春よ、

雨後の筍

春の木漏れ日

「待ったかい? いやぁ、中々みんなが離してくれなくてね……」


 その人は軋んだ音を立てながら扉を開けて教室に入ってきた。

 手には一本の筒を携え、胸に白い花のコサージュをつけており、紙が筒になった以外さっき体育館の壇上で見た姿のままだった。


「いえ、全然待ってませんよ。先輩は人気者ですから、今日くらい皆さんとゆっくりお話ししてきても良かったくらいです」

「ふふ、気遣いありがとう」


 先輩は演劇部に所属しており、そのルックスと演技力から、学校の中でまさにカリスマの様な存在だった。

 いつも笑顔を絶やさず、常に凛と張った背中は、穏やかな上品さと、崇高な気高さが感じられた。

 故に今日の様な特別な日には人が自然と集まってくるのだ。

 そんな人とこうして関わっているのは奇跡だと思う。

 あの日、僕が衝動的にあんな事を言った結果これなのだから人生分からない。


「ここに来るのも、今日で最後になるね。じゃあ、早速始めるかい?」

「はい、お願いします」


 慣れた様子で僕と先輩は、準備を始めた。

 僕の真向かい一メートル程の距離に椅子を置いて、正対して座る先輩。

 綺麗な鼻筋に、美しく開いた瞳、いつまで経ってもこの距離で見る先輩は何もなくても緊張してしまう。

 お互いの準備ができたのを見計らい、時計を一瞥してキリのいい時間になった事を確かめた。


「じゃあ行きます」


 僕の一言で先輩は物言わぬ石膏像になった。

 卒業証書の入った筒を胸の前に品良く掲げ、微笑んでいる。

 それはまるで、記念写真を撮る瞬間を切り取った様な躍動感を感じる出立ちだった。

 今日で最後、再びその言葉が僕の中に駆け巡ったが、それでも僕は、構う事なく作業を始めた。

 スケッチブックに濃い鉛筆一本、迷う事なく筆を進めていく。

 クロッキーと呼ばれる短時間で絵を描くこの練習にも大分慣れてきて、かなり精密な部分まで描けるようになってきた。

 一本、また一本と線が増えていき、少しずつ目の前にいる美しい人の今が僕の手によって姿を現していく。

 紙と鉛筆が擦れる音だけがこだまする中、春の陽気が窓から我先にと入り込んでくる。

 古びた壁面に囲まれている誰か分からない半身の石膏像がたくさん置かれたこの美術室に、暖かな空気とアンニュイな空間が僕を静かに包み込む。

 こういう春の雰囲気は嫌いだけれど、きっとこの人は好きなのかもしれないと考えたら不思議と嫌ではなかった。

 僕の手は自分でも制御しきれない程に、迷いなく動き続けているのに、頭は何処か別の視点から今の僕達の姿を捉えていた。

 先輩を構成する線が増えていく度に、先輩との思い出も溢れてくる。


 先輩との出会いは、僕がこの高校に入学して少し経った頃だった。

 美術部に入ろうと、この古びた美術室に足を運んだ時の事だった。

 絵や彫刻を造っている人はいなかったが、代わりに外を眺めている女生徒が一人窓際に立っていた。


「あの、すいません。美術部ってここで活動してますか?」

「美術部はうちにはないよ。すまないね、私は演劇部の人間なんだ」


 そう言って振り返った人物こそが先輩だった。

 新入生歓迎会の時に先輩率いる演劇部の人達が公演を行っていた為、先輩の事は知っていた。

 圧倒的な演技力と、その見た目から新入生の心を鷲掴みにしていた事が印象的な人だった。

 しかし、僕の目の前にいる人物はまるで別人の様に歓迎会の時に演技をしていた時の迫力は一切感じなかった。


「あなたは、歓迎会の時に主役を務めていた……」

「覚えていてくれたんだね、嬉しいよ」


 はにかむ姿を見て、やはり顔の良さがひたすらに目立っているが、それとは別に何か引っかかるものを感じた。


「美術部は無いから、この部屋は誰も使っていないんだ。私も一人になりたい時はここに来る。君も何かしたい時は借りるといいよ」


 この時の僕はどうかしていたと思う。きっと、この引っかかりの答えを探したい一心だったに違いない。


