Gluttony

鍵崎佐吉

暴食

 人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で晦渋で、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、無かったのです。

(太宰治『人間失格』より引用)




 インターホンが鳴っている。……インターホンが?


 時計を見るとすでに夜の十一時を過ぎている。こんな時間に連絡もなくいったい誰が訪ねてくるというのだろうか。考えても全くわからない。得体の知れない薄気味悪さを感じる。


 だが同時に唐突に訪れた非日常に対しての好奇心も湧き上がってくる。それにこのまま放置してもこの恐怖は和らがない。どうせ怖いことに変わりがないのなら、いっそ出てしまった方が楽になるかもしれない。思い切って通話ボタンを押してみる。


 画面にはよく知った顔が映っていた。思わず声が出る。


「今井?」


 画面の中の顔が少し笑う。


「久しぶり。とりあえずあげてくれないか」


 多分、ただ事では済まなくなる。その顔を見て直感的に思った。だが三か月もの間失踪していた友人を放っておくことはできなかった。




「悪いな、急に来て」


「いや、それはいいんだけどさ」


 久しぶりに会った今井は意外と元気そうで何かしらの事件に巻き込まれたりしたようには見えない。まあ今井はもともとそんな危なげなことをするタイプの人間ではないが。だからこそ今井がいなくなったと聞いた時の衝撃も大きかった。何から聞こうか迷っているうちに今井はさっさとあがりこんでベッドに腰掛けている。いつも家に来た時にはそこに座っている、今井の定位置だ。


「テレビつけていい?」


「え、なんだよ急に」


「いや、しばらくニュースとか全然見てなくてさ。俺がいない間、なんかでかい事件とかあった?」


「そりゃ色々あったけど」


 そう言いつつすでに今井はテレビをつけている。ちょうどニュース番組をやっていて今は野球の特集をしているようだ。今井は何を言うでもなく、リラックスした様子で画面を眺めている。その姿を見ていると最初に感じた漠然とした不安が薄らいでいく。でもだからといってまだ何一つ安心できる状況ではない。


「お前、どこ行ってたんだよ」


「まあ、いろんなとこ」


 テレビから目をそらすことなく今井が答える。その声に反省や疲れの色はなく、まるでどこか旅行にでも行ってきたような口ぶりだ。確かにこいつはもともとつかみどころのないやつだったしそういうところを気に入ってもいたが、さすがにこの状況だとそんな態度も腹立たしく思えてくる。


「みんな心配してんだぞ。ごまかすなよ」


 俺の苛立ちを感じ取ったのか、今井はこちらを向いて少し申し訳なさそうな顔をする。


「それに関しては悪かったと思ってる。でも、なんていうか、こうするのが一番都合がよかったんだよ」


 都合がよかった。それはいったいどういう意味だろう。どうにも先ほどからの言動を見るに、あまり具体的なことは話したくないようだ。それとも話すことをためらっているのだろうか。


「なあ、一個頼みたいことあるんだけど」


 急に真面目な顔をして今井が告げる。忘れかけていた不安と恐怖がまた顔をのぞかせる。だがいまさらここで逃げ出すわけにはいかない。


「なんだよ」


「なんか簡単でいいからさ、飯作ってくれ」


「……は? 飯? 今から?」


「ああ」


 思わず聞き返すが、今井の顔はいたって真剣だ。しかしあまり腹が減っているようには見えないし、そもそももう深夜と言っていい時間だ。


「コンビニとかじゃダメなのか」


「お前の料理が食べたい」


 顔には出さなかったが内心驚いた。思い返せばこれまで今井が食べ物のことで何かを主張したのを聞いたことはない。一緒に飯に行くときも誰かに任せっきりで、勧められたところについていくだけだった。


「今卵くらいしかないけど、オムレツとかでいいか?」


「それでいい」


 この頼みごとがこいつが失踪したことと何か関係があるんだろうか。もちろん考えたところでわかるわけはない。だが、どうにも漠然とした不安はぬぐえないままでいた。


 最初は一人暮らしの寂しさを紛らわすために始めた料理だったが、今では趣味と言ってもいいくらいにはまっている。こんな時間から料理をするのは少し気が引けるが、断る気にもなれなかった。それにオムレツくらいなら十数分もあれば作れるだろう。


