第3話 臨床心理士

 少しずつ東の空が明るみ始めた。


 カーテンの隙間から優しい陽の光がリビングを照らす。

 母はまだ作業を続けていたが、のぞみのほうは朝一番から心理カウンセリングの予定が入っていて、そろそろ支度を始めなければならない。希は自室に戻って着替えを取ってくるとシャワーを浴びた。

 

 シャワーを浴び終えてすぐに髪の毛を乾かす。ドライヤーの風の音も希の鼓膜を通すとヘンデルのオラトリオに聴こえてくる。錯聴さくちょうだと思うが、おごそかな旋律せんりつと心地の良い清涼感が耳を駆け抜けていくと少しだけ気分が上がる。

 

 希は髪の毛をセットして身支度を終えたあと、心理カウンセリングを受けるために本郷へと向かった。大江戸線の本郷三丁目駅からほど近いマンションの一室に希の主治医である日下部くさかべ先生のカウンセリングルームがある。

 クリニックに着いて玄関の呼び鈴を押すと希を待ち受けていたかのようにすぐに返事が返ってきた。


「どうぞ、お上がりください」

 

 柔らかく落ち着いていて透明感のある澄んだ声。

 希は日下部先生の声質がとても好きだ。日下部先生は臨床心理士だが、精神科医でもあり国際精神分析協会の正会員でもある。年齢は三十代後半から四十代だと思うが、若々しい外見からは全く想像できない。

 長いストレートの黒髪をハーフアップにしている。形の整った眉毛は目との距離が近くて凛々りりしい。希は同性の自分から見ても先生はかっこいい大人の女性だと思った。


「失礼します」

 

 希は玄関でブーツを脱ぐと、いつものように洗面所を借りて手洗いとうがいをした。検温も問題なく、個室へと通された。木材の匂いが漂ってきそうなほど、フローリングや家具の全てがナチュラルウッドで統一されていて清潔感にあふれている部屋だ。患者の不安感を取り除くためらしい。個室に入ると、リクライニング機能付きのゆったりとしたパーソナルチェアに座る。


「暖かいロイヤルミルクティーでしたね」


「はい」

 

 このカウンセリングルームでは患者にハーブティーなどを出してくれるのだが、希はいつもホットのロイヤルミルクティーを頼んでいる。単に希が好きな飲み物だというだけなのだけど。日下部先生はチェアのすぐ脇にあるサイドテーブルにティーポットとティーカップをセットすると、一番奥にある自分のデスクに戻った。


「よろしいでしょうか。ではセッションを始めましょう」

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