「なら、先輩がいる時に来てもいいですか? それと……僕の絵のモデルになってくれませんか?」


 先輩は、それを聞くやお腹を抱えて声を上げて笑った。

 その時の先輩に、引っかかりは一切感じなかった。


「君、面白いね。ほぼ初対面の人間に絵のモデルを頼むなんて。分かった、興が乗ったから引き受けよう。毎週水曜日、美術室に放課後でどうだい?」


 僕は快諾した。それから先輩との関係が始まった。

 中々上達しない僕の絵を見ても、先輩は文句のひとつも言わずに、毎週水曜日、律儀に付き合ってくれた。

 特にお互いを探るような会話なんて無く、ただ絵を描き、描かれて、軽く話をする、それだけの関係だった。

 しかし、そんな時間が僕にはとても楽しく感じた。

 そんな関係も今日で最後。絵を描く手に力が入る。

 先輩はどうやら遠くの演劇を学べる専門学校へと通うらしい。

 つまりこれを描き終えたら、先輩とはもう会う事はない。

 結局あの時感じた引っかかりの正体は分からないままだった。

 それでも、先輩と週一だけ過ごす二年間はとても充実していた。文句など無い、未練もない。

 最後の一本の線が描かれ、晴れて先輩が紙の中に命を受けた。

 その瞬間、僕の中に春が駆け抜けていくのを感じた。


「出来ました。今まで、ありがとうございました。ご卒業おめでとうございます。これ、良かったら」


 僕は今描いた先輩の絵をそっと手渡した。


「先輩、春……好きですか?」


 先輩の返事も待たずに、急に自分の口から出た言葉に驚いた。


「ふふ、急にどうしたんだい? 春、私は大好きだよ」


 予想通りの答えだった。何故こんな事を聞いたのか自分でも理解出来ない。


「僕は嫌いです」

「どうしてだい?」

「春は、僕から大切なものを奪っていくからです。幼い頃に大好きだった祖母を、小学生の頃に大好きだった愛犬を亡くしました。どちらも今日みたいな陽だまりのような日でした。だから嫌いです」

「そうか、それは辛かったね。でも私は好きだ」

「どうしてですか?」

「春は出会いの季節だからさ。環境、人、習慣、見慣れないもの達に会えるチャンスだ。それは素晴らしい事だろう?」

「でも、別れの季節とも言いますよね、今日の僕達みたいに」


 僕は皮肉めいて聞き返した。


「寂しいかい?」


 先輩は含んだように、にやにやと笑う。


「しかし、それは違う。別れというものに出会える季節なんだ。別れた人を思う事を忘れなければまたいつか出会えるさ。この世じゃ無かろうとね、私も父を亡くしたんだよ、私の演劇を誰よりも間近で応援してくれた人だった。けれど、だからこそより頑張って応援してくれた父の為にも演劇をやりきりたいんだ」


 何も言えなかった。

 先輩のどこか物悲しそうな目が、自分と重なった。

 引っかかりの正体を今、理解した。

 先輩も僕と同じ目をしていたはずなのに、演劇では微塵も感じなかったからだ。

 先輩のその強さが、僕には理解出来なかったから知りたいと願った。

 僕にも、僕を愛してくれた人達に報いる生き方ができるだろうか。

 僕が今、真剣にやりたい事はなんだろうか。

 僕は今、先輩に対して何を思うだろうか。


「先輩、僕……先輩の事が好きみたいです」

「君の絵を見ていたら分かるよ。絵の中の私は楽しそうだ。私は君に絵を描いてもらうのがとても好きだった」


 先輩は茶化す事なく、僕の気持ちを受け入れてくれた。


「来年、僕は真剣に絵を学べる所に行きます。そして、いつか先輩を輝かせられらような画家になります」

「楽しみにしてるよ」


 次の春が早く来て欲しい、心の底からそう思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

春よ、 雨後の筍 @ugonotakenoko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