最終話

「おい、ちょっと待てよ! 待てったら!」

 後ろから追いかけて来るソラの声を無視して、私は走り続けた。視界の端で。まだ見慣れない景色達が後方へと流れ去って行く。不慣れな街をひた走りながら、私の頭には、先程までの出来事が巡っていた。

 私はその時、いつも通りに、定位置のソファで眠っていたのだ。目の前を沢山のマグロが流れていく。そのマグロに手を伸ばすが、全然届かない。跳びかかり、漸く一匹のマグロに……、と言う所で目が覚めたのだ。

 目を開けた瞬間、私は驚いた。すぐ目の前に、美沙希の顔があったからだ。

「ヒメちゃん起きたのね」

 状況がまるで分からない私は、瞬間的にパニックになってしまった。そして、思わずその顔に、

「痛っ!」

 一発、叩きこんでしまったのだ。

「おいヒメ! ママに何してんだよ!」

 気づけばすぐ近くにいたソラに怒鳴られる。

「うるっさいわね! こんな近くに来てるのが悪いんでしょ!」

 思わず言い返してしまうが、咄嗟にしてしまった自分の行動に、弁解の余地が無い。

 美沙希はと言えば、顔を手で隠したまま、動かない……。

 ――あれ?

「美沙希さん、どうしたの?」

 パパが美沙希の元へ近づいて来た。

 ――何これ?

「大丈夫よ、なんでも無いの」

 顔を上げ、さっきまで抑えていた手を離して、美沙希はパパの方を向く。

「美沙希さん、血が」

顔に一筋、赤い線が入っている。

 ――私の、せい?

「大丈夫よ、全然大丈夫だから……」

 ――私の、せいだ……。

 思わず、私は家を飛び出し、走り出していた。

「ヒメ!」

 パパの声が私を呼ぶ。だけど、振り返る事すら出来なかった。

 そのまま逃げるように走り続け、住宅街を抜けた先にある小さな神社に辿りついた所で、走るのを止めた。

 息が上がっているのは、全力疾走の所為だけでは無い。先程までの、光景と自らの罪を振り払うように走り続けた。だけど、上がる心拍数が私から正常な判断を奪って行く。

「やっと止まった……」

 後ろからずっとついて来ていたソラは、諦めの混じった声でそうぼやいた。

「……なんでついて来たの?」

「お前が急に飛び出してくからだろ?」

 至極当然と言うように言葉を放つソラに、思わず語気の荒れた言葉をぶつける。

「何よ! 私なんかより、あんたは美沙希の事でも心配してればいいじゃない!」

 心臓が高鳴りを増す。

「あんな事して、私はもう、あの家には帰れないもの……」

「わざとやったのか?」

「それ関係あるの?」

「わざとだったのかって聞いてんだよ!」

 私の勢いにつられたのか、それとも単純に美沙希を思っての事なのか、ソラは怒鳴るように私に言葉をぶつけて来た。

 気圧された訳では無いが、思わず目線を外す。

「いくらなんでもそこまで性悪じゃないわ。ちょっと、びっくりしちゃったのよ……」

「じゃあ、別に気にしなくていいだろ」

「何言ってんのよ? あんたの大事なママが傷ついたのよ、もっと怒ればいいじゃない。それに見たでしょ? パパの、心配そうに美沙希を見る顔……。パパは、もう私よりも、美沙希の方が大事なのよ……」

心配そうなパパの顔が そして、私が傷つけた美沙希の顔がリフレインする。その度に、胸の奥がキリキリと悲鳴をあげる。

「パパは、どうして、美沙希と一緒になろうと思ったのかしら? 私だけじゃ、駄目だったのかなぁ?」

「そりゃあ、俺達と人間達じゃ、寿命の長さが違うんだから仕方ないだろ? 早く死んじゃう俺達よりも、ずっと傍に居てくれる人を選ぶのは、当然じゃんか?」

 ソラが自分にも言い聞かせるように、「うん、そうだよな、そうだ」と唸る。

「あんたはお気楽でいいわね。いい? 私にとってね、パパは全てだったのよ……。パパに愛されて、可愛がられて、そして一杯一杯頭を撫でられて、その何倍も何倍も、私は、パパを愛してたのよ……。パパの為なら、何だって出来るわ。おやつも我慢出来る、ご飯も食べなくったって平気よ。毎日毎晩、一緒に眠って、一緒に起きて、そんな、私とパパだけの毎日が、ずっとずっと、続くと思ってたのに……。なのに、なのに、美沙希は、ずるいわよ……。ただ人間だってだけで、私よりもずっと、パパに愛されるなんて、ずるいわよ……」

