第六章 ②

「すまん、遅くなった」


 いつも通り、それなりに年季が入っている木製の扉を軋ませながら部屋に入る。

 するとそこでは、朝出しておいた四角い天板を持つ折り畳み式の机の前で横座りをする悠姫は、なぜか物珍しそうに、あちらこちらを見渡していた。


「ううん、大丈夫だよ。.........それにしても、本当にここに来るのは久しぶりな気がするよ」


 まあ、その感想に関しては悠姫が生きていても同じだっただろうけどな。.........そして、そんなどうでもよさそうなことに対してさえ目を輝かせている悠姫を見ていると、心がチクリと痛むのを感じた。


「......さて、物色なら後で好きなだけしたらいいが、今日はなんで呼ばれたか覚えてるか?」


 ことん、と音を立てながら盆を机の上に置き、その盆からマグカップを両手にとり、俺と悠姫の目の前にそれぞれ配置した。そして、徳用のお菓子の袋を豪快に開け、中身を全部、滝のように盆へと落とす。

 悠姫はその中からビターチョコレートをピックアップして、包装紙を開けると満面の笑みを浮かべながらそれを頬張った。

 そして、それを飲み込むとほぼ同時くらいに、悠姫は口を開く。


「何か私に大事な話があるって話でしょ? そんなこと言われたら嫌でも覚えてるよ。というか、一体どうしたの? 柄でもない」

「ああ、ちょっとな......」

「え? そんなに重い話なの?」

「......」


 悠姫の言う通りなのだが、俺はここで安易に首を縦に振ることはできなかった。変に身構えられたくはないからだ。と言っても、黙ってしまっている時点でそれは肯定とさほど変わらないのだろうけど。

 ......それにしても、いつ切り出そうか。ちゃんと決意したこととはいえ、さすがに緊張するものだなぁ。

 俺は気を紛らわせると同時にのどを潤すために、マグカップを口元まで運ぶと、それをくいっと傾けて、口の中に流し込む。


「うげ......」


 しかし、配分を間違えたのだろうか。既に喉元を通り過ぎて行ったコーヒーはとてつもなく苦かった。それも、とてもじゃないけど飲んでいられないほどに。

 牛乳は持ってきたけど、コップの中の残量をもう少し減らしてから使わないとあふれてしまうだろう。.........もういいや。後で一回りくらい大きいカップに入れ替えてから飲もう。まあ、目的は喉を潤すために飲んだだけだし、別に困ることではない。

 俺はカップをテーブルに置くと同時に、ちびちびとコーヒーを啜るように飲む悠姫を一瞥した。そして、緊張を飛ばすために、小さく息を吐いた。......まあもっとも、そんなものは単なる気休めにしかならないのだが。


「あ、あのさ。......それで、話......なんだけど」

「え? あ、うん。どうぞどうぞ」


 俺の言葉に対する悠姫の態度は、少しだけ動揺していた。やはり重大な話だということを察して心構えをしていたのだろうか。あまり好ましいことではないが、察されたのならば仕方あるまい。早いこと話してしまおう。

 俺は脳の中で文章を必死に構成し、それを声に出す。


「落ち着いて聞いてほしいんだ」

「.........うん」


 いつの間にかのどに絡みついていた痰を切り、いよいよ覚悟を決める。


「......あのだな、悠姫。実は........お前は今、お前であってお前じゃないんだ」

「...............へ?」


 悠姫は、俺の言葉に対して、困惑を具現化するようにゆっくりと首を傾げた。まあ、それも無理はないだろう。俺だって、理解するのだけでそれなりに時間を要したんだし。それに、俺の今の言葉だけではそうなるのも必然的だ。


「すまん、いろいろと説明を省きすぎた。......今から詳しく話す」

「——いや、え? ちょっと待って?」


 悠姫は相当混乱しているようで、その声音は、動揺を隠しきれていない。それは生前の悠姫でも滅多に聞くことがなかったような声だった。

 そして、その言葉に続いて何かを言おうとしていた悠姫だったが、数秒言いよどんだ後、何かを諦めるように肩を竦めて、顔を気持ち下に向けてしまった。やはり、ある程度の心構えはしていたのだろうが、それでは足りなかったのだろう。というか、こんな展開を予想できるような奴は、今すぐに小説やラノベを読むのを止めた方がいい。

 と、悠姫の様子が少し落ち着いたところで、俺は話を戻そうとする。


「.........大丈夫か?」

「う、うん。ごめん。ちょっと取り乱しちゃって」


 俺の本当に少量の気遣いに対して、悠姫はしょげた顔をたちまち笑顔に変え、手をぶんぶんと振った。......でも、長年悠姫の近くにいた俺にはわかる。これは、本物の笑顔ではない。笑顔の仮面を張り付けている、作り物の笑顔だ。

 あの病室でも、よくそんな笑顔を見せていた。そんなことを勝手に思い出しては、心が痛んでくる。.........この調子でいたら、いつか俺は悠姫に本当のことを話せなくなってしまうのではないだろうか。

 ......そうなっては、今回のことに関わってくれた人たちに更に合わせる顔がなくなってしまう。だから、俺は本能的には出したがっていない声を、絞り出すように出す。


「...............悠姫、お前は、本当は去年の夏ごろに.........死んでいるんだ」


 自分でも、こんな言葉を言いたくなかった。やはり認めたくなかった。今も、少しでも気を緩めてしまえば涙が頬を伝ってしまうだろう。

 今回の言い伝えを収束させるにあたって、一番の難所はここだろうと踏んでいたが、なるほど、これは想像以上にきついかもしれない。だが、俺はこの言い伝えを収束させる責任がある。こんなところで弱音を吐いている場合ではない。

