第十章 ⑤
それを聞いて数秒もの間きょとんとした悠姫だったが、五秒もすると、涙で濡れた顔を破顔させた。どうやら、俺の想いは届いてくれたらしい。
しかし、悠姫は一向に口を開こうとしない。顔を見たら、彼女がどう思ってくれているのか分かりはするのだが、やはり、何か言葉が欲しい。
そんなことを考えていた、その時。
「なっ......!?」
あろうことか、悠姫は突然立ち上がり、俺をぎゅっと抱擁した。それも、力強く、離れるために藻掻くことすら許さないほどにしっかりと。
胸にうずくまっていて銀一色に染まる頭頂部のみが見える悠姫の頭部からは、女性特有の甘い香りが漂い、俺の鼻腔をくすぐる。そして、抱擁されている身体全体は、なんとも形容し難いぬくもりに包まれた。
正直この状況は、先の告白よりも恥ずかしいものがあった。
けど。
「............今の今まで、我慢してた。魂は私だけど、これは蘭ちゃんの身体だから勝手なことはできないって。......だけど私、詩遠にそんなことを言われちゃったら、我慢、できないよ。ごめんね、蘭ちゃん。私のわがままを、赦して.........?」
俺の胸からそのような言葉が、くぐもった声を介して伝わってくる。......そんなことを涙ながらに言われては、突き放すことなんてできないじゃないか.........
紫水、どうか今日だけは許してくれないか。
そう何処かに願いながら、俺は左手を背中の方に回し悠姫を抱き寄せ、余った右手で、後頭部を優しく包み込むように撫でる。
そして、声に精一杯丸みを帯びさせて、俺は言葉を紡ぐ。
「こんな俺の告白に応えてくれてありがとう。......嬉しいよ」
すすり泣き程度だった悠姫の泣く声が、俺の言葉がトリガーになり、大きくなった。それと同時に、俺が身にまとっているワイシャツが濡れていくのが分かる。
「......私も、うれしい。本当に、夢、みたい......」
しゃくり上げてしまっているせいか、悠姫の言葉は途切れ途切れになって聞こえにくい。何なら、ホームとはそれなりに距離があるはずなのに、電車のブレーキ音にすら負けてしまうほどの声量と呂律しかなかった。
けど、そんな虫の羽音のような声でも、俺にはしっかりと聞こえてくる。本能的に分かっているのだろう。これは絶対に聞き逃してはならない、心に焼き付けておかなければならない声だということを。
......例えそれが、今日を過ぎれば忘れてしまうことであっても。
願わくば、永遠にこうしていたい。二人の心音が重なりあう度、そんなことも思った。しかし、そんなに現実は甘くない。幸せな時間というのは、一瞬で過ぎ去ってしまうものだ。
「.........そう、これは夢。夢でないといけないの」
そんな悲しい現実を口にしながら、悠姫は俺の胸の中で小さく藻掻く。離してほしいというサインなのだろう。淋しいとは思いながらも、こんなところで我儘を言っていられないと思い、俺はその指示に従う。
すると、悠姫はあっさりと俺の下から離れていった。そして、そのまま数歩歩いたと思ったら、その身体を勢いよく百八十度回転させ、こちらを向く。その目は、涙のせいで仄かに赤く充血していた。
悠姫は、そのままじっと俺を見つめる。
そして、その十秒ほど後、満面の笑みを浮かべながら、悠姫はこう言葉を紡いだ。
「私、詩遠に逢えて本当に幸せだったよ............!」
「悠姫.........」
ニィっと口角を上げ、笑って見せる悠姫。その姿は、一瞬いつも通りの姿とも思えた。しかしその笑顔は、昔から見てきたそれとは似ても似つかないものだと、俺は気づく。悠姫が浮かべるこの満面の笑みの中には、昔のものにはあった『苦しみ』や『悲しみ』といった感情が一切混じっていないということに。
悠姫は、単なる一事実として、俺に逢えて幸せだと言ってくれた、ということに.........!
