第5話 森と思考の迷宮

 裕治は森の中を歩いていた。草をかき分け、枝をくぐり、木の根を避けながら、月の光も入らない夜の森を逃げるかのように前に進み続ける。光も届かない夜の森だというのに前が見えてしまうのだ。祐治はそれに疑問を持ちながらも、押し殺してひたすら前に進む。


 身体の違和感はそれだけではない。肉体的な疲れが無いのだ。腿が張ることも、足の裏が痛むことも、息が切れることも。まるで夢の中で歩いているようだった。体の問題だけを考えるのならいつまでも歩けるだろう。

 だが、そもそもある程度視界は確保できているといっても夜の森は人間を歓迎するものではない。無限に生えているように錯覚しかねない木々は星の僅かな煌めきも遮り、深い暗闇を作っている。その奥に何が潜んでいるのかは誰にもわからない。単なる獣なのか、怪物の類なのか、ただの木の葉の揺らめきなのか。見えないからこそ闇夜の森では常にその怪物に怯えなくてはならない。本当の怪物がその中に1匹もいないとしても。常人が夜の森に入り込めば闇への恐怖に飲み込まれるのか獣の胃袋に飲み込まれるのか、どちらが早いかは運次第だろう。


 常人とは言えない体になってしまっても祐治もその一人であった。歩き回って考える余裕が生まれるにつれて、自分がいかに危険な場所にいるのかを実感し始める。草がかき分けられる音や枝が踏まれて折られる音、それらが自分の出したものだという保証はどこにあるのだろうか。鬱蒼として木々の向こう側では見たこともない獣が待ち構えているのかもしれない。


 もう十分歩いただろう。そう自分に言い訳して祐治は歩を緩めながら何かを探すように周囲を見回す。休むにしても地べたに寝転がるわけにもいかない。急に獣が襲ってきたら逃げることもできないだろう。そうなれば木の上で休むのが一番得策に思えた。生きている時に木登りをしたことはなかったが、今の体なら簡単に登っていけると祐治は確信していた。

 どこかに体を預けられそうなガッシリとした木がないかと歩いていると、祐治の目に1本の木が留まった。周囲の木より一回り太く、両腕を回しても幹周の半分にも満たない。見上げると手を伸ばしたくらいの高さのところで幹が分かれており、その間に収まって座れそうだ。流石に木の枝の上で熟睡はできないだろうが、落ち着いて休むことくらいはできる。

 祐治は考えるまでもなく地を蹴り、階段を1段上るかのように簡単に幹の分かれ目まで登った。


「どうなってんだこの体は……」


 思わず今更なことを口にしてしまう。こんな体をプレゼントしてくれたことをリルリーシャに感謝するべきなのか、それともわざわざこんな体に押し込められたことを憎むべきなのか。祐治はため息を吐いて、幹をまたぐように腰を下ろした。座り心地が良いとは言えないが、ここならいきなり獣に襲われるということもないだろう。

 そのまま木の幹に体を預けて上を向くと、視線の先では当然の権利を振りかざすかのように葉が踊っていた。こんな闇の中なら美しい月が見られるだろうに。残念だな、と思いそうになったのを思わず祐治は否定した。こんな暗闇の中に独りでいると変にセンチになってしまいそうでいけない。自分は月を見てどうこう思うような感性は持ち合わせていないはずだ。それよりももっと現実的で有用なことを考えなくては。


 大分歩いた気はするが、森の中はまっすぐ歩いていると思ってもぐるぐる回っているだけということも多くあると聞いたことがある。案外元の館の近くなのかもしれない。だとしても、方角がわからない以上、戻ることも離れることもできないが。

 ここはリルリーシャがアーゼルフという街の南東の森だと言っていた。それならば方角の見当さえつければ少しはそこに近づけるのではないだろうか。祐治はそんな希望を持ち、そしてすぐに否定する。こんな深い森の中、道具もなしにどうやって方位を把握しろというのだろう。結局、獣に怯えながら目的も無くまた彷徨うしか無いのだろう。生きていたときと同じようだ。


 生きていた頃も光を失っているようだった。自分のやりたいこともやるべきことも思いつかず、日々を漠然と過ごすしかなかった。夢も情熱も無く、生きているから惰性で生きる。ただそれだけの状態。それが穏やかに永遠に続けばいいのだろうが、未来に希望なんてものは持てなかった。出回っていた話は悲観的なものばかりだ。国際情勢がどうとか、環境問題がどうとか、経済がどうとか。だからニュースは嫌いだった。見ているだけで気が滅入る。縛られたまま落とし穴に運ばれているような気分になってしまう。だからといって、自分で縄を引きちぎる力なんてものはないし、そもそもしたくなかったのかもしれない。自由になって足掻いたその先にも希望がなかったら自分は耐えられるのだろうか。きっと自分を無謀な人助けに駆り立てたのはきっとこんな不安だったのだろう。いっそ取り返しの付かなくなるくらいの絶望に包まれる前に眠ってしまった方が楽であると。


