medicine

長月 冬

1

朝起きたらまず一錠。昼ごはんの後に一錠。仕事から帰ってきて一錠。

天気が悪かったら一錠。週末になったら一錠。週が明けたら一錠。

飲んだあとは頭がぼんやりとして仕事や日常生活ががとてもはかどる。上司や先輩に声をかけるときに冷や汗をかかなくていい。食欲が出てご飯がおいしく食べられる。

家に帰ったら暗くても当たり前だと思える。ただいまと呼びかけても静かなままなのが当たり前だと思える。LINEが鳴らなくても落ち着いていられる。酒瓶を増やさないでいられる。棚の上に常備している有り余るほどの錠剤を全部飲まないでいられる。今日も一人だね、でも明日まで生きていけると思うことが出来る。朝まで泣き通すことなく穏やかに過ごせると安心する。

そうして何も考えないように意識し、スーパーで買ってきた惣菜を口に運び、簡単にシャワーを済ませ、歯を磨いてベッドの中に入る。ぼんやりとした頭の中で日々を巡らせる。


最後にテレビをつけたのは一週間前、その時に流れていた番組は断片的に覚えている。確か、かつて芸能人だった一般人の今を尋ねるような内容だった。私はソファに横になってぼんやりと画面を眺めていた。もしかしてその元芸能人がお金欲しさに自分を売り込んだのかとふと思ったが、そのあたりで私の意識は急降下した。頭の中がぐるぐると回る。異常な眠さとのどの渇き、心臓の鼓動が破裂しそうに速い。助けて、と頭の隅で呟いたが、また構ってほしいのか?とあきれるような自分の声が被さってきた。

三十分なのか一時間なのか全く分からないままひたすらソファの上で浅い呼吸を繰り返していた。目の前にある市販の風邪薬のビンは空だった。三百錠入っていた。そういえばさっき全部飲んだなあ、と他人事のように思った。

耳元で着信音が響く。いつもより三音くらい低い音で聞こえる。浩二からだった。

「こうじ」

「明季、今どこ?」

「へや」

「何て?」

「ねてた」

「明季。ちゃんと話して。…何したの?」

「くすりを」

 大きなため息が聞こえたあと、そのまま電話が切れた。苦しい。心臓の辺りをかきむしって取り出してしまいたい。意識は、明らかに薄れている。それでも私は自分のしたことを後悔はしていない。浩二が来てくれるかもと喜びでむしろワクワクした。

 ドアがいつ開けられたのかは分からないが、浩二の気配がした。私はひそかに安堵した。また来てくれた。

足音が近づいて、

「明季」浩二が私の顔を覗き込む。

少し眉をひそめて、表情に出さないようにしているみたいだが、迷惑そうなのは明らかだ。そんな彼の気持ちをよく分かってはいたが、私は気力を振り絞って浩二と目を合わせようとした。その一週間前に会った時とは違って、浩二は私と目を合わせてくれた。

「こうじ」

はぁ、とまたため息。

ふわ、と身体が持ち上がり、ベッドの中に押し込まれる。

「何を飲んだの」

「かぜの」

「どれくらい」

「あれ」

重たい腕を上げて薬のビンの方向を指す。浩二がその先を目で追う。視線が動かない。

「…なんで、飲んだの」

 当たり前のことを聞かれて言葉が出てこない。浩二だって分かっているくせに。わざとなのか、未だに本当に分かっていないのか。それとも認めたくない?自分には六年付き合っている彼女がいるのに、あいつとは別れる話がついたから自分の街に来て欲しいと言って私を自分の元に来させて、それで私が浩二のところに来てまだ二ヶ月もしないのに彼女が妊娠したから彼女との責任を取ると私に告げたことを。私は仕事を辞めて知らない土地に越してきて、新しい職場でもうまくなじめなくて、友人がこちらにいないから吐き出す場所もなくて、私がどれほど捨て身でここに来たのかということを、どこまで分かっている?


「何も言わないなら、救急車呼ぶよ」浩二がズボンのポケットから携帯を取り出す。

「いい」

「なんで全部飲んだの?明季」

「…むこうとわかれないから。せきにんとって」

 浩二は私の顔を見た。初めてその言葉を耳にしたような表情で。

「責任って言われても。俺にどうしてほしいの?」

 ああ、まただ。

この期に及んでも浩二は何も分かっていない。〝責任〟という言葉を私が口にするのはこれで何回目だろう。被害者ぶってはいるが、彼女がいることを知りながら浩二と付き合い続けてきた私は浩二の彼女からすると殺人犯に等しい加害者だ。図々しくも私は浩二に〝責任〟を幾度となく突き付けてきた。しかしいつも同じような展開になる。私は浩二のその言葉を耳にして、口すら開きたくなくなった。心臓のあたりは相変わらず苦しい。早く解放されたい。この身体の苦しさからも、そして浩二とのどうしようもない関係からも。

