陽だまりの猫

 テュコがここ最近ずっと猫を抱えていたのは、猫が足を負傷しているようだったからだ。

 安静にさせておけと言い聞かせたのだが、まるで手放したら猫が死んでしまうとでも思いこんでいるかのように、ずっと腕の中に抱えていた。

 抱えられている姿勢の方が、猫にとっては負担だと、隣にいるロレンソには分かり切っていることだったのに、それでも彼はテュコの行動を止めることはなかった。

 いわく、「もうそれは最初に言った」とのこと。


「で、その猫が脱走してしまった、と」


 朝の光が差し込むキッチンで、二人が何やらゴソゴソとしているので声を掛けると、ロレンソがざっくりと経緯を説明してきた。

 昨夜、部屋に入る間際に開いた扉の隙間から、彼らの猫がすり抜けて出て行ってしまったのだそうだ。

 普段は扉の前に低い柵を設けてすり抜けられないようにしているのだが、どうやら退室前にうっかりと柵の設置を忘れていたのだという。


「外に、餌を撒いてみる」


 ということで、朝から二人は猫の餌を袋に詰めていたのだ。

 外に─── となれば、居合わせて、かつ事情を確認した俺が、このイベントに巻き込まれるのは確定された。

 いくら目の前にいるのが、我々の中でも随一の能力を誇る『レトレ』であっても、まだ本来であればスクオーラ・エレメンターレ小学校へ通っている程度の子どもだ。

 住民よりも観光客の方が多いこの水上都市で、小さな子どもを野放しにしておけるほどには、治安の信頼度は高くない。

 自分の体力も信頼度は低いが、子ども二人を抱えて逃走を試みることはできよう。

 無言で俺を見上げてくるロレンソの要求は、それで合っているだろう。


「分かった。同行しよう」

「さすが。話が早いな」


 うむ、と満足気にロレンソの小さな頭が頷く。

 テュコは酷く落ち込んでいるようで、ロレンソの白衣を握りしめて俯いている。その白い頭を、ロレンソはぽんぽんと根気強く撫でていた。

 このが来てからは、ロレンソは彼につきっきりだし、テュコの方もロレンソの傍らから離れない。

 最初から一緒だったかのような雰囲気さえある。


「もう行くのか。朝飯は」

「食った。まだ食べてないなら作るが」

「いや、帰ってきてからでいいや。そんなに遠くまでは撒かないだろ」

「念のため、劇場の方まで向かうつもりだ」


 家猫の場合、脱走してもそれほど遠くには離れないものだが、件の猫は保護してきてからまだ日が浅い。

 そういえば、劇場の近くで拾ったと言っていたか。元の活動場所まで戻っている可能性もある。

 了解した、と俺は頷いた。


 キッチンの窓から差し込む光はまだ低い。朝が早いのだ。

 俺が起きてきた頃には、二人はすでに着替えていて朝飯も食べていた…… ということは、もしかして夜通し起きていたのか。

 俺は屈みこみ、俯いているテュコの顔を覗き込んだ。それでもよく見えなかったので、手を伸ばし顎を取ろうとしたのだが、その手をロレンソにぺいっとはねられる。


「無理強いはよくない」

「寝てねえのかと思って」

「まあ、寝ては無いな」


 と、言うロレンソも、よく見ると目元が重そうだ。なんだ、二人して実は満身創痍か。

 俺が朝食を取っている間くらい仮眠を取らせようかとも思ったが、それよりも猫の行方が気になるのかもしれない。

 ここでいいから寝ろというのも無理強いだろう。無理強いよくない。


「じゃあ、さくさく行くか」


 よいしょ、と俺は立ち上がり、二人を連れてキッチンを出た。


***


 水路の美しい街として名を馳せているこの島は、島全体が一つの文化遺産となっている。

 我々が居住しているバシリカを出ると、すぐ目の前がフェリーターミナルとなっている。朝も早くから一隻のボートが、観光用ゴンドラの停泊を横目に水路を登っていくのが見えた。

