関口(=仮名)

高校三年生の冬でした。なんてことになってしまったのだろうと思いました。二時間目の英語の授業中に明らかに食あたりによる下痢の症状と分かる腹痛に襲われました。


前日の昼休みに買った惣菜パン、『玉子ドーナツ』の余りをお腹が減ったからといって夜食に食べたせいだというのが分かりきっていたので、それと同時に自分で自分が嫌になりました。


たぶん顔は真っ青だったと思われます。その場にじっとしているだけで耐えられない感じで、当てられて立ったり座ったり声を出したりを普通にするのはまず無理だろうという状況でした。教室には時計はなく、そのときは腕時計をしていなかったので何時何分なのかは分かりませんでした。


もうそろそろ終了の時間じゃないかと思いながら我慢して待っているときに、右斜め前の生徒の腕時計がふとした動作の合間に見えました。あと二十分も残っていました。痛みに耐えているので一分一秒が普段よりも長く感じられるようでした。そこにきて、ちょうど先生に当てられた二つ後ろの席の生徒が単語の意味を答えられず、


「お前ちゃんと予習しとっとや?ちょっとノートば見せてみろ。」


と言って先生が僕の横をとおってその生徒のほうへ行きました。実は僕も予習をしていなくて、別の部分のノートを開けてまるで予習をしているかのような振りをして授業を受けていたので横を通られたときはどきどきしました。ばれはしませんでした。しかし先生が行き帰りに横を通ったときに起きた軽い空気の流れだけでゾクッと寒気がしました。かなり切羽詰っているなとさらに実感しました。


そんなこんなのせいでチャイムが鳴っても先生は予習をしていない生徒の説教をしたロスタイムの分だけ授業を続けてしまいました。時計を持っていなかったのではっきりとしたことは分かりませんが、十分間の休み時間に対して半分以上を使われてしまったように感じました。


とにかく授業が終わりました。その先生はなぜか最初と最後の起立礼をいらないというこだわりの先生だったので立ち座りの動作をしないでよくて助かりました。とにかくトイレに行かなくてはと思いました。しかし動くのがつらかったため、体調と残り時間を考えたら早く行かなければいけないのに早く動けないというなんとも歯がゆい状況でした。


ゆっくりと立ち上がり、他の生徒がトイレに向かう歩行速度に比べて不自然に遅い足並みで自分なりに向かいました。ただ、授業を終えたクラスメートらが一斉に向かう、僕らの教室から一番近いトイレにははじめから向かっていませんでした。はじめから一階下がって二年生のフロアにあるトイレに向かっていました。青い顔をして個室に入るところを見られたくなかったからです。実は、学校のような公共の場にあるトイレの個室に入るのはその歳になって人生で初めてだったため、そういった意味でそのときはかなりどきどきしていました。


二年生のフロアもトイレは満員でした。さらに一階下がって一年生のフロアに行っても同様でした。結局さらに歩いて短い渡り廊下を渡ってすぐの、理科室とか視聴覚室とかばっかりある別の棟の一階のトイレに行きました。


誰一人いませんでした。よかったと思い、個室のドアを開けて内鍵を閉めて跨りました。 突然ガラガラだったトイレに大勢の生徒が入ってきました。体育の授業のための着替えを終えてグラウンドに向かう一団のようでした。確かにグラウンドに出て行く人たちにとってはこのトイレを使って、そのあと運動靴に履き替えて行くのが一番都合のいいコースでした。僕が今終わったとしてもがやがやと話をしながらトイレにいる大勢の中を、なんだか出て行きにくいなと困っていました。


しかし事はそんな安易なものではありませんでした。突然一団のうちの一人が内鍵の閉まっている個室に気付き、


「あれ、誰かはいっとるぞ。」


と言い出しました。今度は別の人が、


「これ関口(=仮名)じゃなかっや?」


と、言いました。そのとたん、


「おーい、関口。なんしよっとや!」

「関口君、入ってますかー?出てますかー?」


とか言いながらゲラゲラ笑われながらドアをみんなに代わる代わるノックされ、その後エスカレートして一斉にぼこぼこに蹴られました。高校生にもなってくるとさすがにそういう悪戯に面白さを見出す人も減ってきているでしょうから、その関口という人のクラス内でのお人柄だったのでしょう。しかし僕は関口ではありません。


しまいには上から覗かれたりされるのではないのかと中でずっと怯えていました。うち一人の上履きの色がドアの隙間から見えました。赤、ということはドアの向こうで蹴っているのは二年生でした。だからどうだというわけではないですが、ちなみにドアのこっちで困っている僕の上履きの色は三年生の黄色でした。


どうにかしなくてはとは思ったのですが、どうにかしようにも、何しろ尻尾が生えていたので身動き取れず、ただ、ただ、怯えてじっと耐えていました。そうこうしているうちに、


「あれ?関口。」

「おう、なんや。」

「え?」

「あれ?」


という、関口(=本物)が現れたのに驚いたらしい会話がなされ、その後シーンと静まり返ってそのままトイレから人の声がしなくなりました。助かりました。というよりも僕は関口ではありません。初めて行った学校のトイレの個室で怖い目に遭ってしまい心の傷が残りました。その後人の完全に気配がなくなったことを十分に確認して個室から出てきて教室に戻ろうとしたのですが、途中でチャイムが鳴ってしまい、次の物理に遅刻しました。

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