ラテンの洗礼

1996年9月27日現地時間午後9時過ぎ、僕はポルトガルの首都リスボン、ポルテラ・デ・サカヴェン空港に降り立ちました。


学校の休みを利用しての旅行でした。初めてのヨーロッパ! なぜ、数ある国の中から行き先としてポルトガルを選んだか。それは、とある本で偶然見たポルトガルの街の景色が忘れられず、どうしても直に見たくなって思わず飛び立ってしまったのです。または、そういう自分を演出して自己満足したかったからです。 その後、実際にその目的の景色を見たとき、とても感動してしまったので、その印象が何よりとなってしまい、今となっては、本当にその景色が見たかったのか、そういう自分の演出が目的だったかどうかははっきりとは分からなくなっています。しかし、僕の性格を自己分析する限り、やはり後者の方かなと思うわけです。ただ、はっきり言えることは、当時から僕は山頂や岬のような『端っこ』が大好きでした。ポルトガルの『ヨーロッパの最西端』という位置に惹かれたのは間違いありません。


ガイドブックに従って、おっかなびっくり両替をして、リスボン中心部へ向かうためのタクシー乗り場に行きました。タクシー乗り場にはたくさんの人が行列を作っていました。僕は行列の一番後ろの若いヨーロッパ人の優しそうなアベックの次に並びました。僕と目が合うと、アベックの女性の方がニコッと笑いかけてくれました。たったそれだけで僕は彼女のことがとても気に入ってしまいました。彼女のすぐ横に彼氏が目の前にいるのにつくづくバカです。


何はともあれ、僕の後ろにもさらに人が並んで続きました。 タクシーの待ち時間は長かったのですが、タクシーを待ちながら、行き交う人、車、初めてのヨーロッパの様子を眺めるのはそんなに退屈しませんでした。ただ、周りの人はさすがに退屈でイライラしているようでした。


いよいよあと数台で自分の番が来るというときでした。前の優しそうなアベックに異変が起きました。何か男性の言った一言が引き金となったようです。突然女性が豹変し、男性を激しい口調で罵りはじめました。男性は下を向いて黙り込みました。黙り込んだ男性に対して女性はさらに罵りつづけました。口調は激しくなる一方でした。


男性はおされているというか、全く反論もできないような様子でした。下を向いてただ、ただ黙り込んだままでした。そんな男性に、女性は、さらに大きな声で一言言い放ちました。僕には、


「何か言ったらどうなのさ!」


と言っているように感じました。 男性はそれでも黙り込んでいました。黙り込んでいる男性に相当腹が立ったのでしょう。ついに女性は振りかぶって男性の頬を思いっきり平手打ちしました。うつむいていた男性の顔は首がもげるのではないかという勢いで大きく右へ。それでも男性はうつむき加減で無言で立ち尽くしていました。平手打ちで活を入れても反応がなくうつむき加減のままの男性に相当腹が立ったのでしょう。もう一度振りかぶって思いっきり男性の頬を平手打ち・・・いや、僕は見ました。グーです。そう、拳の一撃です。しかも、間髪いれずに次は左の拳の一撃が。なんと言うことでしょう。しかも、女性の勢いはもう止まりません。右、左、右、左、右。ちょっと疲れたら少し間を置いて息を整えてもう一度右から左、右、左、右と。右、左、右、左。右、左、右、左、右。僕が笑顔に惹かれてちょっと好きになりかけた女性は、いまや鬼の形相でした。


まあ、その、僕も怒った女性の顔は嫌いではありませんが、限度を超えています。


さて、うつむき加減のサンドバックと化した男性はすでに相当顔が腫れていました。殴られてこんなに顔が腫れている人を初めて直に見ました。しかし、これは僕がポルトガルで直に見たかったものとは違います。それに、タクシーは既にアベックの番になっているのに、無我夢中となった女性と、動けない男性にはそんなもの見えないらしく、次の番のタクシー運転手のおじさんも、彼らの荷物をトランクに積み込んでいいのかどうか、車の前で困り果てていました。


困り果てたタクシー運転手のおじさんは、肩をすくめて見せました。よく、西洋のテレビ番組で見る困り果てたときの動作で、初めて直に見ました。しかし、これも僕がポルトガルで直に見たかったものとは違います。


運転手、僕、僕の後ろに並んでいる人達もどうすることもできずに立ち尽くしていたのですが、あまりにも二人の喧嘩が長く、タクシーに乗ろうとしないため、また、タクシーの順番が来ていることに気付いていないため、あるいは、今後仲直りして二人でタクシー乗る展開になることが期待できないため、運転手が僕に目で合図をして、僕は車に乗り込もうとしました。


僕は、勝敗はとっくに決まっているのにまだ続いている喧嘩の真っ最中の二人の横をすり抜けてタクシーに乗り込もうとしました。女性とタクシーの隙間は約一メートル。通り抜けられない幅ではありません。僕は慎重に女性の後ろをすり抜けようとしました。しかし、抜き足差し足の僕の足が、ポルトガル旅行行程二週間分の準備が詰まったパンパンのかばんをうっかり蹴ってしまい、それがパンチを繰り出しながらフットワークを踏む女性の足に触れてしまいました。女性は僕の方を向き、相変わらずの鬼の形相の激しい口調で、


「邪魔するな!ボケ!」


のような感じのことを叫びました。タクシーの順番を抜いたことではなく、パンチを繰り出すステップの邪魔をしたことに文句を言っているようでした。


僕は慌ててタクシーに逃げるように乗り込み、一生懸命たどたどしくホテルの名前を連呼してタクシーに出発してもらいました。まだ続く喧嘩がどんどん遠くになり、角を曲がるとなくなりました。

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