第3話 香るカミヒコウキ

「ただいま、満席でして……」


 土曜日の夕方少し前、足繁く通う喫茶店は、満席であった。港が見える公園の近くにあり、重厚なドアと、歳をとった看板が出迎えてくれる。古き良き姿の店だ。自宅から、徒歩圏内ということもあり、休日は散歩の帰りに寄っている。この街に住み始めたとき、街を散策している際に見つけた店だ。


 春斗は、珈琲が好きであった。好きではあるが、こだわりはない。産地だとか、焙煎方法にこだわることは否定しない。珈琲の香りがだとか、苦味や酸味がどうだとか、語ることはしない。本当に美味いものは、黙っていても美味い。春斗の持論である。


 香りや味も、もちろん好きではあるが、春斗を魅了してやまない理由ではない。人に話すと不思議がられる。その理由は、珈琲の色。


 深淵を覗くような感覚。深く吸い込まれていく様な深みを見せるかと思えば、光を羽織り目に映る世界をセピアに染める。春斗にしか分からない感覚であるかもしれない。


 土曜日の夕方は、この店で珈琲を飲む。春斗の中で、唯一、決められた行動である。一週間がこの珈琲で終わり、また始まる。よほどの事情がない限り、店に行かないという選択肢はない。なので、店の入口にある椅子に座り、しばし待つことにした。


 団体客かと思ったが、どうやら違うらしい。パーティードレスに身を包んだ女性達が、時折笑い声をあげながら、会話に勤しんでいる。結婚式の二次会までのわずかな時間を、楽しんでいるのだろう。


 しばらく待つと、カウンター席が空いた。春斗は、小腹が減ったこともあり、ケーキの付いてくる珈琲セットを頼んだ。この店のチーズケーキは、甘いものが得意ではなかった春斗の胃袋を、ガチりと掴んだ絶品である。


 カウンター越しに聞こえる、サイフォンの音も心地よい。学生時代に扱った、実験器具を思い出させる風貌。そこもまた、どこか懐かしい。


「おまたせしました」


 運ばれてきた珈琲。カップに注がれた熱が、空調の効きすぎた店内では、むしろ丁度よい。珈琲を飲みながら、本を読む。春斗にとって、至福の時間だ。店内の会話やBGMは、特に気にならず、むしろ読書を彩る手助けになる。


 長居にならない様、時間かページ数に合わせて滞在するのが、春斗の矜持だ。本は、この店に来る途中の図書館で借りてきた。買うことが多いが、たまに図書館に立ち寄る。普段自分が買わない分野の小説や、自己啓発の本など借りる。今日、借りて来た本は、花の写真集。色々な絶景に咲く花をテーマに、作られている。本を読んでいた時に、ふと父親の言葉を思い出した。


「お前の好きな道を、選べばいい。お前の人生だ」


 父親が、就職活動をしている春斗にかけた言葉だ。自営業であったが、跡を継がなくてもかまわないと、気づかってくれた。特に反抗心があったわけではないが、家業を継ぐことに抵抗があった。言葉に甘える形にはなるが、春斗は今の会社に就職した。


 今の会社に不満がある訳ではないが、働く内に、春斗は気がついた。代用のきく歯車であることに。システマティックに整えられた業務は、春斗が不在でも円滑に回る。そうでなければならないことは、春斗も理解している。


 時折、春斗の心に去来する虚無感は何であろうかと考えてしまう。春斗が本当に、必要とされているのか。


 春斗は、ケーキを食べ終え、ゆっくりと珈琲を飲んでいた。本に目をやると、最後のページに何か挟まっている。借りる時には、気が付かなかった。開いて見ると、紙飛行機であった。翼の部分には、何やら文字が書かれている。春斗は、おもむろに翼を開いた。


『君が輝く道は、君が最も、見て、触れて来たモノの中』


 誰かの詩集であろうか。今の春斗に、響く言葉であるように感じた。本を選んだことも、無意識ながら、家業を意識して手に取ったかもしれない。最後に、こんな一文が刻まれていた。


『この言葉を、あなたに。あなたの役にたてたならば、この紙飛行機を飛ばしてください』


 店内はいつの間にか静寂に包まれていた。先の集団が、店を出て行ったからだ。春斗も、そろそろかと、レジに向かう。


「ごちそうさまでした」


 レジに向かう前、店主に声をかけた。ニコリと静かな笑が返される。春斗の手には紙飛行機が握られている。近くの公園にでも寄るか。春斗は、公園に足を向けた。


 紙飛行機は、滑走路を進んでいた。

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