 フライパンを温めながら横目で今井の方を見る。相変わらずベッドの定位置に座ったままテレビを見ているようだ。あいつがこれからどうするつもりなのかわからないが、とにかく失踪した原因だけは突き止めなければいけない。


 この前今井に会ったのは失踪する二週間ほど前のことだ。他の友達と一緒にラーメンを食べに行った。その時は特に変わった様子もなく、食事した後に飲み屋によって、そのあと終電で帰ったはずだ。


 いや、そういえば家に帰ったあと今井からラインが来ていた。確か家について寝ようとしたけど気分が悪くなって結局吐いた、というような内容だったと思う。もともと食が細いうえにあまり酒にも強くない今井には、ラーメン屋と飲み屋の梯子はきつかったようだ。しかしそれも結局仲間内の笑い話の一つとして片付けられているし、それだけがきっかけで三か月も行方をくらますとは思えない。


 それになぜ今井は急にうちにやってくる気になったのだろうか。知り合いの家ならどこでもよかったのか、それとも自分でなくてはならない理由があったのか。もし理由があるとすればそれは俺が今つくっているこのオムレツということになるのだろうか。


 確かに料理の腕にはそれなりに自信があるが、食に興味の薄い今井がそこにひかれるとも思えない。だが今井は「お前の料理が食べたい」と言った。以前なら考えられない言葉だ。本来ならそれはむしろ喜ばしいことなのかもしれない。だが今はどうしてもその言葉が不自然に思えてしょうがない。


 フライパンからうっすらと白い煙が立ち上る。この熱気すら近頃は心地よく感じられるようになった。ぐだぐだ考えても仕方ない。結局本人に聞かなければわからないことが多すぎる。今はただ目の前の作業に集中しよう。オムレツといえど人に振る舞うのだから手を抜くわけにはいかない。


 黄色い液体をフライパンに流し込むと、小気味いい音とともにふわりと立ち上った卵の香りが鼻をくすぐる。ああ、これこそまさに生きる喜びだと俺は思う。




 オムレツの乗った皿を片手に部屋へ戻ると、テレビはすでにきられていて、今井はあの場所から動かず本を読んでいた。表紙には「人間失格」と書いてある。


 なんだか妙な胸騒ぎがした。今目の前にいる男は俺の知ってる今井とはどこか少し違う人間のような気がした。この違和感を笑い飛ばしてしまったら、後で取り返しのつかないことになる。そんな考えが頭をよぎった。


「うまそうだな」


「え?」


「オムレツ」


 そう言われて自分の動きが止まっていたことに気づく。こんなことで動揺してる場合じゃない。俺は友達として、こいつに何があったのか知る必要がある。


「まあ、もうプロ同然と言っても過言ではないからな。オムレツくらい余裕よ」


 乱れた心を悟られないよう少し大げさにおどけてみせる。


「やるじゃん」


 今井はクックと低い声で笑いながら、皿を受け取り机に置く。そのにやけ顔は以前と全く同じだ。だが安心してもいられない。こちらの質問に答えたがらないのなら、少しずつでも向こうから話してくれるのを待つしかない。そのためにはなるべく今井がリラックスできる雰囲気を作る必要がある。


 別に難しく考える必要はない。いつもみたいにだべってればいいだけだ。


「ケチャップは?」


「あ、今ないかも」


「使えねえなあ」


「人に飯作らせといて言うセリフかよ」


「おもてなしの心が足りてないよ」


 口は動いているが、スプーンを右手に持ったまま今井はオムレツをじっと見つめている。


「食わねえの?」


「もうちょっと見ていたい」


「はあ」


 その表情は何か考え事をしているようにも見えるが、それ以上のことは読み取れない。深刻そうな顔をして実にどうでもいいことを考えていたり、そうかと思えば何でもないような顔で唐突に小難しい話を始めたりと、今井の表情から思考や行動を読み取るのは至難の業だ。


