、びっくりしたぞ。突然話があるなんて言われて」


「…はい」



もう六十代に差し掛かるか否かあたりの教師と思わしき人物が浦少年の顔を見つめた。


「進路の参考にさせていただこうと」


教師はうーんと唸って上を見た。

しばらくそうして上を見たかと思うと、突然また浦少年の目を見た。


「俺はそうだな。勉強したな。うん」

ぱっと笑った。


「…」


「勉強した。あの頃が1番。

多分浦には想像がつかないくらい」


「それは、何故?」


「何故って…そりゃあ先生になるためさ。

俺、勉強好きじゃねぇけど教えるのは好きだったんだよなぁ」


浦少年は何を感じたのか目を細めた。

座る老教師を上から見下ろす。


「…そうですか。ありがとうございました」


くるりと背を向けて、出ていこうとする。

他人に聞いても得るものは無さそうだと感じた。

こうなったら、さっさと帰って勉強してしまおう。


大好きな数学は次のテストでもいい点を取れるだろう。

それを確実なものにするため、浦少年は研鑽けんさんを積む。



「…なつかしいなぁ」


浦少年は振り返った。

首を傾げる。


「ああいや、なんでもない」



教師は首と手を振った。

いやー、と息まじりに言う。



「高校生って、いつの時代も生き急ぐよなって」



浦少年は、はぁ、とだけ。

疑問符を浮かべた。


さようなら、気をつけて帰れよ!


浦少年は会釈した。








40人以上の顔がこちらを見る。


怠そうな顔をしているものもいれば、たいそう真面目な顔もある。

授業開始の挨拶をした段階で既に眠そうな生徒も見受けられる。



「はい、今日は二次関数です」


チョークを握ってかつかつと黒板に書く。


うら 正人まさとは、いざ教師になってみれば多くの発見があることに驚いた。



例えば『多様性』。



「はい、先生。

そこの漢字徹分、じゃなくて微分ですよ」


「ああ…すみません」


黒板消しをとった。

背伸びしなくても全然消せる。


言わなくてもわかるだろう。

こういう人。


それに先程にもあったように、寝ている人もいる。


不思議なことにそういった生徒ほど、成績が良い傾向にある。

きっともう学校の授業なんて、彼にとって知ってることの朗読なのだろう。

勿論真反対の場合もあるが。


「はい、じゃあ大門3、解いてみて」


タイマーをぴっぴとセットして、スタートを押す。

同時に数人の手が動く。


かち、かちと問題を解くスピードに関係なく動き続ける秒針。


浦先生からすれば、五十分などあっという間だった。


しばらく同じような授業。

浦先生はあまり指名しない。


浦先生の説明に数人がうんうんと頷いてメモをとった。


チャイムがなる。

「ありがとうございました」


教卓の上の荷物をまとめて、職員室に戻る。

こんな調子だからか、浦先生はよく他人に無関心だと言われた。




「浦、相変わらず声ちっちぇ。きこえねー」


「それな」



去り際、特に怒ったりはしなかった。











「君の授業はユーモアがない」


「はぁ」



先輩の教師に職員室の扉の真ん前で声をかけられた。

浦先生は心底面倒だと思っていながらも、話を聞く。


「それじゃあ伝えたいことも伝わらないぞ」


「…そうですか」


こちらの単調な返しにイラついたのか、先輩がきっとこちらを睨む。

浦先生を下の方から見上げる形で。


「そんなんだから生徒からも信頼がないんだ」


「…」


ふん、とひとつ、先輩は職員室の扉をぴしゃりと閉めた。


しんと静まりかえる廊下に1人、取り残された浦先生。

流石の浦先生でも、全職員に今のを聞かれた後に職員室に平然と入る気にならない。


扉に手をかけ、入るか入らないか、迷っていた頃、後ろから声。


「浦先生!」


たったっと廊下を駆けてきて、浦先生の前で止まる。

はぁはぁと息を切らせて、浦先生の前に来るやいなや、すぐさま膝に手を着いてしまった。


ショートカットの明るく元気いっぱいな女子生徒。

僕とは真反対だ。

自虐的に見下ろした。


「…どうしたんですか?」


「浦先生…はぁ…さがし、たんですよぉ」


はて、そんなに探されるようなことをしたかと浦先生は自身の行動を振り返る。


しかし、それらしいものは見つからない。



「聞きたいことがあってですね」


まだ少し息が上がっている。

それでも女子生徒はハキハキと喋った。


先程の授業は6時間目。

ホームルームの着席の時間を告げるチャイムがなった。


また後で、そう言おうと眼鏡を直した。

しかしそれより先に、彼女が口を開けた。



「私、数学の先生になりたいんです」


先生の雑談の数学者のお話、面白くって。

えへへと笑った。



フラッシュバックする光景。

夕焼け。

老教師。


高校生の頃の、僕。



「…ふ、」


「な、何がおかしいんですか!?」


「あいや、なんでもないです」


浦先生が笑った…?

なにか奇妙なものを見るかのよう。


失礼な反応をする女子生徒を置いて、実際

浦先生は可笑しくってたまらなかった。



「走り続けることです。

綺麗事かもしれませんが、最終目標に向けて、頑張るのみです」


「な、なるほど…?」


いまいち腑に落ちない女子生徒の表情。


「…くれぐれも、生き急がないように」


「んん?なんですか、それ」



今度は女子生徒が笑う番だった。

確かに、曖昧すぎる答えだったかもしれない。


ふふ、浦先生も一緒に笑った。

本当に曖昧すぎる答えだ。

僕も思う。



ありがとうございます、と女子生徒は廊下の夕日に走った。



それを見送った浦先生は、あの頃の真意を理解した。



きっとあの時の先生は、僕にじゃなくて自分自身に言ったのだな。


きっとこんな気持ちだったんだろう。










都内のカフェテリアで、数学史の本を開いた。


珈琲の湯気は薄い。

もうそろそろ約束の時間だ。



久しぶりにスーツをきて、今か今かと待つ。



「ええと、うら正人まさとさんですか?」


「はい」



背丈が小さい女性が話しかけてくる。

電話口での声と同じ。

直ぐに分かった。


なんかきょどきょどしていて、一挙一動が危なっかしい。


どうぞと名刺を渡してきた。

どうもと受け取って自分のを返す。


「今回私の塾で働いて頂けると言うことで…」


「はい。間違いないです」


目の前の女性は、ぱっと笑った。




「楠の木町ってご存知ですか?」




あれから数ヶ月。




目の前でちょろちょろと動き回って、机を並べる塾長さんを見る。


「…どうしたんです?浦先生?」


気づかれた。


「いや、はい」


「?」


開塾への準備は着々と進んでいる。


数学者への道のりは長く遠い。

いつかは僕も本を書いて、数学の未知を解き明かしたい。

挑戦したい。


でも、まだ長い人生。

生き急がないように。

寄り道してみるのも悪くないな、うら 正人まさとは思った。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る