夜明けのランナー

中総体も終わり、いよいよ僕たち三年生は引退して勉強に専念することになりました。しかし、試験前の二週間の休みを経て久しぶりに練習に復帰しただけでも筋肉痛になったり、ちょっと走っただけで息が切れたりするのを何度も経験していた僕は、これから十ヶ月もクラブ活動から離れることで体力が明らかに落ちるのをとてもいやだと思いました。また、何かのテレビのコマーシャルで朝ジョギングを爽やかにしているシーンを見て自分もあんなことをおしゃれにこなす行動派の仲間入りをしたいと思っていたこともあり、中学を卒業するまで朝のジョギングをすることにしました。


母親も賛同してくれました。 初日、まだやや薄暗い時間帯でした。とりあえず考えてみたのは川端を通るコースを含んだ近所の一角を五周、だいたい二十分程度だったでしょうか、ちょっときつめで汗ばんで息が切れるぐらいのちょうどいい内容でした。


そんなきれいな川ではなかったといえばそうですが川のせせらぎをききながら、そして初夏の夜明けの空気を吸いながらジョギングをしました。行動する時間が違うだけで日々の景色は新鮮な情緒を醸しだしていました。学校帰りに寄り道をするときにしか見たことがなかった八百屋と豆腐屋をあわせたような商店はこんな早くから開いているのか、むしろ朝の方が活気があるんだ、などと新たな発見もしながら、爽快な気持ちが後押しして店頭にでていた店主と目があった際には挨拶などしてしまったりして、高揚した気分でジョギングを終えました。


家に着く頃には小鳥がさえずり、輝くような明るい朝がきていました。 二日目と三日目、こんなさわやかでいい習慣、一日しなかっただけでももったいないなという気分になりました。日曜日もやろうかな、もしかして、すっかり癖になってやめられなくなってしまったりしたらどうしようなんて考えながら走りきりました。爽やかな疲労感が心地よく感じられました。満足でした。


四日目、いつもと同じコースを爽やかに走っていました。いつもの商店の前を通りすぎてしばらく走っているとコース上で朝早くからスーツを着ている四十歳ぐらいの男性に呼び止められました。僕は呼び止められてもその場駆け足をしていました。

「君、君、ちょっといいかな?」

「はい?」

「君はいっつもこの時間マラソンしてるの?」

「マラソンというか、ジョギング程度ですけど、まあ最近からですけど、はい。」

「最近っていつから?」

「四日目です。」

「へぇーっ、偉いねえ。三日坊主じゃないんだ。大変じゃない?」

「いや、そんなに大変じゃないです。」

「ふーん。で、一応さ、名前と住所教えてくれない?」

「えっ?」

「いやね、警察なんだけど、ここら辺で最近、女性の下着がよく盗まれているって話でちょっと調べているわけなのね。で、ここら辺朝通る人の名前みんなきいてるのよ。」


会話の途中でいつの間にかその場駆け足はやめてしまっていました。そして、自分の中でジョギングをして高揚していた気分がどんどん落ち込んでいくのが分かりました。刑事ドラマの聞き込みのシーンのように、決して疑っているわけではなくて参考だから、でも教えてくれという旨を説明されました。その間の刑事の顔は苦笑いと照れ笑いの混じったにやついた表情でした。仕方なく、名前と住所を言いました。僕も不愉快な気分がどうしても表に出てしまい、くぐもった小さな声で言ったので二度ほど聞き返され、さらに名前を漢字でどう書くのかまでもしっかりきかれました。


僕の名前と住所となぜここを通ったかが警察の手帳に記入されていきました。ジョギングをする純粋で爽やかな動機が汚されたような気分でした。


「どうも、ありがとう。ところでさ。」

「はい?」

「ところで、ここだけの話、誰か怪しい人見なかった?」

「別に見ませんでした。」

「あ、そう、もういいですよ。じゃ、頑張ってね。」


走り出しました。


なんでこんなことになるんだろうと悲しくなりながら走りました。とても傷ついているのに平然を装って走りました。警察に声を掛けられた通りから曲がったとたん、目に涙があふれてきました。泣きながら走るとそのうちうっうっと嗚咽が漏れる状況になりました。家に帰るまでには泣きやまなければと思えば思うほどこみ上げて止まらなくなってきました。しかしまだ、何周か残っていました。もう帰ろうかと思ったのですがまだ泣きやむことができないでくしゃくしゃの顔が直らないし、それに途中でやめたら負けだと思って残りの周を一生懸命走りました。もちろん商店の前も何回か通りました。警察に怪しい人を見なかったかときかれて間違いなく僕のことを怪しいと証言しているであろう商店の店主の前を何回も平然を装って、そこの前だけは必死で嗚咽を飲み込んで涙を汗に見せかけて走り抜けました。


次の日ももう走りたくも起きたくもなかったのですが、やめたら負けだし何よりもぱったり姿を消すと疑いが強くなることをおそれて苦しいのにやめられず、親にも相談しきれないまま、その後三ヶ月ぐらい同じコースを同じだけ走り続け、これだけへこたれずに続ければ下着泥棒の疑いも濃くならないだろうし負けではないだろう、もうそろそろいいだろうかと思うぐらい走るだけ走ったら、ある日やめた。

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