多数派の壁

「……さて、それでは次、松下さんお願いします。」

 坂田に指名され、文恵は我に返って慌てて立ち上がった。いつの間にか自分の番が回ってきていたらしい。周囲の視線が自分に注がれ、急に顔が熱くなってくる。


「松下さん、何も上手く話そうとする必要はないんですよ」坂田が穏やかに言った。

「あなたがどういう理由でここに挙げた5つの作品を選んだのか、それをあなたの言葉で伝えてください。」


「は……はい」


 文恵は何とか緊張を飲み下そうとした。何度か喉を鳴らし、声の調子を取り戻してからようやくプレゼンを始めた。


「私が挙げたのはいずれも現代ドラマです。中でも私が推薦したいのは、原田素子という作家の『朝焼けを迎えて』という作品です」


 選考委員がホワイトボードに視線を移す。文恵は続けた。


「本作は、同じ会社に就職した新入社員4人を主人公とした物語です。彼らは社会人生活に期待を膨らませていましたが、いざ新生活が始まると学生時代とのギャップに直面します。上司や先輩からは叱られ、ミスをしては落ち込み、思い描いていた華々しい生活とはかけ離れた実態を前に、彼らはだんだん希望を失っていきます。主人公達が抱く感情は誰の身にも覚えがあることで、私も読みながら自分が新入社員だった時のことを思い出しました」

 

 文恵はそこで一旦言葉を切った。プレゼンの内容が選考委員の頭に染み込むのを待ってから続ける。


「でも、この作品にも希望はあります。主人公達が仕事に向き合っていくうち、上司や先輩も彼らを認めてくれるようになり、彼らは職場に自分の居場所を見出していきます。仕事を楽しいと思える場面も出てきて、少しずつ職場に行くのが苦ではなくなっていきます。

 この作品は、新入社員だった頃のまっさらな気持ちを思い出せてくれると同時に、困難を乗り越えて懸命に生きようとする彼らの姿に共感し、自分も頑張ろうと勇気をもらえる作品です。これから社会に出ようとする若者はもちろん、すでに社会に出た大人にも刺さる作品だと思います」


 文恵はそう言ってプレゼンを終えた。とたんに肩の力が抜け、思わずふうっと息をつく。今ので作品の魅力は存分に伝え切れたはずだ。後は編集長の反応次第――。


「あの、ちょっといいかな?」

 不意に誰かが声を上げた。文恵がその方を見ると、5番目にプレゼンを終えた中井という男性社員が片手を上げていた。


「その作品、最初に選んだのは僕なんだけど、正直迷ったんだよね」中井が言った。


「迷った?」文恵が首を傾げた。


「うん。確かに心理描写はすごくリアルなんだけど、ちょっと描写が長すぎるっていうか……。一言で言えばいいことを1センテンスくらい使って書いてるよね」


「確かに長いですけど、それだけの長さが必要だと作者が考えたからじゃないんですか?」文恵が反論を試みた。

「一言でさらっと済ませたくないから、あえて強調するような書き方をしてるんだと思います」


「まぁそうなんだろうけど、読み手としては焦れるんだよね。いいから早く話を進めてよって気になっちゃって。同じように感じる読者は多いんじゃないかなぁ」


 中井も引かなかった。文恵はちらりとホワイトボードに視線をやる。中井が挙げた作品はいずれもライトノベルだ。文体が軽い作品を好む彼からすれば、原田素子の作風はまどろっこしく感じるのかもしれない。でも文恵は、単に文章が長いからという理由でこの作品の価値を否定してほしくなかった。


「……でも、読書の中には細やかな筆致を好む人もいると思います。それに、登場人物のリアルな心の動きを描くためには、どうしても長い文章が必要なんです。いくら話がぽんぽん進んでも、登場人物に生きた魅力がなければ、物語としての魅力も半減するんじゃないでしょうか」 


 文恵は熱を込めて言った。事前に準備していた内容ではなかったが、言葉は口をついてすらすらと出てきた。他の選考委員も興味を惹かれたようで、坂田の脇にある原稿をちらちらと見始める。


「うん、僕もこの作品が悪いって言ってるわけじゃないよ。ただ編集者としては、どうしても売上の視点が必要になるよね。」中井がなおも言った。


「で、今の読者の傾向を考えると、手軽に読める作品の方が売れ行きはいいと思うんだ。ネット検索やSNSが主流なこの時代、長い文章をじっくり読む機会も減ってるわけだし、文字の量が多いとそれだけで読む気が失せるって読者は多いんじゃないかな」


 文恵は口を噤んだ。確かに文恵が知人に本を勧めていた時も、分厚い本や文字がびっしりと書かれた本は途中で読むのを断念されることが多かった。辛抱強く読んでいけば次第に面白くなっていくのだが、その面白い部分に到達する前に挫折してしまうのだ。


「どのような描写が好まれるか、というのは難しい問題ですね」坂田が口を挟んだ。

「松下さんの言う通り、丁寧な作品を好む読者ももちろんいるのですが、世間としては中井さんの言う通り、手軽に読める作品が好まれる傾向はあると思います。ただでさえも読書離れが進み、出版不況と呼ばれる時代ですからね」


「では……『朝焼けを迎えて』は?」

文恵が恐る恐る坂田に尋ねた。坂田は手元の原稿をぱらぱらと捲り、顎に手を当ててしばらく考えた後、やがてふうっとため息をついた。


「松下さんの言う通り、確かに登場人物の心理描写は克明に描かれているようですね。描写が長ければこそ、彼らの心境がよりリアルに伝わる。それは事実だと思います。ただ、中井さんの言う通り、少し長すぎるようにも感じます。文章が冗長だと、感情移入するよりも先に読みにくさを感じてしまいますからね」

 

 史恵は真剣な面持ちで坂田の話を聞いていた。自分達は仕事だから、読みにくさを感じたとしても最後まで必ず目を通す。でも一般の読者は違う。最初の数ページで「読みにくい」と判断すれば、早々と他の作品に切り換えてしまうだろう。彼らの欲求を満たすための作品は星の数ほどあるのだから。


「残念ですが、この作品は見送らざるを得ないと思います」坂田が決断を下した。

「ただ、この原田素子という作者に才能があるのは確かだと思います。今後執筆を続けていく中で、作品の質が磨かれていくことに期待したいですね」

 

 坂田はそう言って話を終えた。それから最後の選考委員がプレゼンを開始したが、史恵はもはや聞いていなかった。へなへなと椅子に座り込み、脱力して肩を落とす。坂田や中井の意見を不服に感じたわけではない。いずれも自分にはなかった視点であり、文芸の編集者として経験を積んできたからこそ出た言葉だということは理解できる。


 それでも史恵は悔しかった。せっかく価値ある作品を見つけたと思ったのに、自分の力不足のために、日の目を見る機会を奪ってしまったのではないかと思えてならなかった。

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