第13話 A-side


そんな日が続いた。俺はすっかり気が滅入ってしまっていた。

 ひまわりさんと呼ばれる前、会計、監査で第一線で活躍していた頃は、寝る間も惜しんで仕事をしていた。それが楽しかった。認められるのも、楽しかった。

 

 それが、どうだ。


 頭がどうかしているような男と女に、自分の存在も、価値も、否定される毎日じゃないか。


 何かで、洗脳とは、まず強烈な肉体的、精神的にダメージを与えたり、消耗している状態で行われるものだと聞いたことがある。拷問では、食べさせない状況に追い込み、徹底的に弱らせる。そこから新しい価値観を刷り込んでいくのだと。

 俺の場合、別に、誰に追い込まれたわけではないので、さすがにそれ以上は思考の暴走。ブレーキをかける。


 俺も、1年、2年もひまわりの部屋にいれば、あんな笑い方をするようになっちまうのだろうか。

 わからない。なるのかもしれない。ならないのかもしれない。どちらが正しい?


 


 病んでいるというだけで、ここまで堕とされるものなのか。


 女の一人は、仕事をしていてなぜか生活保護をもらっているという。知り合いの行政書士に聞いたのだが、国が定める最低生活費というものがあり、仕事をしていても、賃金がその最低額に満たなければ、差額が生活保護で出してもらえるという。そんな馬鹿なことがあるのか!?


 喫煙所でタバコを吸っていたが、吸殻を思いきり、灰皿に叩きつけてやった。

 男が二人入って来た。税理士補助の人間だろう。面識はない。「お疲れ様‘」お互いに声をかけた。俺は、隅で、壁に右足を蹴りつけるような体勢でタバコを吸い続けていた。それがどう見られようが気にならないくらい、ストレスは頂点に達していた。


「聞いた? またなんかやらかしたらしいよ」

「ああ、お客さんの確定申告の書類を、別の客に送っちまったんだってよ」

「バカじゃねえのかって思うよな。いつの話だ?」

「やっちゃったのが、1ヶ月前くらいで、先週あたりクレームが入ったんだってよ。ひまわりだよ、ひまわり」

 そのフレーズに俺は驚く。

「ひまわりだろうが、限度、超えてるだろ。俺だったら、2度と会社に来れねえよ」

 そんな話が聞こえてきた。大体、ひまわりさんというものは、なんとなく、見てわかるものだ。どこか目が虚だったり、テンションが異様だったり、はっきり言えば、気持ちが悪いのだ。

 顔に張り付いた様な笑顔。目が、全く笑っていない。むしろ、さあ、この目の前の男、つまり俺を、どのように潰してやろうか、というようにさえ、見える。


「個人情報中の個人情報じゃん。邪魔だよ、ひまわりは。なんなんだ、あいつら」

「畑に咲いてろ」

 

 こんな話を聞いて、俺はとても嬉しかった。まだ周りの人間には、俺がその一員になったことが伝わっていないし、少なくとも、一見して、「ひょっとしたらこいつ」とも思われていないのだ。思われない様子をしているのだ。当たり前だ。スーツに公認会計士のバッジ。プライである。季節がどう変わろうが、暑いでしょうと言われようが、なんと言われようが、俺は俺のプライドを、絶対に、捨てない。俺がどんな言葉を言うことができなくなっても、会社だろうが事務所だろうがひまわりにさえ逆らえなくなっても、俺の代わりに、このバッジが、彼を睨み続ける。


 死んでも。


 その日は、会計事務所の研修会が業務終了後にあった。

 俺は時短勤務状態になっていた。4時には上がっていいと言われるのだ。ひまわりの部屋の人間であれば、大した仕事は、あるまい。繁忙期はどうか知らないが。

 研修会は午後5時からだった。だから、コーヒーを飲んだり、タバコを吸ったり、喫煙所と休憩所を往復して待っていたのだった。

 何度目かの往復の時、休憩室にいたところを、ひまわり男に見つかってしまった。

「あなた、何をしているんですか? 帰っていいって言ったはずですよ」

 そんな、真顔で聞くような話でもないだろう。「おう!お疲れ!何してんの?もう定時じゃん!」くらいの、のりだって、別にいいのに。人間、敵意を向けてくる者には敵意で返すものである。

 最初の敵意はどこから来るのだろう? 空だろうか? 星だろうか? アイツヲコロセという電波だろうか?

