百万石の笑顔

二十一歳の春、僕は加賀百万石の古都、そして今も輝く街、金沢にいました。


北陸に行こう。ふと思い立ってスポーツバッグに着替えを詰め込み、地図とお金少々を持ってバイクに跨りました。北陸は、長崎で高校生をしているときには全くなじみのない地方でした。進学して神戸に来てからも、近畿地方と北陸地方、地方が違うわけで大して身近に感じるところではありませんでした。しかしある日何気なく見ていたドラマの主人公が北陸出身だと言う設定だったので興味がわいて地図で見てみると、確かに遠いけど、何泊かに分ければ十分行けるところだということが分かりました。北陸は思ったより近い。北陸に行けばドラマの主人公のように和久井映美みたいな女性と恋愛ができる。そうと分かったとたん行きたくなって仕方がなくなったのでした。


兵庫県、大阪府、京都府、滋賀県、福井県、石川県、富山県、二府五県を股にかけた、それまでの人生で最もスケールの大きい旅が始まりました。


兼六園はすばらしい庭園でした。少し雨が降っていたせいか、木々が瑞々しい濃い青葉の色を発しており、そんなに感動する人間でなかった僕が、その繊細で濃厚な景観に心を奪われて、時間を忘れてしばらく立ち尽くしてしまっていました。我に返って思いました。そうだ。写真を撮ろう。そしてみんなに見せて、金沢のよさを伝えよう。そうと決めるとさっそく売店で使い捨てカメラを買っていろんな角度から自分なりに景色を写しました。 かなり写真をとったあとで、一枚ぐらいは自分が写っているものも欲しいなと思いました。この素晴らしい景色に自分がしっとりと引き立てられている写真があってもいいはずです。しかし当然、そのためには誰かにシャッターを押してもらわないといけません。


辺りを見回しました。若い女性のグループがいました。せっかく頼むなら女性に頼もう。そして、「どこからですか?」とか言ってちょっと会話になっちゃったりして、そうだ、それで相手から「どこからですか。」と訊かれたら、神戸と言わず長崎と言えば、「まあ、遠くから。」とか言って話が弾むかも。すごいや。かれこれ一分ぐらいいろいろと想像しました。しかし、妄想に耽るだけで、実際は、見ず知らずの女性に声をかけるような度胸はありませんでした。


もじもじおろおろしているうちに何人も何組も観光客が通っていきました。なんでたったこれだけのことを頼めないんだろう。でも頼まなければ。そんなことを考えているうちに六十歳くらいの前歯の一本抜けたおじさんが通りかかりました。もうこの人にしよう。この人でいいや。この人ぐらいにしか声を掛けきれない。そう思うと、なぜかまっすぐではなくやや円弧を描く軌道でつかつかとおじさんに近寄っていき、そして話しかけました。


「すみません。写真をお願いしたいんですが。」


おじさんはしばしきょとんとしていました。そして、そのおじさんから返ってきた反応は、全く想定外のものでした。


「え?わ、わしを撮るの?」


意外な反応に度肝を抜かれ、判断力が吹っ飛んで全くなくなりました。判断力ゼロの状態で、どういうわけだか分かりませんが、僕が写真を頼んだことが発端でこのおじさんに恥をかかせてはいけない。強くそう思ってしまいました。そこで、


「あ、は、はい。そうなんです。撮りたいなと思いまして。」


と、答えてしまいました。


「じゃ、じゃあ、どうぞ。ここでいいですか。」


と、池の前にポーズと表情をつくって立つおじさんに、結局、なんだか、訳が分からないまま、


「そこでいいですよ。いいと思います。では、撮りまーす。はいっ。」


と言って、シャッターを押してしまいました。 その使い捨てカメラのフィルムは未だに現像せず、押入れのダンボールの中で、十年間以上、おじさんと、僕のおじさんとの思い出を封じ込めています。

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