「こうじ。…いかないで」浩二が帰っていきそうな気がして、彼の服の袖を掴んでみる。浩二は振り払わないでいてくれた。

「かえらないで」

「明季。また来るから」

「いや」

 帰らないで。ずっとそばにいて。浩二、それが責任なの。帰ってしまうなら、どうして私のことが好きでたまらないと言ってきたの。明季に悪いからあいつとはできないって言っていたのに、どうして子供が出来たの。あいつが別れてくれないって言うなら家を出て私と暮したら良いのに、いつも帰っていくのはどうしてなの。

一気に口にしてしまいたかった。だけど口から洩れるのは浅い呼吸ばかりだった。どうせ病院に行ったところで、木炭を溶いた濃い水を、鼻から通した管にひたすら流し込まれるだけだ。そんなことは分かっている。

「明季。どうするの病院は」

浩二が急くように私に聞く。早く帰りたそうだ。彼女からなのであろう着信のバイブ音がひっきりなしに浩二の手元で震えている。私は浩二の顔を見ようとしたが、視界がぼやけて、視線が定まらなくなった。

「いい」

 分かった。と、私の髪を撫でて浩二が腰を上げる。喉奥がかっと熱くなる。力を込めて口を結ぶ。涙が、ぼろぼろこぼれた。引き留めるのはやめよう。脈打つ心臓を感じながら、私は現実を受け入れることを決めた。やがて、ドアの閉まる音がした。

 上半身が重い。身体を起こすことさえ億劫だった。ベッドの宮棚に浩二が置いてくれたミネラルウォーターのペットボトルを弱々しくつかみ、水をがぶ飲みする。下腹が鈍く痛む。胃なのか、他の臓器なのか。今回の件でまた肝臓が一時的に弱くなったとしても死ぬことはできないのだから、時間もお金も精神的にもとんだ損失だろうに、何年も前から、私はどうしてもこの行為をやめることが出来ないでいた。いずれも誰かに構ってほしくてしたことで、その矛先はさまざまだった。浩二と付き合ってからは頻度がより一層増えた。それはもはや私と浩二の間にあるパブロフの犬だった。

しかし今回は違った。

浩二がさっき帰って行ったことが私に変わりようのない現実を突き付け、その現実を受け入れようと歯を食いしばった瞬間、一筋の希望が見えた。



 身体は何事もなく回復を取り戻し、数時間が経った日曜の明け方、私は目を覚ました。身体をゆっくりと起こしてみる。下腹の痛みはまだ鈍く、頭はまだどこかぼんやりとしているが、昨夜に比べると幾分ましになった。病院に行かなくてもどうにかなる。あれだけ鬱々としていた気持ちは、却って不安になるほどおさまっていた。浩二とは一緒になれないんだと、すぅっとした気持ちで見つめてみると、それが自然なのだと、なるようにしかならなかったのだという声が頭の中で聞こえた。良い朝だった。


 これからどうする?自分に問いかける。彼女と別れない浩二を散々責め立て(罵倒だけじゃない、叩く、蹴るなど)、昨日のように発作的に薬を大量に飲み、浩二が一番嫌がる自殺行為をするなど彼に嫌われても当然のことをしてもなお、浩二は私に会いたがり、その都度自分がいかに私のことを愛しているのか、そして私が自分の元から離れていくことは許さないと切々と訴えた。本当に浩二が言うように、彼女が浩二からの別れを拒否しているならば、私が浩二との関係を切ることはしない方がいいのか。――いや違う、昨日の晩の浩二の態度や表情を思い出して。あんなにうんざりした顔、私が自業自得とはいえ、つらさの中で浩二に傍にいて欲しい時に結局帰っていく。そして彼女には責任を取るのに、仕事を辞めてこちらに来させた私に対する〝責任〟自体がそもそも分かっていない。でも、私も早く断ち切るべきだった。もしかしたら浩二と一緒になることができるかもなんて、浩二の言葉じゃなくて自分で判断しなければならなかった。希望を持つのはいい加減もうやめよう。浩二と二年付き合って私は今年で三十歳になる。結婚をしていて当たり前の歳、転職出来るかできないかの瀬戸際の歳、家事はできて当たり前、そんな世間でいう〝大人〟のテンプレートの縁に私は振り落とされまいとしている。今の私は仕事ではまだ新人で、未来を考えることのできない人と付き合っていて、貯金だって二ケタだ。その上常に死にたいという衝動を抱え、感情が昂ぶると彼氏に手を上げる。家事は苦手で、禁煙をなかなか続けることが出来なくて、家の近くにあるパチンコ屋に通うのが日課で、常に衝動と後悔を繰り返している。