 しかし三か月もふらふらしていた割には顔色もよく、痩せたりやつれているような印象は受けない。なんなら以前よりも健康に見えるくらいだ。


「うまいとうまそうって違うんだよな」


 右手で器用にスプーンを回しながら今井が唐突に口を開く。やっぱりこいつの考えてることはよくわからないし、今回は言ってることもよくわからない。


「というと?」


「料理の楽しみは食べてうまいって感じることだけじゃなくて、食べる前に見た目とか匂いでうまそうだなぁって感じることも含まれると思うんだよ」


「確かにそれはあるかもな」


「そういう意味では、お前のオムレツはすごくうまそうだ」


「そいつはどうも」


「じゃあ、いただきます」


 鈍い銀色のスプーンがゆっくりと黄色い山に突き刺さり、少しずつそれを切り分けていく。今井はいつもゆったりとした、優しく愛でるような食べ方をする。いつだったか一緒に飯を食っていて、なんとなく「相変わらず食うのおせーな」と言ったことがある。すると今井は少しむっとした顔をしてこう言ったのを覚えている。


「食事すら優雅にとれないようなやつは、安らぎを得ることはない」


 あの時はその言葉の意味を深く考えもしなかった。怒るとなぜか小難しい言い回しをするようになる今井の変な癖を笑っただけだ。だが今こうして二人で向かい合い、静かで満ち足りた時間を過ごしていると、あの時の今井の言葉が胸に染み入ってくる。


 このつつましい安らぎすら知らない人間はきっと不幸だろう。いや、本当はみんな知っているはずなんだ。だけど人は簡単にそれを忘れてしまう。


「で、うまそうかどうかの方はいいとして、実際食ってみてうまいかどうかの方はいかがですか?」


「さすがはシェフだ。文句なしだよ」


 冗談でも自分の料理をほめられるとやっぱりうれしい。普段めったに人に振る舞うことなどないからなおさらだ。気づけば自然と笑みが漏れている。


「卵ってこんなにうまかったんだな」


 オムレツをつつきながらしみじみと今井が言う。その声は素朴な喜びと驚きで満ちている。だけどどうにもその一言が引っ掛かった。こいつ、こんなこと言うやつだったか?


「スーパーで買った普通の卵だぞ」


「だろうな」


「まあ俺の腕にかかればこんなもんってことか」


「確かにお前を選んだ理由はそこだけどな」


 お前を選んだ理由。つまりやっぱりこいつは、俺の料理を食べるためにここに来たということか。だけどそれが今井が姿を消した理由とつながるかどうかはわからない。


「やっぱりここに来て正解だった」


「そうなのか?」


「ああ。これでようやく確信が持てた」


 今井の手が止まる。スプーンを皿に置く音がやけに大きく聞こえる。半分ほどになったオムレツを眺めながら再び今井が口を開く。


「さっきうまいとうまそうは違うって言ったよな」


「ああ」


「空腹と食欲も似てるけど違うと思うんだよ」


「空腹と食欲?」


「そう」


 今井は何が言いたいのだろうか。ただの他愛のない会話と取ることもできる。でもこいつが大切なことを言う時はいつも普段と変わらない何気ない口調だった。


「空腹はただの生理現象だけど、食欲はそうじゃない。その名の通り人間の欲望なんだよ。だから人によって差があるし、時には暴走することもある」


 今井はそこまで言い終えるとオムレツを一口すくって口に運ぶ。数秒の沈黙。だけど俺は言葉を発せない。発すべき言葉が見つからない。


「この食べ物にあふれた世界で人を食に向かわせるのは、空腹じゃなくて食欲だ。うまいもの、うまそうなものを食べたいという意思だ。そのために人は必要以上の労力をかけて、時に効率を無視して、食を発展させ、より洗練されたものを求める。このオムレツだって例外じゃない」


 今井の言っていることを間違いだとは思わない。何かに対する非難や皮肉のようにも聞こえない。でもその言葉はどこか陰鬱で、聞く者を不安にさせる響きを持っている。


 今井は黙々と、しかし決して急がずオムレツを食べ続けている。多分、今井は俺の言葉を待ってるんだ。何か言わなければならない。こいつの友人として、まだこいつを見放すわけにはいかない。


