なごり雪

 ”恋”と”雪”という文字が、どっちがどっちか時々分からなくなることがある。同じ部首があるわけでもない。指しているものの性質が、一般的に似通っているわけでもない。でもなぜか、自分の中でこの二つの言葉は同じカテゴリーに入れていて、呼び起こす感情はどちらも同じものだった。すなわち、それにはしゃいでいたころの懐かしさ、そしてもうそのころには戻れないということへのさみしさだ。


 現在の奥さんの姉にあたる、絵里さん。今になって思うと紛れもなく彼女は自分にとっての初恋で、人を好きになることの大事さを教えてくれた人だった。だから、信じたくなかった。400キロ離れている我が家にも、被害を与えた揺れ。それは、大学生活に備えて北へ移り住んでいた女の子の命を奪うには十分すぎるものだった。突然の訃報。遠い場所に行ってしまったと思ったら、さらに遠くへ。その頃には、想いは伝えないまでも、僕は自分なりに初恋に区切りをつけていた。あの時、止めていれば。せめて、入学までに期間があったし直前まで家に残ってもらっていれば。そしたら、結果は変わっていたのではないだろうか。それか、初恋に区切りをつけずに想いを伝えていたら。彼女は愛が深く、心優しいから家に残ってくれていたかもしれない。


 お互い制服を着ていた頃。彼女の夢を聞いたことがある。私は1番大好きな宗ちゃんと妹の舞と一緒に暮らすこと!と彼女は話し、なんでとか、やだよとか言って、僕と舞は茶化したように思う。彼女なりに本気で、そして素直な回答だったのだと気づいてはいたが、僕と舞は恥ずかしさに敏感で、すんなりとは好意を授受できないまだまだ少年少女だった。


 その後、絵里さんがいなくなった心の穴を埋めるように、僕と舞はお互いを励まし合い、やがて恋人関係となった。幼稚園からの付き合いである僕達は、両親公認の仲でよくそれぞれの家を行き来する間柄なので、大きな衝突もなく結婚と相なった。現在は娘の奈代も生まれ、3人で幸せに暮らしている。いや、暮らしていた。




 起きると、家はまだ暗いままだった。普段早起きな舞が自分より遅く起きるなんて、珍しい。今日は土曜日だから昨日夜更かしでもしてしまったのだろうか。奈代は、また友達と遊びに行ったのだろう。勢いよく飛び出したということを示すように、部屋のドアが大きく開け放たれている。


 妻の部屋に行くと、真っ暗だった。ベッドの上に安らかな寝息をたてる影が一つ。妻の舞だ。顔に触れてみるといつもより冷たい気がするが、それだけだ。なにかあったのではないか、と心配したが杞憂だったようだ。胸をなでおろす。


 昼になった。妻はまだ起きてこない。なにかがおかしい。恐らく異常事態が起きている。あまりにも長く寝すぎている。絵里さんのことを思い浮かべ、血の気がひく。血管を流れる血の温度が徐々に下がっていく。大げさな反応であってもいい。なにもなければ、その時は謝ろう。僕は119の番号を押す。




 冬眠性睡眠病。通称、冬眠病。彼女の病名は、そんな嘘みたいな名前だった。聞き覚えの無い病気であるそれは、安静にするしか方法が無いらしい。


「奥さんの現在の状態を見ると、断定は出来ませんが中途覚醒型のように思われます。」


「それは、どういうことなんでしょう。中途覚醒というと…。途中で目を覚ます、そういうことでしょうか。」


「おっしゃる通りです。動物の中には、クマのようにほとんど寝て過ごす持続的冬眠し続ける種と、途中で食事・排泄などのために目を覚ます種がいます。奥様はその中の、後者。中途覚醒型であると推測されます。」


「良かった。冬の間、ずっと眠りこけるわけではないんですね。」


「まだ、安心はできません。本来は人間のシステムにはない冬眠を行うわけですから、通常の睡眠とは別物と考えるべきです。覚醒といってもぼんやりとしていたり、そこの期間の記憶が抜け落ちているという症例もあります。家族のご理解と、援助が大事になってきます。覚醒時間は平均で半日程度であるようです。」