 ターミナルとなっている河川から引き込むように、細い水路がバシリカのすぐ横を流れている。

 大陸の内海に浮かぶ島を、細切れにするように水路が走るのだ。

 島の上に並ぶ建物はどれも歴史を重ね、どの景色を切り取っても一幅の絵になってしまう。これが世界中の観光客を呼ぶ大きな要因でもあろう。


「劇場に向かうならボート乗っちまうか。

 どう回る」


 ロレンソの言った劇場は、対岸の区域の少し奥まったところにある。目の前の内海へ流れ込む川はそこそこ幅があるが、直線距離はそれほど遠くはない。

 最近は朝晩の冷え込みが厳しくなってきている。水上を行くなら、近距離とはいえしっかりと上着を持つべきだろう。

 だが、ロレンソはぐるりと朝の街を見まわし、細い水路に掛かる橋の方を指した。


「美術館の方から回っていく。

 猫はボートよりも歩くだろうからな」

「そりゃそうだ」


 ごもっともな意見に俺は頷き、二人の後ろをついていくことにした。

 テュコは依然としてロレンソの腕にしがみつくようにして歩くのだが、あれはお互いに歩きにくくはないだろうか。

 普段から共に行動することはあれど、ここまでの距離感ではない。今は明らかに距離が近すぎる。

 テュコは無口な子どもで、ロレンソのようにガンガン人に突撃していくタイプではない。だから、俺もまだ把握しかねている部分が多かった。


 ボートが一隻ギリギリ流れる程度の水路を越え、石畳の細い路地を抜けると小さな広場に出る。

 教会があるのだ。

 広場は四方をレンガ作りの建物に囲まれているため、日当たりはそこそこだ。

 その陽だまりめがけて、二人は歩いていく。しっかりと目的がある足取りだったので、向かう先を見遣れば、猫が屯していた。

 地域猫だ。この街は猫をよく大切にしている。かつて猛威を振るった伝染病を媒介していたネズミを狩るからだ、と言われているが、可愛いものは誰だって大事にするものだろう。

 日が差しているとはいえ気温は10度を下回る。猫にとっても我々にとっても、貴重な陽だまりだ。

 人慣れしている猫たちは、二人が近づいても概ねは寛容に寛いでいた。


「おはよう」


 と、ロレンソが挨拶をした。誰かいたか、と俺はキョロキョロ辺りを見たが、朝もはよから観光客らしき人間がぽつりぽつりといるだけだ。

 立ち位置と距離から、ロレンソが声を掛けるには不自然である。


カーポボス、元気か。

 変わったことはないか」


 そう言いながら、ロレンソは肩に掛けた鞄から餌の袋を取り出した。周囲の猫が色めき立つ。

 その中で、周りの猫より一回りほど大きな黒猫が、ゆっくりと起き上がりロレンソの足元へ向かう。

 ロレンソも目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。


「猫を探しているんだ」


 ここで、俺はやっとロレンソがその黒猫に向かって話しかけているのだと気づいた。

 ロレンソはドライフードを黒猫の前にザラザラと広げた。カリカリと、まず黒猫が食べ始め、そしてテュコが少し離れた場所にもドライフードを置いた。ほかの猫たちはそちらへと群がる。


「八割れで、茶色と白。四つ足の先は全て白くて、目が青い。

 大きさはお前よりも二回りは小さいかな」


 その説明、猫は分かるだろうか。

 餌を食べている黒猫に向かって、まるで人に話しかけるようにロレンソは説明する。


「見掛けたら、カテドラーレまで戻るように伝えてくれ」


 そう言って黒猫の背中を一つ撫でると、彼は立ち上がって俺を振り返る。ここでの用が済んだということか。


「猫、分かるのか」

「さあ」


 当然とばかりに話しかけた割には、俺の質問に返す反応は不確かだ。

 俺がリアクションをしかねていると、しかしロレンソはふと笑う。


「実績だけがある」


 なるほど。それはやってみる価値ありだろう。

 餌をカリカリしている猫を撫でていたテュコを呼び、我々は次の猫だまりを探しに向かった。

 途中、俺が空腹に耐えかねサンドイッチ店で朝食をテイクアウトし(二人は食べたと言っていたが、ごく自然にサンドイッチを手にしていたので一緒に会計を済ませる)、食べ歩きながら再び細い路地を歩く。

