深淵を覗くとき、

 一触即発だった。


 ピリついた空気などという生易しい表現では到底括れない、嫉妬と憎悪がドロドロに煮詰まった空気が重く満ちている。

 だが、その中でただ一人、そんな空気など…… いや、そんな空気さえも嘲るように酷薄な笑みを浮かべている。それがまさかのこの空気を向けられている張本人であったりするから、罵声をぶつけた当人も周囲の人間も、この状態の違和感に正直困惑してしまっているのだ。

 牙を剥くように嘲笑をしていた唇が開く。その小さな挙動一つで、この場の空気が軋むような気がした。


「お前がいくら吠えようが書面で発行されてしまっているからなあ。

 ここでどう喚いたところで覆らんだろ。俺に向かって口を開けるよりも、本隊へ噛み付くか尻尾でも振る方がまだ現実的な話じゃないか」


 手酷い装飾が多いが全くのド正論であるだけに、鬱屈した反論さえも許されない。正しいが、

 長年、この研究室で管理をしてきた人間に対しての感情が一つもない。

 その場所を、今まさに奪うというのに。


「成果を生み出さない人間に与える金があると思うのか、おめでたいな」


 とは、数秒前にこの男が言い放った一言である。

 ブルーグレーの三白眼は寒空のような温度で研究室全員の心臓を突き刺したのだ。

 主任(書面があるなら正式には前主任、か)が青筋を立てて震えるのも感情としては分かる。最近入室したばかりの私でさえドン引きしているくらいだ。

 だが、この赤毛の男に限っては、嫌になるほど彼自身の言葉に対する実績の重みがある。

 これまで『成果』を信じられないほど多く生み出してきた人間だ。彼が何かを動かせば予定調和とばかりに利益がある。

 彼がいたのがたまたま軍施設だっただけで、きっとどこにいてもこの人間はその場に応じた成果を上げるのだろう。

 こんなものを真正面から突きつけられて、まともな心情でいられる方が異常だ。

 前主任の衝動は、何も不自然のない人間として当然の発露なのだ。彼の口からはこれまでの貢献と研究実績が延々と吐かれるエラーのように出続けている。

 もうこの場のおおよその人間が諦観をもってそれを見ていた。


 ─── この男に通じるわけがない。


 やがてゼンマイが切れたかのように途切れ途切れとなった主任の様子を見た男は、変わらぬ笑みのまま言うのだ。


「で?」



 ここまで積み重ねた時間や執着や犠牲にしてきたいくつものことを、雑な音で投げ捨てた。

 私は、本当に人が衝動的に動く様を初めて見た。

 言葉もなく、主任は弾かれたバネのように握りしめていた拳で目の前の赤毛の男へ殴りかかる。


 の、だが。


 分かっていたのだ。この場に彼が姿を現し、を視界に捉えたときから、我々には。

 あらゆる物理的影響を、この男に与えることは叶わない。

 主任の拳は赤毛の男の頬を抉ること無く、あっさりと白い手に止められた。白い手、白い髪、白い─── 『死神』によって。


「いい子だ、相棒」


 主任と自分の間に割り込んだ相手の肩をポンポンと軽く叩く。

 その声でようやく主任も我に返ったようだった。目の前の相手が誰であるのか凝視し、足をもつれさせながら飛び退る。

 二人はすでに主任への興味が無いらしい。怒りではないだろう震える主任を一瞥することもなく室内をぐるりと見回した。


「明日以降、ここは『星』の研究室となる。

 留まるのも出ていくのも構わない。だが、これまでのように何もせず居続けられるとは思うなよ」


 そう言うと、相棒へ「行くぞ」と声を掛け、連れ立って出て行ってしまった。

 それが、私が初めてあの不思議な二人組みと関わった時間だった。


 あまりに一方的な存在感であり、我々の目にはそのまま脅威に映る。

 冷たい灰色の空間で見た二人だった。



***




「こら」


 敷き詰められた芝生の上に木漏れ日が落ちていた。

 いつの間にか猫が集まるようになっていた中庭で、ウッドテーブルに本を広げていた赤毛の男に、少年のような風貌の軍人が声を掛けた。

 声を掛けたというか、正しくは叱った。


「お前な、また厨房から勝手に材料を拝借しただろ」

「貸借は済んでいるはずだが」


 オーバーサイズのジャケットで腕を組む童顔軍人を見上げ、彼はいつかの主任へ向けたような嘲笑でしれりと返す。

 軍人が男と同じテーブルに着くことをしないのは、目線の位置のためだろう。


 男が何を読んでいたのか分からないが、何か書き物をしているようだったので本ではなくノートだったのかもしれない。彼が端末機器ではなく、アナログに紙と鉛筆を持っているのは意外であったが。

 軍人の方も男の様子が意外だったのか、小さく頭を傾げながら彼の手元を覗き込んだりしていた。


 今の会話から察するに(どういう経緯かは分からないが、)どうやら彼がホームの厨房から食材を勝手に持ち出して、そして現時点では代わりを返したということらしい。

 噂では確かにこの男は料理が趣味らしいのだが、そう気軽にという印象が私にはなかった。仮に食材を借りるとしても、彼ならば買い取る気がした。後腐れがない、それ以降の繋がりがない。