「分かりました。先生、ありがとうございます。」


 妻の仕事先に連絡すると休職を許可してくれると同時に、ねぎらいの言葉をかけられた。まだまだ浸透はしていないものの、公務員のような職場では冬眠病への支援を進めているらしく、いくつか補助金の紹介もしていただいた。自分の稼ぎでも生活には困らない程度にはあるが、この先の娘の進学、そして妻への支援や休職などのリスクを考えると、受け取っておくべきだ。申請の準備をする。


 娘はまだ小さく、今年入園したばかり。変に混乱させるよりかは、まだ本当の事実は伝えない方が良いだろう。奈代がもう少し分別がつく年齢になったら、伝えてあげようと思う。それまでは、冬の間自分一人で娘を育てるのだ。




 舞が冬眠して2週間。それまでの間、奈代には舞が寝ている部屋には入らないように厳命し、数時間おきに自分が様子を見に行くようにしていた。


 その日は、小春日和だった。窓越しに外を覗くと日光が柔らかくあたりを照らしていて、薄手の服で外出しそうになるが、実際は肌寒いそんな天気。舞は初めて、冬の間に目を覚ました。


「宗、ちゃん…?」


「舞!起きたのか、心配したんだぞ!とりあえず、何か飲む?お腹が空いたかな?」


「宗ちゃん、だよね…?」


「ど、どうしたの、絵里さんみたいな呼び方して。そうだよ、舞の旦那の宗ちゃんだよ。」


「やっぱりそうだ!久しぶり!」


 そう言って、握手を求めてくる彼女は舞ではなく、15年前に死んだはずの舞の姉、絵里さんだった。




 約2週間おきにある、半日だけの中途覚醒。舞の身体を動かすのは常に絵里さんだった。ご飯を食べ、風呂に入り、話をする。成長に悪影響を及ぼす恐れがあるからと、奈代にはそのことを明らかにしていないこともあって、絵里さんの活動時間・活動範囲はほぼ夜のこの部屋に限られていた。僕たちより1つ上の絵里さんだが、姿などは当時で止まっているため、現在の僕と14歳差ということになる。


「あんなに小さかった宗ちゃんがこんなに立派な大人になるなんて。まさかまさかだわ。」


「それは、昔の話だろう。勘弁してよ…。」


「そうは言っても、私からしたらつい先月の話だもの。本当に驚いてるの。良い男になったね、宗ちゃん。」


 絵里さんが、話す話題は僕からしたら遠い昔の思い出話。一方、僕が話す近況報告は当時では予想も出来なかった世の中での話になるわけで、なかなかうまいキャッチボールにならないことがしばしばだった。僕と絵里さんの間には、15年という大きな亀裂がある。


「あの頃、言ったこと覚えてる?宗ちゃんと妹の舞と一緒に暮らしたいって。ちょっと、特殊な感じになっちゃったけど、叶っちゃった。」


「確かに、そんなことを言ってたね。あの頃は、そんなことあるもんかと思ってたけど、まさか叶うなんてね。」


「本当は、私が別の動物に転生でも出来たりしたら良いのだけれど。いつまでも、舞の身体を借りて申し訳ないわ。舞も、冬の生活を取り戻したいでしょうし。」


「でも、冬眠病はまだ治療法がみつかっていないみたいなんだ。」


「そうなの。う~ん、どうすればいいのかしら…。」




 それから絵里さんは、冬の間は2週間おきに舞の姿をとってあらわれた。外に出たいときは、僕が奈代を連れて外に出ている間に外出し、帰宅してもらう。その間はうたた寝も含め、寝ないようにと伝えている。そのような生活が6年も続いた。




 奈代が小学4年生になり、舞も僕もこの病気のサイクルに少しずつ慣れてきた。変わっていないのは、冬眠病の世間の理解とその研究くらいで、当の舞、そして僕たちはこの不可思議な状態に適合していった。舞は冬眠の期間中、絵里さんがその身体に乗り移っているということを、最初は信じていない様子だったが、根気強く説明していき、段々と理解したようだった。何でも、こんなキラキラしたものを宗良は買わないし、私の部屋に置いていかないよね、とのこと。自分も絵里姉さんに会いたいだろうし、その存在を感じたいところなのだろうが、中途覚醒時は感覚も記憶も絵里さんのものであるらしく、舞が覚えていることは一度も無かった。