「5時からの法改正の研修があるから、待ってんですよ」

「何ですか! 駄目ですよ!」

「はあ?」

 何でも否定から入る奴もいるが、これもまた、極端に、馬鹿である。

「業務研修に出るなって言うんですか。 そりゃまた、どういう話なんですか。どういう理論で、おっしゃってるんですか」

「あなたには関係がないんですよ」

「何!?」

 法改正が俺に関係がないとは、流石に、俺は怒るより血の気が引いた。

「関係ないし、私たちは会社から守られてるんですから、無理に出る必要はないんですよ! 無理しないでください!」

 こいつの言うことが、一文字も、理解することができない。わからないほど俺が馬鹿になったのか、極限までこいつが馬鹿なのかのどちらか。前者ではないのだから、後者だ。

「公認会計士や税務のプロフェッショナルが、法改正の勉強会に参加すると言っているのに、あなたに止められる覚えはないっす」

 本当は筋合いはないと言ってやりたかったくらいだ。裁判なんかでは、普通に使われる言葉なのだ。「賠償金を請求できる筋合のものではない」と言うように。しかしここは裁判所じゃない。

 そして、見よ。どういう連絡を取り合っているのか、ひまわりの女が満面の笑顔で向かってきた。あいつ部屋の中にいたんじゃないの?なんで真っ直ぐ向かってくるんだ?こいつらは電波で連絡を取り合ってるんじゃないのか?

「あのね、あなたは税理士さんかもしれないけど、その前に、ここではひまわりなの。ひまわりは、咲くことを第一に考えなければいけないし、太陽のことを考えなければいけないし、そうして成り立っているの。ね? だから、どちらが欠けてもいけないの。だから、ほら、無理しないで、ね?」

 俺は周りを見渡した。ナイフ、よくきれて鋭いナイフ。落ちてないか。流石に休憩室はねえか。チッ、と舌打ちをした。それもまた、このクソバカ二人には不愉快だったようだ。こちらの気も知らないで。

 そうこうしているうちに、馬鹿が、上席の部長を連れてきて、俺を止めた。結局、帰れ、と言うことになってしまった。

 こいつもかよ。


 惨めだった。



 ある日、会社との面談があった。


 そもそも俺は、診断書に双極性障害という文言があったから、一度会社を退職させられて、再入社という形で、ひまわりさんという非人道的な扱いを受けることになった。

 少し考えてみる。障害。いわゆる、難しい問題というものを孕んでいるのだろう。

 だけど。それは望む者が利用することができる制度であればいいじゃないか。どうして、俺がそんなものに押し込められなければいけないんだ! 畜生! 本当に、畜生だ。クソッタレ!なんでだ!? 俺が何をした!? ああ!! 最近よく止まらなくなる思考。目の前にテーブルがあれば、思い切り殴りつけていた。だろう。


 そして、ひまわりさんという障害関係の人間を取りまとめる、外部の、なんとか支援施設というのだそうだが、そこから派遣されてきて、月一回ほどこうして上司とその女と俺とで面談を行うのだ。ふん。月一回程度、話をしたところで何になる。クソッタレ!

 しかし、その言葉を直接ぶつけることも難しい。それは会計事務所の人事部の部長が同席するからだ。他社の人間が同席しているのに、みっともない真似はできない。

 しかし……

「どうですか、ひまわりさんとして、1ヶ月ほどの仕事を送ってこられて」

「人事部長。 先月の私の口座に振り込まれていた賃金は、9万円でした」

 こんなタイミングでしか聞けないだろう。聞かないわけにもいかないだろう。

「どうしてですか? 俺が何か、しましたか? どうしてこんな扱いを受けなければいけないんですか?」

 腕を組んで、頭がつるつる、、、、、、の部長が言った。

「こんな扱いとは、どう言うことですか?」

「4時で帰れと言われたり、会計ソフトの使い方を、一から教えられたり……。 俺は公認会計士ですよ……!? 幼稚園児にあいうえお教えるようなもんじゃないですか」

「あのね、当麻くん」

 君付けかよ。

「公認会計士だろうが、税理士だろうが、その前に、ひまわりさんであるということを忘れてるんじゃないですか?」

 「……」俺は黙って聞く。言い分を。

「世の中、いろんな病気の人がいます。障害の人がいるわけです。あなたも、その一人であることは、違いない。そうですよね。ですから、会社として、あなたを雇用した上で、あなたを守っていかなければならない。わかりますか?」