 時折思い出したように現れる水路と、そこへ掛かる小さな橋を越える。橋の下をゴンドラが流れていき、見知った船頭がこちらへ手を振った。

 客を乗せる前にコースを下見しているのだろうか。

 水路に沿う裏道にも、ちらほらと猫の姿が見えた。昼頃になれば、この細い道にも観光客で賑わってくる。そうなれば、この猫たちはもっと奥の路地へと引っ込んでしまうだろう。

 二人は通りがかる猫を目ざとく確認しているが、どうやら今のところ二人の猫は見つかっていない。


 いくつかの猫だまりを経由し、そのたびにロレンソは群れのリーダーらしき猫に尋ねているようだ。


「ボス、と言っていたか。

 話を通すと見つかりやすいってことか」

「人でも、上の人間を通した方が早いことが多いだろ」


 と言うのは、まだ十そこそこの子どもなのだ。人生何回目なのか。

 やがて、水路に掛かっていた小さな橋ではなく、街を大きく蛇行して流れる川に掛かる橋へ出た。

 この川は、バシリカの前のフェリーターミナルに通じる川だ。

 内海の方を振り返れば、我らがホームであるバシリカの丸屋根クーポラがぽんと突き出ているのが見えた。

 木造ではあるが、そこそこ大きく、広い川に掛かるため眺めもいい。

 そんな橋であるから、ここを通る観光客も多い。

 朝早くから出てきたとはいえ、猫だまりに寄り道しながら歩いてきたらだいぶ時間が経過していた。


「ちょっと人が出始めたな」


 路地を歩いていたときよりも、数段に密度が上がったのを感じた。この先は、目指す劇場のほかに宮殿と公園、博物館に美術館と観光名所が目白押しだ。

 俺は二人の襟首をつかみ、あまり離れないようにと釘を刺した。

 そこでようやく俺は気づく。


「ロル、お前リボンどうした」

「寝るところだったからな、解いたままだった」


 ロレンソの髪が解かれたまま、肩を流れているのだ。いつも後ろで一つに結んでいる銀のリボンが無い。

 そうか、やはりこの子らは寝てないのだな。猫が見つかっても見つからなくても、帰ったら寝かそうと心に誓う。

 橋を渡り、対岸の区域へと向かう。音楽学校が近くにあるのだが、大小さまざまな黒いケースを抱えている若者がちらほらと見える。

 この辺りでは、もう少し時間が進むと路上演奏もよく行われている。人通りも多く、自分の腕試しをするには絶好の場なのかもしれない。

 が、ロレンソはひょいと一つ道を奥へと入る。人通りの多い道に猫が屯しているわけもないので、もう少し裏の方へ路地を進むようだ。


 水路沿いの脇道へ入ったところで、前を行くロレンソにくっついていたテュコがこちらを振り返った。

 俺ではない。俺の更に後ろだ。


「どうした」


 少し距離を詰め、確認すると、テュコは俺を見上げた。


「おなじひと」


 ぽつりとテュコが答える。同じ人。

 彼の言葉は拙い。あまり長文を構築できないらしい。どこから来たのか定かではないが、しかし発音自体は訛りもない。


「後をつけている人間が混じっている、らしい」


 続いてロレンソも振り返った。

 もしかして、それもあって人気の少ない通りに入ったのだろうか。


「気づいてたのか」

「アルパカがな」


 何故か分からんが、ロレンソはテュコのことをアルパカと呼ぶ。

 確かに彼は、あの白くてふわふわした動物が好きだったし、テュコもふわふわした銀髪をしているが、白くてふわふわした動物はほかにも選択肢があったように思う。

 それはそれとして、尾行されていることに気づくとは。(俺は一向に気づかなかった)