 11月前後までに舞はいつ寝ても良いように、その年のまとめと絵里さんへの伝言を残していく。この月に私が好きなドラマが始まるのでおすすめです、録画お願いします、というものから、可愛い冬服を新しく買っておいたので出かけるときに着ていってください、というものまである。年に一度だけ送り合う姉妹の伝言はお互い思いのほか簡素ながらも、それぞれ相手への優しさに溢れていた。


「ねえ、宗ちゃん。宗ちゃんは私がいなくなったら悲しむ…かな?」


 昨年買ったガラス細工を手に取りながら、絵里さんがぽつりとつぶやいた。


「どういう意図の質問か分からないけど、絵里さんがいられる間は、いて欲しいと僕は思っているよ。」


「ふふ、ありがとう。なんかね、気づいちゃった気がするんだ。もしかしたら、舞の病気、私なら治せるかもしれない。」


「それ、本当?どうすればいいの、絵里姉?」


「そのためには一緒に行ってもらいたいところがあるの。次私が目を覚ます日にでもお願いできるかな?」


「大体2週間後くらいだよね。うん、分かった。空けておくよ。そのあたりは奈代も学校の野外活動に行っていると思う。」




 その年の冬は暖冬で、1月になっても雪が降らないという驚異的な年であったが、土曜日はその冬で初めて雪が観測される日となった。その日は朝から、雪がせっせと道路を濡らしては、白色を残していた。満を持して地上に降り立とうとする雪は、そのペースを下げることなく、今日一日はずっと降り続けるという。


 待ち合わせ場所として指定されたのは、学校に仕事にと使っている最寄りの駅前だった。同じ屋根の下で暮らしながら、先に出発して待っててと言われたので一足早く着き、広場で絵里さんを待つ。10分ほど経ち、そろそろ寒くなってきたぞと思った矢先、舞の姿をした絵里さんが現れた。


「お待たせ。待った?」


「ううん。今着いたところだったから。」


「良かった。じゃあ、行きましょう。」


 満足げに頷く絵里さんに手をひかれ、僕たちは冬の町に繰り出していく。学生御用達の食べ歩きスポットや、ゲーセン、カラオケを巡り、文字通りウインドウショッピングをして、駅の通りを進む。高校生の時分にやっていたことも、この年になって改めてやってみると新鮮で、普段何気なく通っていた場所は学生時代の思い出も手伝って、いつもよりも少しきらめいて見えた。そうそう、ここの通りは店の人たちがこのように雪かきをして道を作っていたんだった。道路の端に集められた雪の塊を見て思い出す。