「いや、それは……」

 「守る守るって、何だよ。これまで、ずっと事務所を守ってきたのは、俺たち一線のプロだった」そのはずだった。いや、それは、と言ったものの、二の句が告げない。

「ですから、無理をさせてはいけない。無理をしてはいけない。そこは肝に銘じてもらいたいんですね」

「法改正の研修に参加できないのも、そういう話なんですか」

 先日の話を、言ってやった。

「それは、そうです。病気の人っていうのはね、人ごみが苦手なんです。人ごみが怖いんです。それで倒れるということもあります。だから、私の方でストップをかけます。うちは、安全に、安全運転でやっていきます」


 くそ。またナイフを持ってくるんだった。悔やまれる。

 ここで彩華という女性が真顔で発言した。

「企業様も、たいへん、当麻さんが頑張ってらっしゃることを評価されておられますよ。お仕事をとても頑張っておられることはよくわかります。ご病気なのに、遅刻も、欠勤もしないで。でも、それが逆に、強い負担になっていないか、ということは、気にしておられます。」

 これが「定着支援」ということか。何一つ、俺は支援されていない。

 あまりにも反論するところが多すぎて、俺は訳がわからなくなってきた。

「……遅刻をした方が、いいんですか?いきなり朝、今日休みますって言った方が事務所は安心するんですか?そうしろっていうなら、そうしますけど」

「いやいや、そういう訳じゃない。そこは頑張れるなら、頑張っていいと思いますよ」と、禿頭の人事部長が言った。何だか少し目が笑っていないように見えた。

「給料が9万いくらっていうのは、これまでの俺の6とか、7分の1くらいになった訳ですけど、それは仕方がないことなんですか?」

 彩華が言う。

「それは時短勤務ということですから、これまで通りというわけにはいかないですよね」

「それにしたって、程度があるでしょう。この地区の法定最低時給が981円だからって、俺の時給を981円にすることは、ないんじゃないですか」

 続けて部長に言った。

「部長。評価していただいているということですけれど、会計ソフト開いたり、コピー取ったりするのに評価も何も……

「いい加減にしないか!」

 何かキレるポイントがあったらしい。

「聞いていれば……。 給料が何分の一とか、それは時短なんだから、仕方ないんだ! あなたはね、自分が病気ということを、まず理解しなきゃ駄目だよ!頭で!あなた、暇でしょう!?何、暇じゃない!? 会社はね、あなたに責任ある仕事を任せているつもりはないんですよ。研修に参加させないのも、私たちの、配慮なんだ。あなたに対しての、ひまわりさんに対しての配慮なんですよ。それはあなた、ね、素直に、感謝の気持ちを持たなければ、駄目だよ。それが、うちの、ひまわりが根付く土をちゃんと作っておく、ということなんだからね。ゆっくり、焦らずに、伸びていけば、いいんだ。ゆっくり、咲いて……いきなさい」

 それは、真剣な説教だった。

 それは「わからない人に対して、わかるように、諭す」、教えを解くものだった。

 少なくとも、彼の中では、事務所では、俺が間違っているのであった。


 俺は、間違っている。

 正しいのは、ひまわり男とひまわり女。


 突き詰めて考えれば、俺は、双極性障害になったことが、間違っていた。


 そういうことだった。


 そうなのだ。

 間違っていたのは、誰でもない、俺だったのか。


 俺は立ち上がり、椅子をデスクの下に静かに戻し、頭を下げて、言った。


「本当に、申し訳ございませんでした」

  

 ああ。

 こうして俺は、ひどく、墜ちていくのか。

 

 俺はひまわりになって、咲いていくんだな、そう思った。


「ふざけないで……」


 遠くからそんな声が聞こえた。


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次回 第14話 RAISE  令和3年11月28日 19時配信

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