「でもさ、普通に暮らしてたらそんなの気にしなくても問題ないと思うんだけど」


「確かにお前は問題ないかもしれないけど、問題あるやつがいてもおかしくない。それに気にしないと気づかないも、表面上は同じだけど全然違うことなんだよ」


「そうはいっても、問題あるやつって具体的にどんな奴だよ」


 今井はさもおかしそうにクックと笑う。今まで見たどの笑顔とも違う。目だけが笑っていなかった。


「俺だよ」


 嫌な予感がする。最初に思った通り、きっとただ事では済まないのだろう。今井と話すうちに、少しずつ楽観的な考えに陥っていたことに今更気づいた。


「俺は気づいたんだよ」


「何に?」


「俺さ、何も食べなくても生きていける体になったらしい」


 今まで感じていた不安、恐怖、焦り、そのすべてが吹き飛んで頭が真っ白になった。こいつ、今なんて言った? 言葉の意味は理解できてもまるで頭がついていかない。


「最初に違和感を覚えたのは、お前らと飲んだ後家に帰って吐いた時だった」


 話し続ける今井の視線は俺ではなく、まっすぐ目の前のオムレツに向けられている。きっともう後戻りできないところまで来てしまった。なんの根拠もなかったけどそう確信できた。


「次の日になっても調子が悪くて、その日は水分補給だけで食事をしなかった。次の日になると体調もほぼ元通りになってた。けど食欲は全然なくて昼にコンビニで買ったパンしか食べなかった」


「少しおかしいと思い始めたのはさらに次の日、お前と会った三日後だ。朝起きて、喉はすごく乾いてるのに少しも腹が減ってる感じがしなかった。それから三日たってもずっとそのままだった。それでもさすがに食べないのはまずいと思って晩飯だけは食ってた」


「そんな状況になっても病院に行くのはめんどくさかったし、むしろ体は前よりも元気になってるような感覚すらあった。だからいっそのこと空腹を感じるまで何も食べないでいようと思ったんだ。今思えばかなり無茶なことをしたと思うけど、あの時は食事が時間の無駄遣いをしているように感じられたし、結果的にその判断は正しかった」


「一週間断食したけど、水さえ飲んでれば普通に動けたし一切空腹は感じなかった。体重もほとんど変わってなかった。もはや病気とかそういう次元じゃない。生物としてありえない、あってはいけないことが起こっていた」


「もちろん恐怖で狂いそうになった。自分の体がいつのまにか、まったく得体の知れない何かに支配されてしまったように感じた。ベッドの中で丸一日震えながら何かにおびえて、それでも喉の渇きに耐えられなくて這いずるようにベッドを出て水を口に流し込んだ」


「その時ふと思ったんだ。確かに渇きは水でも癒せるけど、もっと冷たくてさわやかな何か、そう、アイスが食べたいって」


「それで俺はようやく自分から食欲までは消えてなかったことに気づいたんだ。そうしたら次第に恐怖も薄らいでいった」


「もともと人間は衝動と生理的欲求に突き動かされてるだけで、自分の体のことなんてよくわかっちゃいないんだ。今までの俺は気づいてないだけだった。だったらこれからは気にしないようにすればいいだけだ」


「そのためには自分の体についてもっと知る必要があった。何ができて、何ができないのか、どこまでは大丈夫なのか、その検証をするためにはこの日常は窮屈過ぎた」


 まるで独白みたいな淡々とした口調だった。時間としては五分もかかってないはずなのに、何かの演説を聞いた後みたいな深い余韻が残っている。


「水くれ」


「え?」


「しゃべったら喉渇いた」


 ああ、いつもの今井だ。もちろん前とまったく同じであるはずはない。でもそれは普通に暮らしてる俺たちだってそうだ。変わるものもあれば、変わらないものもある。大丈夫、俺たちは今も友達のはずだ。


今井は自分で動く気は一切ないようだ。仕方なく立ち上がって、グラスを取るために再びキッチンの方へ行く。水と言っていたが、水道水と冷蔵庫の麦茶、どっちを出すべきだろうか。少し迷ったが麦茶をグラスに注いで今井に渡した。


「サンキュー」


 受け取った麦茶を半分ほど一気に飲み干してから、また今井はオムレツを食べ始める。まだ今井の言うことすべてを受け止められているわけではない。とても信じられない話だし、できれば信じたくない。でも今井は俺だからこの話をしてくれたんだろうとも思う。その気持ちにはちゃんと応えたい。


「なんで何も言わずに出てったんだよ」


「事情を言ってもどうせ信じてもらえないだろうし、仮にそれが本当だってことになっても、そうなったらなったで多分一生自由には暮らせなくなる。絶対そうなりたくないわけじゃないけど、少なくとも今はもうちょっと気ままに生きてたいなって」