今までは悠姫には見せまいと我慢していたが、そんな言葉や表情を見てしまってはもうダメだ。俺の涙腺は至極簡単に崩壊し、一滴、また一滴と、涙が止め処なく溢れ出てくる。
そんな俺の頭の中には、爆発しそうな程に様々な感情が渦巻いていた。俺は、涙でぼやける視界の中、それらの感情に従うかの如く、悠姫がしたのと同じように、数歩だけ足を進める。
そして、思い切り悠姫を抱擁した。
「えっ!? ちょっと、どうしたの詩遠」
さすがの悠姫も、俺の急なそれには動揺していた。しかし、すまないがその言葉に対しての返答をしている余裕は、今の俺にはなかった。
「.........本当は、その言葉や表情は、悠姫が生きているうちに言わせてあげないと、そしてさせてあげないといけなかったものだった。............本当に、すまない」
しゃくり上げながら、頭の中に浮かんだ様々な感情を必死に文章に変換して、震えた声で紡いだ。
それを聞いた悠姫は、呆気に取られて硬直させていた身体を動かし、先ほど俺がしたように、片手を背中に回し、もう片方の手を俺の後頭部へと回した。そして、俺を諭すように、ゆっくりと、また、しっかりと言葉を紡ぐ。
「ありがとう、詩遠。私のためにそんなことを想ってくれていたんだね。......でもね、詩遠。もうそんなことで憂うことはないんだよ。もう、自分を責めなくても、いいんだよ?」
「そんなこと.........!」
「確かに、今まで色々なことがあったかもしれない。私がここにいることも、奇跡なんて言葉じゃ足りないほどに偶然が折り重なったことかもしれない。
けど、今実際に私がここにいて、その私はこの上ないくらいに幸せ。その事実だけじゃ、ダメなのかな。それでも、詩遠は自分が赦せないのかな?
私も過去は大切なものだとは思うけど、それに囚われたまま、過去を生きるのは良くないことだと思う。
......詩遠はもう、変わったんだよ。後悔も、未練も全部吐き出せたんでしょ? なら、もう過去を向いたまま歩く必要なんて何処にもない。
それに.........」
ここで悠姫は、とびきりの溜めを作った。しかしそれは、何かの効果を期待して作ったものではないのだろう。俺を抱く悠姫の肩は震えていた。それだけで、悠姫が今どんな感情を抱いているのか、大体は分かる。
しかし俺は、そんな言葉を促すようなことはしなかった。いや、出来なかったと言った方が正しいのかもしれない。選びに選び抜いた悠姫の本当の言葉を知りたかったのだ。
じっと、悠姫のぬくもりを感じながら、延々と時が過ぎてゆくのを感じる。そして、何分が経っただろうか。一瞬とも永遠とも捉えることができる時間の後、悠姫は、ぽつりと言葉を零した。
「......それに、これ以上私に構ってたら、きっと詩遠が幸せになれなくなっちゃう」
ぐす、と鼻をすする音が、その言葉の直後に聞こえてくる。
「私はもう、十分だからさ、次は、詩遠が幸せになる番だよ」
「そ、そんなこと言ったって、悠姫は今日でもう.........」
「違うよ、詩遠の相手は私じゃない」
「.........じゃあ、誰だって言うんだ?」
「ごめん、それは私の口からは言えないの。けど、恋っていうものは、意外と身近にあるものなんだよ」
「......なんだよ、それ。俺は、悠姫と............」
「詩遠、それ以上言ったら、私もそろそろ怒るよ?」
そう言いながら、悠姫は俺の胸から少し離れ、むっとした顔で俺を睨んだ。そしてその瞬間、俺は自分がとんでもなく弱気になってしまっていることに気づいた。
まどろみから目が醒めたような感覚だった。それと同時に、夢からも醒めたように感じた。急に、目の前にいる金村悠姫という人物の存在が、遠く、遠くに感じた。
「.........しゃーねえなあ。今回は悠姫を信じてみるとするかぁ」
後頭部を軽く搔き、はにかみながらいつもの声のトーンで呟いた。するとたちまち、悠姫の顔は一切の翳りが消え、明るいものへと変わってゆく。そうだ。その顔でいい。お前にゃ、その表情が一番似合う。
バカみたいに笑って、バカみたいな話をして、バカみたいな恋情を抱いて、バカみたいに後悔をして、そして.........こんなバカみたいな奴と恋人になれてバカみたいに喜んで。
それが悠姫らしいと思いながらも、果たして、彼女の人生はこれでよかったのだろうかと疑問を抱く。それを最期に聞いてもみたかったが、敢えてそうとはしなかった。しかしそれは、返答の内容が怖かったからではない。分かりきっていたからだ。こいつなら、向日葵のように明るい笑顔を浮かべながら一言、『うん』と言ってくれると。
「んー? どうかしたの?」
覗き込むように俺を見つめる悠姫。ふにゃりとしたその顔を見ていると、なんだか今まで悩んでいた自分が馬鹿らしくも思えてきた。
「いや、何でもないよ」
ふと、天を仰いだ。傾いていた日は完全に落ち切り、代わりに、深い闇に染まる空にはぽつんと独り月が浮かんでいる。
「............そろそろ、帰ろうか」
「そうだね。帰ろうか」
時間を意識したくなかったため頑なにスマホなどで時刻を確認しなかったが、もう既に八時くらいは優に過ぎているだろう。悠姫から聞くには、紫水家の門限は九時らしい。そういうのはきっちりと守るべきだという悠姫の意志により、俺と悠姫は、そろそろ帰路に着くことにした。もちろん俺は、悠姫を紫水家まで送るという選択を取った。
広場を後にし駅構内に入ると、スーツを身に纏った社会人の姿が散見され、その波に逆らうように改札を抜け、ホームへと向かった。
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