雨上がりの声

井上 幸

雨上がりの声

君と会わなくなってから、どれくらいの時がっただろう。

思えばいつも君は雨音あまおとと一緒におとずれた。


「すみません、開いてますか?」

「いらっしゃいませ。開いてますよ。お好きな席へどうぞ」


ここは小さな喫茶店きっさてん

珈琲コーヒー好きの趣味がこうじて開いた店だから、静かにゆったり過ごしてもらうことが最優先。カウンターには4人まで。2人掛けが奥に1テーブルと狭い場所。

彼女は雨のしずくを払ってから、カウンターへと腰かけた。


「良かった。急に降られちゃって」

くもり出してからすぐでしたね。おしぼり熱いのでお気をつけて」

「えぇ。わ、あったかい。ありがとう」


ほわりと微笑ほほえむ彼女の表情かおに、一瞬花が舞うのを見た気がした。

メニューをめくる指が止まる。


「んー、この深煎ふかいりオリジナルブレンドと、プリンにします」

「かしこまりました。少々お待ちください」

「はーい」


湯気ゆげの出始めたケトルを横目に豆をき、ネルとサーバーへ熱湯をまわしかける。挽きたてのきれいな山を移し替え、サーバーの湯を捨てる。

こぽこぽ可愛い音を立てながら雫は色をびていき、香りはふわりと幸せを運んでいく。

紅茶のようなとろんととろける赤茶色。


「お待たせしました。珈琲とプリンです」

「素敵な色ね。いただきます」


それから彼女は雨が止むまで少しの時間、羽を休めて帰っていった。


また別の雨の日に、彼女はふらりとやってくる。

雨が降ると寄りたくなっちゃって、と明るく笑う彼女の存在は、僕の中で日に日に大きく強くなっていくようだ。

回数を重ねるたびにしたしくなって。気づけば時折ときおり閉店後、カウンターに二人腰かけて愚痴ぐちすらこぼす仲になっていた。けれど彼女はいつも明るくて、落ち込むのは僕ばかり。

彼女に大丈夫って言われると、本当にそう思えてくるから不思議なものだ。


あるとき初めて、彼女が落ち込む姿を見た。

いつも彼女がそうしてくれるように、きっと大丈夫だとなぐさめる。これまでの彼女への感謝と尊敬が、彼女の心へ届くようにと願いを込めながら。

ありがとう。弱く微笑む彼女とは、それきり会えていないけど。


雨上がり、僕は店先を掃除する。雨で流れた葉っぱやら、風で飛ばされた缶くずやら。ため息交じりで下を向き、彼女のことを思い出す。


そんな時、軒先のきさきから頭に一粒、雫が落ちてきた。

僕は驚き振り向くけれど、そこには誰もいなかった。


彼女の声が、聴こえた気がした。


***************


雨上がり。

湿った匂いを吸い込むと、頭にぽつんと水滴すいてきが。


『気にしないの。大丈夫!』


いつもそう言う君の声。

聴こえた気がして振り向くけれど、僕はやっぱり一人きり。


「ありがとね」


つぶやく声は誰てか。

ただ一雫ひとしずくに顔を上げ、沈んだ気持ちをなぐさめて。

隣に居ない君を想う。

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雨上がりの声 井上 幸 @m-inoue

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