「……また変な気分になったな」


 祐治の呟きは闇に溶けていく。それも仕方のないことのかもしれない。自分が死んでから初めて落ち着いて考えられている気がする。少しくらい感傷的になっても許してやらなくては。考えたいように考えよう。祐治は諦めるようにため息を吐いた。

 リルリーシャ、彼女は一体何なのだろうか。寝ぼけたまま無から取り出した剣で自分を刺し貫いた動きは、剣士のようにも、踊り子のようにも見えた。そして剣は幻だったかのよう消え去り、奇術師でもあるのかもしれない。祐治はじっとその多才な彼女を突き飛ばした自分の手を見た。

 そして彼女は一体何を考えているのだろう。彼女の言動を信じるのならいきなり剣で突き刺してきたのは何かの間違いだったのかもしれない。その後の慌て方も演技には見えなかった。そもそも目覚めたときから彼女はかなり友好的な態度をとっていた。狂気の片鱗さえも見せながら。


 祐治は左目を抑える。この目は彼女のものだと言っていた。その話を聞いたとき、祐治はその真偽について考えることも放棄していたが、今ではぼんやりと確信を持っていた。きっと嘘ではない。そうであれば彼女の行動にも辻褄が合う。自分の瞳を渡したのだ。優しくもなる。自分で水をやった花のように時間や代償を払った分だけ大事思えるものだ。

 そしてそれを不注意で傷つけてしまえば、悲しむのも当然のことだ。


 不意に祐治は嫌な臭いを感じた。動物園で嗅いだものを数段おぞましくしたような獣の臭い。そして混ざる血の臭い。それらが濃くなるとともに、土を踏む音。枝の折れる音。草をかき分ける音。何かが近づいてきているのは疑いようがない。祐治は投げ出していた脚を丸くなるように抱え、無力な子供のように隠れる。

 木の上でじっと、それが遠ざかるのを待っていると、むしろ獣は近づいてきてその姿が見えた。おとぎ話の一角獣のよう。だが、想像していたものとはずいぶんと違う。一角獣と言えばベースは馬だと祐治は思っていたのだが、目に映ったそれは虎に近いように見えた。

 色は、黒だろうか。暗くて色までは判別がつかないが暗い色なのは間違いない。太い脚の先には鋭いナイフのような爪。頭には槍のような角。1m近くはありそうだ。全体的にずんぐりとしているが、逆に言えばそれだけパワーに優れるということである。

 その獣は木の上の祐治には全く気付いた様子もなく木の横通り過ぎて、一歩も歩みを止めることなく闇の奥へと消えていった。


「なんだよあいつ……」


 臭いが薄れ、足音も聞こえなくなってから祐治は忌々しげに呟いた。普通の虎でも人間が襲われたら一瞬で死んでしまうだろう。それがあんな仰々しい角まで付けて、見つかったら突進されて串刺しにされるのが落ちだ。それが全くこちらに気付かずに素通りしてくれたのはかなりの幸運だったのかもしれない。

 しかし、これでますます明るくなるまで動けなくなってしまった。歩きながら漂う臭いに注意を向け、更に自分と獣の足音を区別する自信は祐治にはなかった。祐治はもう一度脚を投げ出す。

 朝まで何を考えようか。向こうではどれくらい時間が経ったのだろうか。親は何を思っているだろうか。


「……悲しんで……しまってるんだろうな」


 せめて誇ってくれてれば。人助けして死んだ勇敢な若者として。その中身がどうだったとしても。

 祐治は首を振った。これ以上考えてもろくなことにならなさそうだ。もっと楽しい、輝かしい思い出を。そして、思い出す度に今の状況がよけいに辛く感じでしまう。

 人間はきっと成長とともに破滅へと向かっていくのだから、過去が輝いて見えるのは当然のことなのだろう。そしてその失われた過去に思いを馳せる度に、辛くなる。今となっては全てが存在しない幻想だ。虚構の幻に手を伸ばしても何の意味も無い。過去は過去でしかないのだ。砂時計の砂がキラキラと光っていたからといって何になるのだろう。砂時計がひっくり返ることはない。

 それでも、祐治はそれが死んだ者の義務のような気がして、過去に思いを馳せ続けた。

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