 尻尾の生えた自分の身体が嫌になる。

 長い髭の生えた自分の身体が嫌になる。

 もしも私の耳が、顔の横に生えていたら。肉球なんかじゃなく、人間の指が生えていたら。パパと同じ言葉で、想いを伝える事が出来たなら、私は、もっともっと、愛される事が出来たのだろうか? 美沙希の出てくる余地なんか無い位、パパの心を一人占めに出来たのだろうか?

「お前がどう思ってるかは知らないけどよ、ママは、お前の事、すげぇ気に入ってるんだぞ?」

 ソラの声が、哀しげに響く。

「……美沙希が、私を? だから何よ?」

「ママにな、幸一と一緒に暮らす前から、俺はずっと、お前の事聞かされて来たんだよ。いっつも幸一の傍にいる、ヒメちゃんって言う、とっても可愛い子がいるって……。ママの話聞いて、俺もすっげぇワクワクしてたのに……。お前、全然可愛くねぇよ。やっぱりお前全然可愛くねぇよ」

「なんなのよ! 喧嘩打ってんの!」

「俺だってなぁ! ママと幸一が結婚するって聞いて、嫌だったよ。でも、俺は、猫だし、ママより先に死んじゃうし……。幸一が家に来た時、ママが嬉しそうにしてるのを何度も見てたし、だから、ママの為にも、俺は、幸一と仲良くなろうって……。だから、ヒメの事聞いて、俺と同じ奴がいるって、嬉しかったのに……」

 俯いたまま、ソラは嘆くように、ぽつりぽつりと言葉を漏らした。

「ママは、お前の事も大好きで、幸一の事も大好きで、でも、やっぱり俺の事も大好きでいてくれてる。俺は、そんだけで充分なんだ……」

 そう、哀しそうに、でも嬉しそうに、ソラは言った。

「……きっと、二人とも、俺らの事心配してると思う。お前連れて帰んないと、きっとママも幸一も、お前の事必死で探す。そうすると、俺は今晩の晩飯を忘れられるかもしれない……。それは絶対に避けたい!」

 そこでくるりと振り返ったソラは、背中で私に言った。

「だから、帰るぞ」

 そのままとぼとぼと歩きだすソラの背中には、いいからついて来い、と言う想いが見て取れた。

 意地を張るのも馬鹿らしく、かと言って弁明をするには、いい言葉が見つからなかった。だから私は、無言でその背中を追いかける事にした。

 先程走って来た見慣れない街並みを、手持無沙汰を誤魔化す為に眺めて歩く。

 ――その内、こいつとこの街に馴染んで行くのも、悪く無いかもしれないわね。

 何も考えていないように見えて、自分と同じように、寂しさを抱きしめていたのだと言うソラの背中を見つめながら、不意にそんな事を思った。

 家に帰り着くとすぐ、玄関でキョロキョロと辺りを見回していた美沙希に見つかった。

「良かった、帰って来た。幸一、ソラとヒメちゃん、戻って来た!」

 その声を聞き、パパが家の中から飛び出して来た。

 すぐさま私を抱きあげて、「こら、心配したんだぞ!」と、怒ってくれる。

 美沙希の顔の赤い線には、今はばんそうこうが貼られていて、少し血が滲んでいる程度だ。だけど、私はこの言葉を、美沙希に言わなければならないだろう。

「んぁ~お!」

 これから、一緒に暮らす者として。

 ――ごめんなさい。

 共に、パパが大好きな者として。

「気にしなくていいのよ」

 美沙希が私に、そんな言葉をくれる。時に人間とは、意外な鋭さを発揮し、こちらの想いを読み取って来るから不思議だ。

「それじゃ、二人も帰って来たし、ご飯にしようか」

「いやったぁ! メシメシ!」

 パパの号令に、ソラが嬉しそうに応える。

 家の中に運ばれる最中、美沙希の手の中で、ソラは私に叫んだ。

「そんじゃ改めて、これからよろしくな、ヒメ!」

 嬉しそうなその言葉に、精一杯の笑顔で応えてやる。

「真っ平ごめんよ!」


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ヒメゴコロ 泣村健汰 @nakimurarumikan

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