29.あのときが、一番幸せだったのかもしれない。


 望まなくとも、朝は勝手にやってくる。


 今日、七里さんの頭の上の数字は0になっているはずだ。僕以外に同じ力を持っている人がいるとすれば、僕の頭の上にも0という数字が見えるのだろう。


 平日だったけれど、僕は学校を休んだ。どうせ、期末テストの返却と解説が行われるだけだ。学校に行けば、嫌でも七里さんと顔を合わせることになる。


 七里さんと会いたくない日が訪れるなんて、思ってもみなかった。いつだって、彼女の存在は僕にとって輝かしいものだった。


 少し体調が優れない、という理由で担任に連絡した。母親にも同様に告げる。


 担任からも母親からも心配されたけど、疑われることはなかった。日ごろまあまあ真面目に生きてきたおかげだろう。申し訳ない気持ちがなくはないけれど、体調が優れないのは本当のことだ。


 不安と焦燥感で眠りが浅かったらしく、頭がボーっとしていた。午前中は寝て過ごすことに決める。


 自分がどうするべきかわからなかった。どうしたいのかすらも。


 七里さんと話したいけれど、七里さんと話すのが怖い。


 学校まで休んで、僕はいったい何をしたいのだろう。


 何もしたくない、というのが一番しっくりくるような気がする。


 七里さんと、もっと一緒にいたかった。


 僕は、どこで何をどう間違えたのか。


 もっとできることがあったのかもしれないし、間違いなどなくて、最初からこうなる運命だったというだけなのかもしれない。


 恋人ではなくなったら、僕と七里さんの関係はどうなってしまうのだろう。前みたいに笑って話せるだろうか。少なくとも僕は絶対に無理だと思う。


 こんなに好きなのに、どうして思い通りにいかないのだろう。


 思考の流れのようなものが、ぐちゃぐちゃに絡まって、身動きがとれなくなってしまっていた。


 七里さんのことを考えるだけで、心の柔らかい場所が痛む。


 そんな精神状態でしっかり眠れるわけもなく、正午前に目が覚めた。


 スマホには、脩平からの〈生きてるか?〉というメッセージと、七里さんからのメッセージが何通か届いていた。


 メッセージで別れを告げられるのかと思ったけれど、それは僕のことを心配する内容だった。


〈橘田くん、大丈夫?〉


〈昨日送ったメッセージは気にしないで。また今度話そう〉


〈今日はゆっくり休んでね。お大事に〉


 今度なんてないはずなのに。


 どうしてそんな、僕の心を揺さぶるようなメッセージを送ってくるのだろうか。涙が出そうになった。


 スマホの電源を切る。


 彼女に別れを突きつけられることが、たまらなく怖くて――。


 弱い僕は、彼女に向き合うことではなく、背を向けることを選択した。


 罪悪感はあった。けれどそれ以上に、もうどうにでもなれという気持ちの方が強かった。何もかもを投げ出したくなった。


 家にいるのも落ち着かない。


 日付が変わるまで、どこか遠くへ行ってしまおうか。そうだ。そうしよう。


 少し考えて、電源を切ったスマホは机に置いた。


 一応『夜中までには帰ります。心配しないでください。』と、メモを書いてリビングのテーブルに残しておく。


 財布をポケットに入れて、僕は家を出た。


 レモンが、くぅーん、と鳴いて僕の方にすり寄ってくる。


「ごめんな。散歩じゃないんだ」


 頭をなでると、うちの賢いペットは小屋に戻る。


 ――もしもこのまま、七里さんと会わなければ、僕たちは別れたことになるのだろうか。


 あの数字が正しければ、きっとそういうことになるのだと思う。


 最低だという自覚はあった。


 好きな人と恋人ではなくなるという結果は同じなのに、どうして、僕はこんなに臆病なのだろう。


 平日の昼間。普段は学校で授業を受けている時間だ。人とすれ違うたびにビクビクしてしまう。指名手配犯の気分だった。


 朝のラッシュが信じられないくらいに空いている電車に乗り、隣の県まで行って、あてもなくさまよった。


 ショッピングセンターをフラフラしてみたり、古本屋で漫画を立ち読みしてみたりした。漫画の内容はもちろん頭に入ってこなかった。


 ゲームセンターで二千円をクレーンゲームに費やしてみたりもした。普段なら絶対にそんなことはしない。結局、なんの成果も得られなかったけど、無駄なことをしたという後悔はあまり感じなかった。


