習作 冷凍能力者

 部屋の中は恐ろしく冷え切っていた。まるで冷凍庫のように感じられ、半袖のシャツから出た腕に鳥肌が立ったのを覚えている。部屋だけではない。病院のロビーも廊下も、どこも同じように冷え切っていて、母の病室は殊の外寒く感じられた。

 母は一人部屋の奥側、窓からの日差しが差し込む場所でベッドの上にいた。上体を起こし背中をクッションに預け、驚いた顔で私を見ていた。来ている服は入院患者用の衣服で、壁紙と同じようなクリーム色をしていた。母の顔は青白く、クリーム色の色彩と明るい日差しの中で、どこか現実感を欠いているように見えた。

「雁人」

「お母さん……体は大丈夫?」

 当時五歳だった俺は状況をはっきりとは理解していなかった。自分が何かをしてしまったらしいことは分かっていたが、それが何なのかは分かっていなかった。

 兄は俺を責め、父は紅潮した顔で部屋に戻れ、出てくるなというだけだった。ハウスキーパーロボのアーウィンは何も心配ないと繰り返し俺に言い続けていた。母が倒れ救急車で運ばれていったのに、心配ないわけないじゃないか。そう癇癪を起し、前の日の晩に俺はアーウィンに当たり散らしていた。

「ええ……大丈夫よ。ちょっと怪我をしたけど……すぐ治るわ」

 母はぎこちなく笑った。

 俺は少しうれしくなった。大好きな母がそこにいて、そしてすぐに帰ってくるだろうと思ったからだ。

 今ならわかる。母のぎこちない笑みに潜んでいたものは、それは恐怖だったのだと。他ならぬ俺に、母は恐怖していたのだ。しかし母性か、あるいは人としての優しさか、母は俺を見捨てようとはせず、受け入れようとしてくれていたのだ。

「ここ、寒いね。お母さんは寒くない?」

 俺は部屋を見回した。空調が壊れているのかも知れないと思ったのだ。来る途中は少し熱いぐらいの気温だったのに、この部屋は異常に寒かったのだ。しかし寒ければ、この部屋くらいの広さならメタフォーミングで調整できるはずだ。しかし母は怪我をしていたから、きっと出来ないのだろうと思った。そして俺はまだ能力が発現していなかったから、母のために部屋の温度を上げることは出来なかった。

「ちょっと……寒いかしら。ねえ、雁人は一人で来たの?」

 母は毛布を体にかけ直し、両腕で自分を抱きしめるように腕を組んだ。母の吐く息は白くなっていた。おかしいなあ、と、俺は不思議に思っていた。まるで冬だ。今は六月だというのに、こんなに寒いなんてどうかしている。母が風邪をひいてしまうと、俺は思い始めていた。

「僕一人で来たんだ。本当はお父さんに部屋にいろって言われていたんだけど、アーウィンにお願いして出してもらったんだ」

 俺はベッドのすぐ横に立って母の顔を覗き込んだ。母は何故か俺から離れるようにベッドの端に寄った。

「そうなの……いけないわ、雁人。お父さんが心配するじゃない……早く帰らないと。今、お父さんに連絡するわ」

 母の手が背後のケーブルをつかみ、端についている丸いスイッチを押した。ナースコールで呼び出しをしたようだった。

 母は両腕で体を抱き、明らかに震え始めていた。寒さのせいか唇が紫色になり、顔はより一層青白くなっていた。日差しは暖かそうなのに、まるで氷に包まれてでもいるようだった。

「お母さん大丈夫?」

 俺は母に手を伸ばした。

「触らないで!」

 まるで毒蛇でも追い払うかのように、母は俺の手を払いのけた。俺は手を引き、信じられない気持ちで母を見ていた。母の目に浮かぶのは愛情などではなかった。怒られた。嫌われた。しかし、何故怒られたのかが分からない。そう言った気持ちが俺の胸に一杯になり、心が張り裂けそうになった。部屋は一層寒く感じられた。

「雁人、ごめんなさい……でもあなたに触れられると、私は……体が凍り付いてしまうの」

 小さな軋むような音が聞こえた。ベッドの金属部分に白い結晶が広がり始めていた。まるで霜が降りたかのように白い。そして母の吐く息はいよいよ白く、部屋の温度もさらに下がっているようだった。

「何なの、これ? 変だ……どうしちゃったの?」

 俺は自分の周囲が段々と凍り付いていくのに気付いた。ベッドの手すり。テーブルの小さな時計。コップの中の水は凍り付き、コップが割れた。母は毛布を手繰り寄せ、体を縮めて激しく震え出した。

「雁人、やめて! この部屋から出て行って! 出て行きなさい!」

 母はそう叫び咳込んだ。冷えすぎた空気が肺に届いたのだ。苦しそうにむせる姿に、俺はただ混乱するだけだった。

「お母さんごめんなさい! 僕……僕、どうしちゃったの?」

 俺はベッドから離れる。母は咳込んで何も答えられる状況ではなかった。

 ああ、何てことだろうか。俺はまた、何かをしでかしてしまったらしい。俺は、ただ一目母に会いたかっただけなのに。優しく笑う母に抱きしめてもらいたかっただけなのに。

「お母さん……」

 その時の気持ちはうまく言葉にできない。悲しいのでもなく、怒りや恐怖でもない。名状しがたい感情が俺の心を支配し、そして俺のメタフォーミング能力は、自分でも自覚できないうちに垂れ流しになっていた。それも、最悪の形で。

「雁、人……」

 母の声さえもが凍り付いた。恐怖に見開かれた目は充血し、まるで母ではない別の誰かのようだった。両腕で自分を抱きしめた形で、母は動かなくなった。

「お母さん! 行かないで!」

 母が遠くに行ってしまう。漠然とそう感じ取った俺の体から最大強度の能力が放たれた。それは半径二〇〇メートルにも及び、一七人の死者と四八人の負傷者を出した。母はその一七人の死者のうちの一人だ。

 俺が自分の能力を知るきっかけであり、俺の人生はそこで一度終わった。母を殺し、俺は人ならぬ存在へと成り果てたのだ。

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