28.たまらなく嬉しくて、どうしようもなく苦しかった。


 今日もいつも通り、七里さんと一緒に帰ることになっていた。


「ねえ橘田きったくん、最近どうかした? なんか元気がないような気がするんだけど」


 帰り道。七里さんが不安そうに僕の顔を覗き込む。数日前から、七里さんは僕に対して心配そうな顔を向けるようになった。


「なんでもないよ」


 僕が君の恋人でいれるのも、あと1日なんだね。


「本当に?」


「本当だよ」


 僕は即答する。


「何か、悩んでることとかあったら、話してほしいな。私は橘田くんの彼女なんだから」


 七里さんは、困ったように眉を下げる。


 その言葉が、たまらなく嬉しくて、どうしようもなく苦しかった。


「……うん」


 しばらく黙って歩いていると、七里さんが口を開いた。


「ねえ。この後、暇?」


「予定はないけど」


「ちょっと寄り道しない?」


 僕はドキッとする。


「寄り道?」


「うん」


 七里さんは、左手で僕の右手をギュッと握って、力強くうなずいた。


 何か、大事な話が始まるんじゃないか。そんな予感があった。


 僕たちは、学校から駅までの道からはちょっとだけ外れた場所にある、広い公園にやって来た。


 犬を連れて散歩に来ている人や、子どもを遊ばせる母親、健康のためにウォーキングをしている老人。たくさんの人がいた。


 手をつないだまま、公園の隅にあるベンチに腰を下ろす。


 植え込みを覆う溶け残った真っ白な雪が、太陽を反射して輝いていた。


「寒いのにごめんね」


「ううん。大丈夫」


 大丈夫なわけがなかった。僕たちの関係を決定的に変えてしまう何かが、これから起きるかもしれないのだ。寒さなんて感じないくらいに、心臓は鼓動を速くしていた。


 七里さんは、その小さな右手で制服の裾をギュッと握ると、口を開いた。


「あのね――」


 七里さんは意を決したように口を開く。かと思えば、考え込むように下を見る。そんな動作を三回ほど繰り返した。


 僕は黙って続きを待つ。絞首台に立つ死刑囚は、もしかするとこんな気持ちなのかもしれない。


 彼女は、ふぅ……と、大きく息を吐いて。


「話したいことがあったんだけど、なんか緊張してきちゃったから、また今度でもいいかな?」


「……うん。いいよ。いつでも聞く。明日でも、明後日でも、十年後でも」


 それを言って初めて、呼吸が止まっていたことに気づいた。


 七里さんは、別れを切り出そうとしていたのかもしれない。


 今は、僕と別れることにまだ迷っている段階なのだろうか。


 それとも、もう別れる決心はついていて、あとはそれを言葉にするだけなのだろうか。


 公園を出て、駅に向かって歩く。


 お互いに無言だった。冬の冷たい風と、息苦しい沈黙だけが、そこにはあった。


 別れの時がやってくることを知ってからも、ずっと表面上はギクシャクしないように努めてきた。けれど、今日はそれすらできなかった。七里さんもいつもの元気がないように見える。


「七里さん」


「ん?」


「僕、今日はちょっと、勉強してくから。テスト、ちょっと点数がまずくて……。このままだと、大学とか、その……ヤバいかもしれないから」


 駅前のファストフード店を示しながら、僕は早口で説明した。


「そっか」


 それじゃあ、私も一緒に。そう言われる前に。


「うん。だから、先に帰っててもらって大丈夫」


 僕が言うと、七里さんは一瞬だけ寂しそうな表情を見せて、すぐに笑顔に戻る。


「わかった。じゃあ、また明日ね」


 彼女はそう言って、大きく手を振った。その大げさなしぐさが、なんらかの感情を必死で隠そうとしているように見えた。


「うん。ばいばい」


 僕は控えめに手を振り返す。


 七里さんと一緒にいるのが苦しかった。泣き出さない自信がなかった。


 後ろを向いて歩いて行く七里さんの姿を眺めながら、僕は目を凝らす。


 もしかすると、という淡い期待と、どうせ、という諦念が混ざっていた。


 七里さんの頭上を確認する。


 数字は1のまま変わっていなかった。


 覚悟はしていたはずなのに、胸が痛む。ほんの少しでも期待をしてしまった自分を殴りたくなった。


 明日、数字は0になる。


 今の会話が、恋人として交わせる最後のものかもしれないと思うと、ひどく虚しくなった。


 呼び止めようかとも思ったけれど、呼び止めたところで何を言えばいいのかわからなかった。


 そうこうしているうちに、七里さんは見えなくなっていた。


 当然ながら、勉強には身が入らなかった。


 一時間も経たないうちに店を出る。


 帰宅して、夕食を食べ、シャワーを浴びた。いつも以上に表情が死んでいたらしく、有華ゆうかからも怪訝な視線を向けられてしまった。


 無心で壁を見つめていると、七里さんからのメッセージが届く。


〈明日、放課後あいてる? 今日話せなかったこと、話したい〉


 今度こそ、別れ話だ。


「……嫌だな」


 僕はスマホを放り投げて、ベッドに仰向けに寝転がる。


 七里さんとの思い出がよみがえってくる。


 初めて会った日のこと。


 意識していた片想い中の日々のこと。


 付き合ってからのこと。


 ――七里さんと別れるなんて嫌だ。


 それなら、話をしなければいい。会わなければいい。


 僕は、彼女からのメッセージに気づいていないふりをした。


 ただの時間稼ぎだ。そんなことをして、事態が好転するわけでもない。


 しばらく経ってから、彼女から再びメッセージが届いた。


〈橘田くんと、二人で行きたい場所があるんだ〉


 思い出作り的な意味で、最後に行っておきたい場所、ということだろうか。


 もしそうだとすれば、僕は絶対に行きたくない。


 今の僕はまるで、駄々をこねる子どもだった。

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