 何をしようとしても手につかなくて、頭の中は七里さんのことでいっぱいだった。


 このお店、七里さんが好きそうだ。


 あのゆるキャラのキーホルダー、七里さんがバッグにつけてたな。


 七里さんがハマっているアーティストの新曲が流れている。


 結局のところ、僕は七里さんのことが大好きで。


 それが、彼女からのメッセージを無視し続ける免罪符にはならないこともわかっていた。


 知らない公園のベンチに座って、暗くなった空をボーっと眺めていた。


 星が綺麗に見えた。


「七里さんと一緒に見たかったな」


 口から勝手に言葉が滑り出た。すぐに、何をバカなことを、と思う。


 もう、僕たちの関係は終わるのだ。いや、もう終わっているのかもしれない。自分の頭上の数字は見れないから、それがわからないだけで。


 いつの間にか夜の十時になっていた。そろそろ補導されてしまう可能性もある時間だ。僕は帰りの電車に乗った。


 座席に座ると、かなり疲れていることに気づいた。ずっと歩きっぱなしだったから当然だ。


 このまま家に帰るのもなんだか気が進まなくて、紫桜しおう高校の最寄り駅で一度降りる。学校までの道を歩いた。誰もいない、暗い通学路が新鮮だった。


 夜の校舎には電気が点いていた。誰かが残業しているらしい。


「はぁ……」


 と、大きく息を吐き出す。


 僕は、何をしているのだろう。


 七里さんと向き合わずに、家を飛び出して。


 あてもなく、知らない場所をさまよって。


 ただ、現実から目を背けて逃げているだけではないか。


 これでは、思い通りにいかないからといって癇癪を起こす子どもと一緒だ。


 何一つ、問題は解決していなかった。


 学校の周りを歩きながら、僕は自己嫌悪の渦に飲まれていた。


 明日から、どういうふうに生きていけばいいのかすら、わからなくなってきた。


 いっそ高校を辞めてしまおうか。どこか遠くへ行って、働きながら暮らしてみようか。


 もちろん、そんな生活が成り立つと本気で思っているわけではないし、高校を辞める度胸なんて持ち合わせていない。


 すべて、僕のせいだった。自業自得だった。


 今までのように、身の程をわきまえて、身の丈に合った生き方をするべきだったのだ。


 片想いのまま終わる恋でよかった。それ以上を望んではいけなかった。


 それなのに――。


 誰かもわからない、七里さんの元恋人に嫉妬して。


 彼女を、独占したいと思ってしまった。


 僕なんかが、そんなことを考えてはいけなかったんだ。


 めちゃくちゃになった心は、自分自身を強く責め立てる。


 七里さんに片想いをしていた日々の愛おしさを思い出していた。


 あのときが、一番幸せだったのかもしれない。


 今ではもう、残酷な結末しか見えなくて。


 ただただ、悲しかった。


 鼻の奥がツンとして、涙の気配がした。


「そろそろ帰るか」


 そんなことをして泣きたい気分が収まるわけでもないのに、小さく声に出して。


 駅までの道を、なるべく遠回りして歩く。


 美味しそうなラーメン屋があったり、大きな神社があったりと、新しい発見があった。異世界に紛れ込んだ気分になる。夜だからなのかもしれない。


 冬の寒さが、容赦なく僕を襲う。


 もっとしっかり防寒をしてくればよかった。ほとんど何も考えずに家を出たため、コートを着ているだけだ。マフラーと手袋を持ってくるべきだった。


 吐いた息が白く染まるのを眺める。


 どこかへ行ってしまいたいのに、どこにも行けないでいた。無力を噛みしめて歩く。


 高校の最寄り駅から一本外れた道。


「橘田! 何してるの⁉」


 誰かが僕の腕をつかむ。


小野屋おのや……さん?」


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