 混雑のピーク前とはいえ、そうやすやすと尾行に気づけるものだろうか。


「いつからつけられてるのか、分かるか」

「おおきなはし」


 そっとテュコに尋ねると、ぽつりと答えが返ってくる。無口だが、非協力的ではない。

 対岸の区域に入るところからか。それが分かったところで、俺はちょっと安心した。

 バシリカからつけられているのならば、また少し様子が変わってくる。

 そうでなければ、単純に…… この二人が目立つのだろうな。前を行く二人を見守りつつ、俺はしみじみと思ってしまう。

 髪の色が目立つのだ。染髪してるのかと思うほど綺麗な赤髪と、銀髪が並んでいるのだ。これは目を惹いてしまう。

 俺としてはロレンソにも髪を短くして欲しいのだが、一部のメンバーに止められてしまっており、髪を結ぶという妥協案が飲まれている。

 ロレンソにしがみつきながら、後ろを見ているテュコの頭を両手でくるりと前に回し、


大人がやるから」


 そう言って、俺は後ろを振り返った。

 ぱた、と目が合う人たちが幾人かいたが、その中で明らかに動揺した人間が一人。さらにその顔を凝視すると、そそくさと踵を返して行ってしまった。


「あいつ?」

「うん」


 こっくりとテュコが頷くので、では無事退散できたということだろう。


「よし、続行だ」


 俺はそう言って、元気よく二人の背中を押した。


***


 結論としては、劇場付近にも二人の猫の姿は無かった。

 劇場前にあるカフェテリアの方も、猫の目線で探してみたものの、別の地域猫が見つかるだけだった。

 テュコは元々元気が無かったところから、さらに明確に意気消沈しているのが見て取れた。打ちひしがれるという言葉をまんま体現しているテュコに、ロレンソはいつもの調子で励ましているようだ。

 こちらはあまり気落ちしていないように見える。

 俺はカフェテリアでオレンジジュースをテイクアウトし、二人に渡した。


「大丈夫か」


 ジュースを手渡しながら、俺はロレンソに声を掛けた。聡い子どもだ、俺が何を気にしたのか、それで分かったらしい。


「想定内だ。ここからが本番だぞ」


 ニヤリと小さな八重歯を見せて笑う。

 なるほど。俺の巻き込まれはここからが本番のようだ。

 何をするのかと思いつつ(予想もしつつ)、ひとまずバシリカに戻り二人を休ませた。予想が正しければ、行動の開始は夜になる。

 確か、誰かが便利そうな携帯暖房器具を持っていた気がしたので、俺はほかの『レトレ』たちに声を掛けた。


「ああ、ちょうどよいのを持っているよ。

 夜中に何をするんだい、天体観測? 新月には少し遠いけれど」


 古株の『レトレ』がにこやかに頷き、そして尋ねた。

 確かに、季節的には星空が澄んでくるころだ。とはいえ、ここには季節を問わず我々の存在する位置から何億年も向こうの星を観測できる機材が置かれている。

 目的をもって観測をする場合はそれを使わない手は無いが、それでも我々は自分の目で見つめる星空もまた愛していた。

 まあ、今回は違うのだけどな。


「天体観測は今度しようかな。

 今回はだ。彼らの猫が戻って来るのを待つんだよ」

「あら、それは大変だね」


 目を瞬かせて彼女は驚いた。だが、すぐに心得たとばかりに頷く。


「暖かい紅茶も用意しておこう」


 それはありがたい。俺は迷うことなく礼を述べた。

 昼過ぎに彼らの部屋へ様子を見に行った。心配することはないかもしれないが、そうは言っても彼らはまだ子どもで、俺は仮にも立派な大人だ。


 バシリカの傍らに宿坊がある。建築当時のままを、ところどころ修繕しながら使っている。文化財としての側面を持つため、おおっぴらに改築はできないが、使い込まれた色や響きに我々は敬意を払っていた。