「お出かけの後半は、約束通り宗ちゃんに任せるね。」


「任せて。とりあえず、駅に行こう。少し電車に乗るよ。」


 電車に乗って、予約していた都心のレストランへと移動する。先ほどの場所とは対照的に少し敷居が高い、社会人御用達のお店だ。当然、アルコールの提供もある。


「アルコール飲むよね?ワインとかカクテルもあるみたいだよ。」


「い、いいのかしら。そりゃ憧れはあるし。飲んでみたいけど…。うん、でも舞の身体だし!大丈夫よね。」


 二人で鯛のアクアパッツァ、ウニのクリームパスタ、カプレーゼを食べた後、ひょんなことから話題は娘である奈代の話になった。


「奈代ちゃん、いい子そうよね。そして、家の手伝いなんかもしててお利口さん。宗ちゃんと舞の子供って感じがする。声しか聞いたことないけどね…!」


「遊ぶのが好きなところは完全に僕に似てると思う。面倒見がいいところとかは、舞に似てるね。」


「いつも友達と遊びに行ってるもんね。おかげで、外出しやすくて助かるわ。」


「絵里姉が買ってくるお土産だけど、あれは奈代が遊びに行っているからこそ、あそこまで集められたともいえるかもね」


「うんうん。奈代ちゃんに感謝しないとね。」


「遊びっていうと、僕と絵里姉だけで遊びにいくのって、これが初めてだよね。いつも舞と3人だったし。」


「やっぱりパレちゃった?そうなの。初めてなのよ。」


「あの時は、こうしておしゃれなレストランで、グラスを片手に話すことなんて無いと思ってたから、すごい今変な感じだよ。なんか、ちょっと身体が落ち着かないや。」


「ふふ、私も。アルコールのせいかしら。ちょっと眠くなってきちゃったわ。」


「それはまずい。酔い覚ましにお水頼んで、お家に帰ろうか。」


「そうしてもらっていい? ありがとう。」


 帰り支度を終え、会計をしていると絵里さんが話しかけてきた。


「ねえ、宗ちゃん。」


「うん?」


「今日はありがとう。とても、とっても楽しかったわ。」


「うん、僕も楽しかったけど。どうしたの、急に?」


「いや、突然伝えてみたくなったのよ。」




 家に帰ると、絵里さんは寝室に直行した。本当に眠気の限界だったらしく、道中は瞼をかろうじて押し開いているような状態だった。


「絵里さん、本当にごめん。遅くなってしまって。」


 寝室のドア越しに話しかける。


「大丈夫。私も楽しかったもの。だらしがないけど、私はもう寝るわ。」


「分かった、おやすみ!」


「うん…、おやすみ…!」




 その翌日の朝。舞は6年ぶりに冬の中、目を覚ました。1月中に舞が舞として行動していることは、これまでの6年間にはなく、なにか良くない症状が出るのではないかと危ぶまれたが、結果的に思い過ごしだった。そのあとの2か月間は何事もなく過ぎていき、舞の大好きな春の足音が聞こえてくるようになった。土の下で春の訪れを待つ植物たちが発芽の準備をしている頃。ニュースでは、大型の低気圧が海側からやってきて今シーズン最後の雪を降らせるということで週末の外出時の警戒を促していた。


 季節外れの雪には、正直いい思い出が無い。絵里さんを奪っていったあの揺れの後も、ここでは雪が降っていたからだ。




 週末は案の定、行きも帰りもホームはごった返していた。改札を抜け、駅舎を出る。気温が高くなり、水分の多くなった牡丹雪が街に等しく降り注いでいて、僕のコートを黒く濡らした。


 雪に気を取られていないで、家路を急がなければ。きっと今頃舞と奈代がお腹を空かせて、僕の帰りを待っている。雪かきされて歩きやすくなった道を、すべらないように小股になりがら、早足で駅前をゆく。来店者のため、そして駅の利用者のため、雪かきをしてくださる方々には本当に頭が下がる。両端にうず高く積まれた雪の多さで、その苦労が推察される。土などの不純物が混じって、綺麗な色をしていないその雪の脇を、足をせかせかと動かして通り過ぎる。


 その時、上空からひときわ大きな牡丹雪が僕の目の前に落ちてきた。上空でスローダウンしたように見えたそれに、足を止め思わず両手を差し出してしまう。牡丹雪は、その存在を少しでも刻み込むように、手の中でゆっくりと溶けだし、そして水となって消えてしまった。次から次へと折り重なる雪でどれがその水だったか、すぐに分からなくなる。気を取り直して、足を前へと進め始める。牡丹雪に触れたときに感じた、瞬間的な冷たさがやけに僕の両掌に残っていた。


 それからというもの、舞の冬眠病はきれいさっぱり無くなり、医師の方から寛解です、との診断を受けた。寒い冬が嫌い、としきりに言っていた舞は冬が不思議と好きになったようで、積極的に寒い中外出を楽しむようになった。特に身体が冷え切った後のこたつやお風呂が最高だそうで、失った冬の生活を取り戻すように謳歌している。


 絵里さんは病状の回復とともに僕の前に姿を現さなくなった。彼女の置いていったキラキラコレクションは、持ち主がいなくなった今も妻の部屋で輝きを放って、僕たちの目を楽しませている。


それから、何回目かの春。僕たちは、また一人の娘を授かることとなった。名前は、絵乃と名づけるつもりだ。舞と二人で話し合って、お互いにとって大事な人から1文字いただくことにした。その人のような素直な子に育ってほしいと思う。


 4月の爽やかな空気の今日。少し早起きをした。道の端には季節に場違いななごり雪が光を反射して、白く、淡く光っている。この小さな雪が溶けきる頃には、舞も奈代も目を覚ましてくるだろう。

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冬・三連作 蒼井 静 @omkk

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