6 肌色

 その後、メグリ自身もなぜかリュウグウノツカイに変身できるようになっていた。


 アカマンボウ目リュウグウノツカイ科リュウグウノツカイ。


 体長三m強。蛇のように細長い白銀の胴。

 鶏のトサカのような頭頂のひれとつながって歯ブラシの毛のような背びれが尾の先まで生えている。ひれはすべて紅い。


 なぜこんなことになったのか。一から十まで原理がわからない。

 ただそうなる前と後では、メグリの心境がガラリと変わったことが、確かに言える。


 メグリはずっと、他人が自分のことで一喜一憂する様が理解できなかった。無関心ではない。怖かったのだ。


 それが、アンコに出会って、変わった。

 メグリのことを考えているのか、いないのかを推し量ることすらバカらしくなるほど、ヒトの常識を超えた少女だったから。


「アンコはいいの? 私まで半人半魚になったら」


 あなたは特別じゃなくなるんじゃない?


 言外に皮肉をこめたメグリに、アンコは嘲笑した。


「ウチ、特別になりたいって言った? 人間とか深海魚とかその分類の全部に属してますが嫌なだけ。

 浮いたり沈んだり、流れたり留まったり、自由でいたいの。そんだけ」


 一拍置いて、彼女はなんの含みもなく、顔をほころばせた。


「メグリと一緒で嬉しい」


 チョウチンアンコウの完全体となって泳ぐアンコの腹に突起がある。それはオスが癒着した名残なわけで……。メグリはそれ以上数えるのをやめた。知りたくもない。


 メグリは海底付近を直立の向きで、自身の胴をたゆませ、伸ばし、帯のように揺らめかせた。


 リュウグウノツカイの姿で泳ぐメグリにアンコがすり寄った。

 人間の手のひら程度のクロツノアンコウ。

 微生物が集まって発光するチョウチンの薄ぼんやりした幻想的な光に、メグリの背が鈍く反射した。


 深海の家に帰って、人間の姿に戻った時、アンコは「悔しかったんだ」と告白した。


「何が?」


「肌色って何色だと思う?」


 メグリは色鉛筆セットの中から、薄い橙色を指差す。


 アンコは顔を歪めた。


 やがて頭部だけチョウチンアンコウに変貌していく。

 今日は光の具合か、小豆色に近い黒の魚の肌があった。


 彼女は言うのだ。


「ウチもそう思う。肌色ってうすだいだいいろのことだって。ちっちゃい頃は何の疑問もなくそう思ってきた。

 そういう、常識の身ぐるみ被った差別で、こないだたくさんいじめられた。

 ウチはともだちって思ってたけど、みんなは憂さ晴らししたかったんだね。タミちゃんいなくなったらウチがものになった」


 アンコが「ウチ全然愛されてないじゃん、目からうろこぉ」と呟くと、実際メグリのからだから鱗が一枚剥げ落ちた。

 変身してすらいないのに。リュウグウノツカイに鱗はないのに。


 アンコの爆笑をさらったことは言うまでもない。




 夜空に穴が空いたような、みすぼらしい月だった。メグリには深海が思い出される。


 あの暗闇に数多の生き物が住んでいると知っていても、深海は「狭間」に見えていた。

地球がそこだけ創り忘れた、有の狭間にある無の空間があの場所なのだと。


 その晩、メグリの弟が勤める寿司屋にアンコと二人で行った。


 あんこう鍋を食べた。

 アンコは「めちゃ美味い……」と言いながら、眉一つ動かさず涙を流した。


 帰り際、なぜか息を詰まらせたような苦しげな表情の弟が会計に立った。 


「……姉さん、俺……、俺が奢るから。今日は」


「じゃあ、ご馳走になるね。あ、姉さん続けるから塾の講師。あんたも頑張って」


「……ああ……」


 おそらくそれが、父の問題をメグリだけに負担させたことに対する弟の精一杯の謝罪だった。


 帰宅して、というのは地上のメグリの自宅に帰ってきて、アンコは柔軟体操のように首を回しながら口をへの字にした。


「まあ、なに? いいヒトそうじゃん弟」


 おそらくそれは、以前メグリの弟を殺そうとしたことに対するアンコの精一杯の謝罪だった。


 メグリは、あーあ、と呆れながら笑った。




〈完〉





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走光性 @kazura1441

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