 二人の部屋は東と南に窓があり、今は南側の窓のカーテンを閉ざしている。

 テュコが来てから急ごしらえでベッドを一つ増やしたものの(『レトレ』の一人に家具作りが大好きな者がいる)、ほかの『レトレ』から話を聞くに、テュコはなかなか自分のベッドで寝ないらしい。

 なるほど、と俺も片方のベッドを─── ロレンソ側のベッドを見下ろして納得した。

 テュコがロレンソの頭を埋めるように抱え込んで寝ている。これは苦しそうだが、彼本人からは苦情を聞かないので、許容されているのかもしれない。

 そして、今、俺はばっちりとテュコと目が合っている。つまり、テュコは起きていた。


「起こしたか」


 俺がベッドを覗き込む前からこちらを見ていたようだったので、部屋に入るときに物音でも立てたかと思った。

 だが、テュコは首を振る。あるいは、俺が訪ねる前から起きていたのか。


「少し眠りなさい、夜も起きてることになる、たぶん、しばらく」

「……」

「あと、もしかしたら、その状態は、ロルが苦しいかもしれない」


 一応可能性は示唆しておこうと思い、テュコに伝えると、彼は何かもどかしそうに口元をもごもごと動かした。

 俺がじっと待っていると、テュコはゆっくりと返してきた。


「どこかに、いってしまう、かも」


 なるほど。テュコの懸念を聞き、俺は朝からの彼の行動を理解した。

 ずっとロレンソにしがみついていたのは、落ち込んでいたからだけではなかったのだ。手放したら、彼らの猫のように、どこかへ走り去ってしまうかもしれないと、心配で仕方なかったのもあるのだ。

 今ここで、テュコに「大事なものをしまっておきなさい」と袋を渡したら、迷わずロレンソを詰め込むだろう。

 テュコがどこから来たのか知らないが、ふと彼がやってきたように、誰かもまた、ふとどこかへ去ってしまう可能性を、身をもって知っている。

 得体の知れない、しかし愛らしい姿と素直さの存在の、白く柔らかい髪の毛を撫でた。


「そんなに突然、人は消えないものだよ」


 ある日何かが変化したならば、それは自分がそれまでの経緯を観測していなかっただけだ。

 結果には起因があり、我々に観測できてもできなくても、物と物の間には因果がある。

 ロレンソの上に掛かっているテュコの腕を取って、少し位置をずらす。抵抗されるかとも思ったが、意外に素直にテュコは離れた。


「変化を見逃さないためにも、今はおやすみ。

 眠れなくても、目を閉じてな」


 そう言って、俺は手をかざしてテュコの目元に影を作る。テュコがあまりにもハッキリと榛の双眸でこちらを見上げてくるので、意図が伝わってないだろうかと思ったのだが、やがてゆっくりと瞼を落とした。