もう一度、病院に行こうか。

十年ほど前、高校を卒業した時に私はリストカットと大量の飲酒、そして例によって市販の風邪薬を五百錠ほど飲み、病院に運ばれたことがあった。原因はおぼろげだが、当時アルバイト先が一緒の人と付き合うようになり外泊が増えて家に帰らなくなったこと、入ったばかりの大学に馴染めずに授業をさぼっていたことが父の知るところになり、激しい言い合いになって殴られたことがきっかけになって、発作的にしたことだと思う。今思えばずいぶんと幼い理由だ。そんなことがあった後も私はしばしばオーバードーズを繰り返した。毎日、死ぬことばかりを考えていた。今度リストカットをする時は頸動脈を深く切ってしまおうか、明日の帰り、特急列車がホームに来るときに飛び込んでしまおうか、今日家に帰ったら電気コードで自分の首を絞めようか。私は大学に行くこと自体が精いっぱいで、授業にも軽音サークルの集まりにも顔を出さずに大学の二階の端にある学生相談室に入り浸っていた。学生相談室に行き出してから一ヶ月が経った頃、私の面談をしたカウンセラーが、大学の近くにある心療内科の紹介状を私に手渡すと、予約は取ってあるから翌日にでも行くようにと告げた。

翌日、紹介状を手にその病院の元を訪れた。精神的な不安定さがひどくなった時期と、気持ちの上下の間隔、そうなるきっかけ、家庭環境について私の話を時間をかけてゆっくりと聞いた女性医師は、穏やかな表情のまま、何やら私に難しげな名前の単語を言ってくれた。その名前を聞いて不安が増したことを覚えている。そうか、私は普通じゃないのか。昔から天然だねとかちょっと変わっているねとか周囲の人たちにたびたび言われてきたけれど、やっぱり普通じゃないことを周りは分かっていたのか。普通だと思っていたのは、私だけだったのか。

それでも、私は処方された薬を飲んで少しでも状態を良くしようとは思わなかった。むしろ、培われた性格なのだから努力で治そうという方向に意識が働いた。いわゆる安定剤を飲んでしまえば、薬漬けになるとさえどこかで聞きかじった情報を元に本気でそう思っていた。家に帰りつくとすぐに処方された薬をごみ箱に捨てた。

結果、私は常に普通でありたいと願いながら死にたいという願望を隠し、自分の気持ちのふり幅の大きさに振り回され続けてきた。もうたくさんだ。



 耳元で聞こえる着信音で私は目を覚ました。あのあとまた寝てしまっていたらしい。電話の主は浩二だった。まだ着信音は止まない。出ようか一瞬迷ったが、画面を触って電話に出ることにした。

「もしもし」

「明季。死んだかと思った」

「あんなんじゃ死なないよ。浩二だってそれは分かってるでしょ」

「今から家に行っていい?」

「…何で?」

「心配だから」

モヤモヤした気持ちと、どうにでもなれという怒りがフツフツと心臓の辺りから湧いてくる感覚が走る。なるべく感情的にならないように話をしようとした。

「心配って、浩二はそう思ってる?」

「思ってるよ。明季、好きだよ」

「本当に心配だったら、あの時家に帰ったりはしないって。やっぱり、浩二は私のこと都合の良いようにしか思ってないんだよ。楽しい時間は一緒にいたいけど、私がつらい時は離れていくでしょう?好きだとか本気だとか、そんなの行動でしか判断できないよ。それに、今も彼女に隠れてコソコソ会いにくるような恋愛続けるんじゃ、浩二、自分にバチが当たるよ」

「彼女には別れてくれって今日も話したよ。あいつ、全然応じてくれないんだ」

「だからって私にこうして連絡してくるのは逃げだよ。浩二が別れてひとりになったら迎えに来て」

 何とか、キレずに言いたいことを言うことが出来た。浩二は電話の向こうで黙っている。しばらくの間の後、分かった、と浩二が小さくつぶやいた。これ以上同じ時間を共有しているとまた辛くなってきてしまう。私は電話をそのまま切った。がすぐに、電話を切るんじゃなかったと後悔した。浩二は本気なんじゃないかとか、本当に迎えに来てくれるんじゃないかとか、浩二の言葉から希望を見つけては縋り付きたくなる。でも、言葉では人の真意をはかること何てできない。


 浩二がこれからどうするのかは分からない。それについて何か考えるこのはやめておく。私は、自分の気持ちを立て直していくために病院に行き、フラットな気持ちになりたい。

この街に来てまだ二ヶ月。孤独感に押しつぶされそうなときもあるが、様々なことに少しずつ慣れていく自分がいる。私が知らない街で寂しくいるのは浩二のせいでと、恨みがましく思ったこともあった。だけど私は確かに、浩二のことが好きで一緒になりたかった。浩二に彼女がいることも分かっていた。だから、今の状況を全て浩二のせいにするのは違う。

 動いていかなければ状況は変わらないから、ひとまず動いてみようと、そう思った。


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