 貸し借りをするという行為が、どこか周囲への『繋がり』を想起させるのだ。


 勝手に借りたが、ちゃんと返したという正当性をいけしゃあしゃあと述べた男に、軍人は明らかに呆れた顔をした。

 規模も空気も全く違うが、状況としてはいつかの研究室にいた主任の立ち位置だ。

 だが、その子どものような軍人はあっさりとため息混じりに返した。


「そういう話しじゃないんだよ」



 あのとき。

 私たちがこの男に対して言えなかった一言を、小さな軍人はいとも簡単に、当然のように言い切ったのだ。



 そうして、その軍人へ男もまた頷く。「へえ」

 相手の続きの言葉を待っているようだった。行動をした自分に対して何を言うのかと好奇心を隠さない声だった。

 軍人の方も相手が一応は聞く耳を持っていることを察したようだ。


「いくら厨房の人がフランクだからって一言声を掛けろ。貸借じゃなくて単純に挨拶の問題だ。

 世話になってるならちゃんと礼を言え」

「それは隊長命令か」

「年長者からの、人生の後輩への訓示だ」


 ………

 確かにの隊長が年齢詐欺を起こしている外見だとは聞いていたが、実際目の当たりにするとそれはそれで驚くものだ。

 動揺を露わにしたところでに気付かれることはないが、長年の癖で誰がいずとも表面化を避けてしまう。

 隊長と呼ばれた軍人の忠告に、赤毛の男は軽く笑ったようだった。


「なるほど。先達の言うことは聞いておくものだったな。

 今度顔を見たら礼を言っておく」

「借りる前にちゃんと言う」

「分かった、それもな」


 半分以上軽薄な響きをしていたが。



 もしも、あの灰色の部屋の中で誰か一人でも彼を糾弾していれば、ただ自分達の正当性や虚飾を並べるだけではなく、断罪できていれば……

 この狂人は我々の話しを聞いてくれたのだろうか。


 あのとき、



 あるいは、この男は変わったのだろう。隊長と話している彼は、少なくともあの冷たい部屋にいた人間とは同じではなかった。他人を必要としていない空気は変わらないが、触れる温度が変わったように見えた。

 買い上げではなく貸借を。自分の気配をそこに置くような緩い繋がりを。



 男が頷くのを見て、隊長は「頼むぞ」とホッと一息吐くように笑う。

 隊長の用件はそれだけだったようで、座っている男の足元に転がっている白い相棒の方を確認すると「また後で」と中庭を後にした。

 隊長の姿が消えるのと同時、男は本を閉じて立ち上がった。どうやら彼らも場所を移すらしい。私もそれに合わせて移動すべく、覗いていたスコープから離れようとした。

 瞬間、それまで寝ていた相棒の双眸が開く。

 開いて、───


 見えない鉤爪で心臓を鷲掴みにされた感覚だった。


。まだ逃げるんじゃない」


 そして嘲るような男の声が、ヘッドホンから流れる。視界の中の赤毛が、何でもない足取りで彼らの後ろに植えられた茂みへ向かう。スコープから、彼の挙動から目が離せない。

 ヘッドホンから耳障りな音が聞こえ、あの男の声が聞こえた。


「バレてるぞ。もっと上手くやったらどうだ」


 喉奥で嗤った声さえ拾ってくる。


「暇をしているようだが、間違ってもに手を出してはくれるなよ。

 恐ろしいものがお前の喉を食らいに行くぞ」


 そう言って、彼は持っていた隠しマイクを背後の相棒へ放った。白い手がマイクを掴んだ直後、軋んだ音が聞こえ、沈黙が流れる。…… まるで自分の喉笛を砕かれるような音だった。

 私の任務はただ二人を監視するだけの内容であったが、やり方を間違えればマイクと同じ末路を辿るのだと、そういうことだろう。

 この任務を受けたときから気が重かったが、更にやる気の失せる音だった。

 赤と白の頭が中庭を離れるのを見届け、私は嘆息交じりに荷物を背負い人気のない屋上から階下へ向かう。



 …… 階段の下方から、足音が聞こえた。



 早くもなく遅くもなく、しかして明確な目的を持った足音だった。

 心臓が早打ちをしている。呼吸が浅くなるのが分かったが、それ以上に、自分にはこの足音に予感があった。

 あの二人が最初から私の存在を知っていたならば。

 ───


 



 いや、あの男が指していたのは、あくまで自分の隣にいた白い存在の事だ。

 あの男でも見誤ることがあるのか。

 の逆鱗に触れるのは、彼ら二人自身に触れたときだ。



 やがて階下から黒い頭が見えた。

 こちらを見上げた双眸は、これまで見た中で一番深い暗がりを湛えている。



(深淵を覗くとき、 了)

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