寛容のパラドックス【角川武蔵野文学賞応募作】

西東友一

第1話

『寛容のパラドックス』と言う言葉をご存じだろうか。

 現在の多様性を認める社会。

 多様性の波を認めない者は批難を浴びる。

 けれど、寛容であるならば、不寛容であることにも寛容でなければならない。


「ここでですね、悪人面の〇〇で、△△の・・・」


「うーん、それは偏見じゃないかな?」


 編集の鈴木さんが頭を掻く。


「でも、それだと・・・」


「今ってそう言うの厳しいからさ。逆にイケメンの◇◇がとかは?」


 俺の脳内のイメージにあるそれとは異なった。


「それじゃあ・・・違うんです。漫画なら○○で、△△の作品だって」


「でもね、文章だと該当する人がほら、不快に思うじゃん。佐藤さん」


 笑顔で言っていたけれど、編集の鈴木さんの言葉は命令に近かった。自分は正論を言っている。もし、嫌ならこちらで出版はさせないと確固たる思いがそこにはあった。


「わかりました・・・直してきます」


「うん、3日以内ね」


 この言葉も有無を言わさない言葉だ。


「・・・はい」


 俺はビルを出て、空を見る。

 きれいな青空だ。


「ふっ、雨雲でもきれいだと表現しないといけねぇのかよ、くそがっ」


 俺は単純な男だ。

 天気が良ければ、気分がいいし、天気が悪ければ、気分が悪い。

 もちろんここで言う、天気が良いは晴れ、悪いは雨。


 美人を見れば、目を引かれるし、イケメンを見ても無反応。

 あぁ、別にブスを見て気分が悪くなることはない。そんなことをしていたら、毎日鏡を見て、気分を悪くしなければならなくなってしまう。


「ふっ、こういうのも嫌いだ。ブスならブスと言っていいみたいなのも」


 自虐は許されるのに、優位な奴が言うと叩かれる。

 そんなのも嫌だ。


 美人なアイドルとかが、性格悪そうとか言われているのも、本当に胸糞悪い。あの、美人だから性格悪そうとか言うセリフに反吐が出るし、そう言われるから、美人なアイドルが無駄に気を遣わなければいけない感じもはらが立つ。そういう社会が美人の性格を歪ませていると思っている。


 美は正義。

 そんなの美術や神話を学んだ奴なら誰でも知っているのに、悪が隠れているなんて言う奴らが嫌いだ。素直な気持ちを捻じ曲げられるのは悪だ。確かに言葉によって人を傷つけたくないけれど、俺は言いたいことが言えずに傷ついているぞ・・・。


「よし、気分転換だ」


 俺は駅へと向かい、電車に乗って角川武蔵野ミュージアムを目指した。こういう時は読書に限る。ミュージアムに着いたら、マンガ・ラノベ図書館でお気に入りの本を手に取る。


 今じゃ放送できない言葉、もしくは注意書きしないと使えない言葉が入った本、欲望の垂れ流しの本。ちょっと昔の本たちが自分が表現できない代わりにあらぶってくれている。


(でも、異世界が増えたよな・・・まぁ、それも当たり前か)


 現実世界の人のことをちょっとでも下げた形で書いたなら、それに該当しうる人たちが批難してくる。たまたま、その人物が悪人だっただけ、その登場人物が偏った考え方だっただけなんて、通用しないときがある。

 人は個人で見なければならないのは当然なのに、被害者側が自ら同じカテゴリーだと手を挙げて、文句を言ってくる。いやいや、あなたはあなたじゃん。勝手に一緒にしないでください。


 そんな対応に追われるくらいなら、ゴブリンや鬼でも悪人にしておくのが書きやすくて平和だ。

 今はそういうご時勢だ。


 作品の中には差別的な表現が含まれた物もたくさんある。中には俺だって許せないと思うものもある。けれど、当時の時代背景を考えれば仕方ないと思えることだってたくさんある。今は人権への価値観が成長していて、人で言う思春期みたいなデリケートな時期なのだって、理解している。


「ただ・・・俺の意見も認めてくれよ・・・」


 武蔵野の豊穣な自然を語るために多くの作品が生まれた。けれど、自然はもうほとんどない。けれど、言の葉の世界は無限大に広がって欲しい。


「おっ・・・この本は・・・」


 初刊を見ると大分新しいけれど、大分攻めた内容だった。

 こういう作品を見ると勇気が貰える。俺には刺さる内容だったけれど、俺も不快に感じる部分もあれば、他の人が不快に感じるであろう部分も中にはあった。けれど、その表現のおかげでイメージできやすかったし、全体はとても面白かった。

 

「よし、俺も頑張るか」


 俺だって誰かを傷つけたくないし、なんなら誰かを楽しませたい。

 読むのも仕事。

 本を楽しみつつ、現在のトレンドを熟知し、俺はなるべく今のご時勢でも無難な言葉を探す。まぁ、それだってもしかしたら未来では物凄いバッシングを浴びるかもしれないし、逆にそんなことを気にしているのが可笑しいと言われるかもしれないし、なんなら後世で名を遺すかもしれない。


 例えば、戦争中に平和主義の本を書くとかそんな感じだ。

 まぁ、そんなことを考えて筆が止まるようでは、俺は二流三流なのかもしれないし、日本人的周りに合わせる協調性が強すぎるのかもしれない。


(おっとっと。日本人的も危うい言葉か。ステレオタイプの言葉は・・・ってああっ。やっぱり・・・)

 

 俺は俺の意見に不寛容な人でも寛容でいる。けど、攻撃されるのは辛い。まぁ、俺に不寛容な人も攻撃された気分なのかもしれないし、第三者的な人が俺に不寛容なのも納得がいかないけれど、みんなが寛容であるべきならば・・・。


「言葉って難しいな」


 でも、言葉を扱う仕事が嫌いじゃない俺は存分にマンガ・ラノベ図書館の言葉の森を楽しんだ。けれど、佐藤太郎は今日も無難な言葉を選んだ。でも、明日には新しい言葉、復活した言葉が使えるかもしれない。


 そのきっかけはもちろん、ここ―――

 

 

 

 


 



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