***


 真夜中、月が南天に差し掛かる頃。

 宿坊の庭に面した出入り口の影に、ロレンソとテュコ、そして付き添いの俺が座り込んでいた。

 鉄門扉の付近から宿坊の入口の中まで、一定間隔で餌を並べておいた。猫が中に入って餌を食べてるところを捕獲する作戦だ。

 夜の気温はそもそも低いのだが、川面から吹き込む風が体感温度をさらに下げてくる。

 テュコはロレンソに上着やらマフラーやらでもこもこにされているが、ロレンソも俺にもこもこにされている。俺は大人なので自分でもこもこにした。

 昼間に声を掛けた『レトレ』から受け取った、ポケットサイズの暖房器具を二人にも渡しておいた。

 見た目は掌サイズの金属製のライターだ。中に詰まっているのは脱脂綿で、蓋で覆われている部分にはプラチナ触媒が置かれている。

 脱脂綿にベンジンを含ませ、気化する際にプラチナ触媒で分解される熱を利用して、最大24時間ほど低温で発熱してくれる。

 高山で大変活躍してくれる逸品だが、彼女が登山をしていたという話は聞いたことが無かった。案外、まだまだ仲間の知らない面があるのかもしれない。

 フリース素材の袋に入れたそれを、テュコは両手で包み込み、ロレンソは手に持っている様子は無かったので、上着のポケットに入れているのかもしれない。


 バシリカの建つこの位置は、大きな川が二つ内海へ解放される河口にある。街の中心部からは離れているため、喧騒は昼間でも届かない。

 少し離れた川から、波を打つ音が聞こえる程度に、静かな夜だ。

 そんな夜が、実は猫を探し始めた日から三日ほど経過している。

 保温瓶に淹れてくれた熱熱の紅茶を、日ごとに種類を変えてくれている気遣いが身に染みるようだ。


 三日目ともなると、俺は小さく諦観を感じ始めているのだが、幼い二人はじっと門扉を見つめ、その目にはまだ諦めは無い。

 一つの影も見逃さないと注視する視線の先で、不意に影が揺らいだ。

 瞬間、俺にも分かるほどテュコの気配が変わった─── のだが。

 あまりにあっさりと、ロレンソがテュコの背中を掴んで止めてしまった。あのまま放っておいたら猫まっしぐらだったろう。


「いい子だから、待て」


 その声かけが、相棒に向けて言うには相応しかったかは分からないが、テュコは言われた通りスン…と、おとなしく座り直した。

 ツッコミたいことは諸々あったが、ひとまず目の前の猫が優先される。

 もくもくと誘導する餌を食べていた猫は、ゆっくりと中庭の出入り口まで近づいてきたが…… あと一歩のところで踵を返してしまった。

 テュコがロレンソを振り返るが、彼は無言で首を振った。ここで無理に追ってしまうと、猫に警戒を与えてしまう。


「大丈夫だ、あと二日以内に確保できる。信じろ、相棒」


 どこからその二日を割り出したのか定かではないが、まるで予言のようにロレンソは言い切った。

 案外、本人も根拠などないのかもしれない。今の彼らには確信が必要だから言い切った、というのも十分に考えられるし、ロレンソはそういうことができてしまう子どもだ。

 テュコは、猫が去って行った先の夜を見つめ、ゆっくりと頷いた。

 去って行った猫は、若干足を引き摺っていたようにも見えたが、この寒い中を移動できるほどには体力があるようだ。


「無事が分かって良かったな」


 俺はロレンソに言った。

 彼は俺を見上げ、そうして皮肉でも嘲笑でもない笑い方をして、頷いた。



 翌々日、果たして無事に猫は捕獲された。

 猫を捕獲した時のロレンソはちょっと見ものだった。


「まったく、5日間もどこを歩いていたんだ。入口の柵を忘れたのはこちらの落ち度だが、医者からしばらくは安静にするべきだと言われただろう。いくら餌場に困らないと言ってもこちらは怪我の状態を見て栄養を考えながら調理しているんだぞ、ここで偏った栄養でこれまでの努力を泡にされたら適わん。アルパカには抱っこは一日三回三十分とルールを決めるから、お前の完治までまだ時間が必要なんだ、おとなしく部屋の中で活動すること、分かったな」


 と、餌椀の中身を食べ終えた猫と対峙しながら滔々と説くのだ。突然接触の回数制限を定められたテュコは、相棒の肩を掴んで揺すっている。

 それはそれとして、猫分かるのかな、と思ったが、自分の面倒を看る人間が何やら訴えているという状況くらいは伝わるのかもしれない。

 彼の中でボス猫に話を通した実績が積まれたように。


***


 それは穏やかな『カテドラーレ』で流れる永続の中の一幕。

 捲っても捲っても変わらない平穏に包まれた日々の一瞬。

 いつか『箱庭』に漂うときに、繰り返す穏やかな夢になるのだろうと。

 陽だまりの落ちる宿坊の庭で、猫を膝に抱えてまどろむ二人を眺めながら、俺はまだぼんやりと考えることができていた。



(陽だまりの猫 了)

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