「なんかお前らしいな」


「そうか? こういう状況になったら大半の人間はそうすると思うけどな」


「もう一個聞いていいか?」


「ああ」


「食べなくても大丈夫なのになんで俺の料理を食いたいって思ったんだ?」


 最初からずっと抱えていた疑問だ。でも今井の話を聞いても結局なんでそんなことを頼んだのかわからないままだ。


「正直俺にもはっきりとはわからない。けど多分確かめたかったんだと思う」


「確かめる?」


「俺は空腹を感じないし、食べる必要もない。でもそれは気づいたかそうじゃないかの違いでしかないと今は思うんだよ」


「お前が空腹に気づいてないだけってことか」


「そうじゃない。むしろその逆だ。お前らが、そして今までの俺が、空腹なんて存在してないのと同じだってことに気づいてなかったんだ」


「でも俺はちゃんと腹が減るぞ」


「なら食べればいい。今の世の中、この日本ならいつでもどこでも空腹を満たす程度の量なら食べられる。こんな深夜にオムレツを作ることだってできる」


「それは金があればの話だろ」


「俺もお前も、ほとんどのやつはそのくらいの金は持ってる。それに俺たちが食に対して金を払うのは空腹じゃなくて食欲が満たされるからだ。うまいもの、珍しいものほど値段は高くなる」


「よくわかんねえよ。つまり何が言いたいんだ」


「俺はお前のオムレツをうまいと思えた。ちゃんと食欲が湧いて、それが満たされた。空腹かどうかとか、必要かどうかなんて関係ない。俺は本質的には何も変わってなかったんだ。俺が気にしなければ、俺は前とまったく同じでいられる。こんな生物としての常識を覆すような変化が起こっていてもだ」


 そう言い終えると今井はグラスに残った麦茶を飲み干した。皿の上にはもう何も乗っていない。


「俺にとってお前のオムレツはもはや自分の欲望を満たすための嗜好品でしかなかった。でもそれは人間が持っていてしかるべき感覚だったんだよ。俺は人間をやめて、初めて人間らしさに気づけたんだ」


「食欲が人間らしさってことか」


「そうだ。決して飢えることなく、欲望のままに食らい続ける。好みと量の違いがあるだけでその本質は変わらない。生きるために食べるんじゃなく、食べるために生きるのでもなく、その二つは同じ事なんだよ」


 正直今井の言っていることすべてを理解できたわけではない。でもこいつは俺に料理を作ってほしいと言った。それは立派な人間らしい欲望のように思える。何をすべきなのか、何ができるのかはわからない。だけど今井に楽しく健やかに生きてほしいと思う。体がどうなろうが関係ない。今井は今井だ。俺の友達だ。


 スプーンが皿に置かれる。金属と陶器の触れ合うカチャリという独特な音が今はやけに耳に付く。


「ごちそうさま。おいしかったよ」


 今井は立ち上がって身支度を始める。時計を見るとちょうど十二時を指している。


「おい、もう十二時だぞ」


「大丈夫だって。この体になってから睡眠時間も前の半分以下で済むようになってる」


「どうする気だよ」


「別にどうもしねえよ。食べたいときに食べたいものを食べる。それだけだ」


「そういうことじゃない。どこに行こうとしてんのか聞いてんだよ」


 今井はしばらく俺の顔を見つめていたが、いつものにやけ顔でまたクックと笑った。


「心配すんなって。路頭に迷っても餓死なんてしないから。せっかくこういう体になったんだから、しばらくは人間らしくない生活を楽しんでみようってだけだよ」


 来た時と同じように今井はさっさと玄関まで行ってしまう。開け放たれた扉の向こうから夜が入り込んでくる。このまま行かせたらもう二度と会えない、そんな気がした。


 だけどあいつを引き留めるだけの何かを俺は持っていないこともわかっていた。迷っているうちにどんどん今井は遠ざかっていく。


 まずい。闇に溶け込もうとするその背中にとっさに言葉をぶつけた。


「いつでも帰ってこい。飯作って待ってるから」


 振り返った今井の顔は暗くてよく見えない。するとあの低い笑い声が暗闇の中から響いてくる。


「またな」


 声だけ残して今井は消えた。

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