第1話 夢の記憶
まだ夜は明けていない。
ウォルナットの置き時計の文字盤は午前三時十二分を示していた。
いつものことだがすっきりと目が覚めてしまっている。
希は朝活で読書でもしようと読みかけの本を持ってリビングに行く。
「どうしたの、希? 眠れない?」
母が希の存在に気が付き、キーボードを打つ手を止め声をかけた。
「ううん。ぐっすり寝て、今起きちゃったんだ。目がパッチリ覚めちゃってるから朝活でもしようかなって。お母さんはお仕事?」
母親の
スラブ語系の語学に堪能なので、よく翻訳の仕事などをしている。
「ええ、集中していたらこんな時間になってしまったわ」
希の母は典型的なショートスリーパーだった。
何かに集中すると誰かに止められないかぎり延々と作業を続けてしまう。
持病の睡眠障害のために一日の殆どがレム睡眠状態になる希とは対照的だった。
「ねぇ、お母さん。一息入れない? コーヒー入れてあげようか?」
「ありがとう。助かるわ」
希はキッチンでカフェオレを二杯入れるとカップを母のデスクに持っていった。
「ありがとう、希」
希は母に昨夜視た夢の話をしたくなった。
母は学者肌の人でもあり、何かに興味が向くと徹底的に調べてくれる。
希の病気や夢のことを他の多くの人のように「馬鹿みたいな話だ」と一括したりはしない。
しかし、その夜の希の夢は普通の人が見るようなものとは違っていた。
お母さん、少しいい?」
「なぁに?」
「また夢を視ていたの」
「いつもの夢?」
「そう。私じゃない誰かの人生の一端をトレースする。何人も、何人も」
「トレース? つまり希は夢で他人の人生を体験をするということ?」
「そう。現実では六時間の睡眠時間でも夢の世界では何年もの時を過ごす。そしてその経験はちゃんと脳に
「夢の中の擬似的な体験も、希の中では内的な事実であることに変わりはないわ。それも含めて希を構成する要素なのよ。事実あなたは夢に影響を受けている」
母は希の目を見て真剣に答えた。
「であれば私は自分の中にどれだけ他人の人生を内包しているのかな。現実よりも夢の世界での活動時間が日に日に長くなっていく。夢の記憶よりも現実の記憶の方が曖昧で遠い……」
希のこの言葉を聞いて、母は少し眉根をひそめた。
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