 こくり、と固唾を呑みながら悠姫の返答を待つ。その時間は、永遠のようにも感じられた。しかし、本当に経過した時間は五秒にも満たない。......悠姫は、まるで鳩が豆鉄砲を食ったような唖然とも困惑とも取れそうな表情を浮かべながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「.......えっと、急にどうしたの? 詩遠」


 悠姫が持っていた、本来は口へと運ばれていく途中であったであろうマグカップは、内容量を減らすことのないまま、コトンと小さな音を立ててテーブルへと置かれた。

 そんな悠姫の声音は、ほんの少しだけ低かった。まるで、俺の何かを探っているかのように。微かにだが、その目は震えていたようにも見えた。


「金村悠姫、享年十六歳。昨年二〇一九年八月十日午前五時五十二分に総合病院にて息を引き取った。死因は先天性の心疾患の悪化によるもの」


 俺は、覚えていたくもなかったが、いやというほど聞いてしまったが故に脳に焼き付いてしまっているそんな記憶を、さも一般常識を語るかのように淡々と告げる。

 対する悠姫の反応はいかに。.........っていうか、これでだめだったらどうやって信じさせようか。正直時間があまりなくて考え切れていない。

 そう少し不安を覚えながらも、それは顔に出さないようにしながら、悠姫の様子を見た。


「............冗談、だ、よね? ねぇ、詩遠。いきなり何を言い出すの? 私が死んだって、そんなわけ、ない.........じゃん。ねぇ、何とか言ってよ!」


 すると、悠姫は俺に視線を向けられたことに気が付いたのか、口数がいつもよりも少なく落ち着いていたさっきとは違い、自らの感情を爆発させた。

 しかし、悠姫の反応は至極当然の反応で、いきなり本当は自分は死んでいるなんて言われて冷静に判断できるような奴は、誇張なしでこの世に誰もいないと思う。

 けど俺も、そんな悠姫を黙ってみているわけにもいかない。


「.........冗談、か。冗談なら、どれだけよかったことか............!」

「......ちょ、ちょっと。詩遠? どうしたの? 急に泣き出したりして。.........どうせまた、ドッキリでしたー、とか言って、蘭ちゃんも出てきて、いつも通りまた部活をするんだよね? .........ね?」


 最後の最後で弱々しくなるそんな言葉は、俺をなんともやるせない気分にさせる。.........本当、そんなことだったら、どれだけよかったことか。

 なぜだろう。悠姫の前では出さまいと思っていた涙が止まらない。視界がぼやける。今悠姫がどんな表情をしているのか、分からない。これじゃあ、だめだ。早く悠姫の表情や言動から次の行動に移さないと......

 必死に、目からあふれ出る涙をぬぐった。グレー色だった部屋着の袖は、すぐに黒くなっていっていた。


「............なぁ、悠姫。俺の、この涙は、偽物だと、思うか」


 依然として涙が止まらず、途切れ途切れの言葉で、悠姫に問いかける。

 俺は悠姫の方を見るも、ぼやける視界では、どのような顔をしているのか、やはりわからない。ならば、言葉を待つのみだ。

 そして、ほんの少し出てくる涙が収まってきたかと感じてきたとき、覇気のない声が、正面から聞こえた。


「.........う、うぅ。...............な、なら、今私は、なんでここにいるの.........?」


 その言葉は多分、俺の涙を信じた半分、でもやっぱりこんなことを信じられないのを半分、といった感じなのだろう。もちろん、悠姫を烏汰さんの所へ連れていくには、自分ですら半信半疑な環姓の言い伝えなど、そこら辺のこともすべて話しておかないといけない。

 けど、その話をする前に、とりあえず、今自分がどういう状態なのかというのを感覚的に分かってもらっておいたほうが、多分言い伝えを信じてもらいやすい。


「少し、着いてきてくれ」


 俺はそう言いながら立ち上がり、少ししびれる足を動かして悠姫の真横に立つ。そして、悠姫に有無も言わせず手を引いて立ち上がらせ、そのまま俺の部屋を出た。

 悠姫が今紫水の体に魂が宿っているということを信じさせるのに、一番手っ取り早い方法をなぜだか忘れていた。それは何か。

 ........本当に簡単なことだ。悠姫に自分の今の姿を見せてやればいい。

 そうすれば、信じたくなくとも信じないといけない状況になるだろう。

 しかし、それならなぜ今まで自分が紫水の身体に宿っているということに気が付かなかったのかと疑問に思ったりもするが、きっとそれは、悠姫が学校で日常生活ができていたことと同じような原理なのだろう。無意識のうちに、この身体はもともと自分のものだと思い込んでいた。ただそれだけに過ぎない。

 その上で、俺は悠姫が何者かの身体に宿っていると悠姫に言い聞かせて、自らの現在の姿を見せれば、きっと理解することだろう。俺はそう仮説を立て、それを信じた。

 というか、これが不可能だった場合、もう悠姫に環姓の言い伝えを信じさせるのは不可能に等しい。だからこれが、事実上の最終手段ということになる。

 というわけで俺は、少しばかりの緊張を感じながら、三面鏡のある洗面所へと向かう。本当は全身を見せれれば尚のことよかったのだが、生憎うちには姿見鏡なんてものは存在しない。スマホなんかで写真に残すというのも考えたが、それでは何らかの加工が疑われる可能性もないとは言い切れない。結局、自分の目で確認してもらうのが一番なのだ。

 俺と悠姫は、一言も言葉を交わさず、もくもくと歩く。それはさながら、死刑囚を連れ歩く教官のような気分であった。

 そんなことを考えているうちに、十秒程度で洗面所へと到着する。

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