第一章 ⑥

「なあ紫水、やっぱりもうやめにしないか。それか、せめて手袋越しにしてくれないか.....」


 俺は隣を歩く紫水に、何とも情けない声でそう頼んだ。正門をくぐってから早十分。時間が経てばこの恥ずかしさも消えていくだろうと楽観的に考えていたのだが、そんなことは決してなく、むしろ、時間が経つにつれてだんだんと恥ずかしさが増してきた。

 この時間帯だともう同じ学校の奴が歩いていないことが不幸中の幸いだけど、それでも周囲を行く人々に見られるのは恥ずかしくて仕方がない。......よくどこでも手をつなぐバカップルを馬鹿にしていたけど、今回のことで少し考えが改まった。あいつらメンタル強すぎる。そこだけは尊敬するわ。


「......もし陽星の奴がこれ見てたらどうすんだよ。一緒に歩くだけならともかく、手をつなぐのはまずいだろう?」


 そして、そんなモノローグを挟んでもなお、紫水は手を離さなかった。

 そろそろ謝り倒して手を離してもらうことも視野に入れなければいけないが、そんなことをしては俺の尊厳がすべてなくなってしまいかねない。......まあ、元からあってないようなものなのだろうけど。

 だから、できるだけ自然な形で手を離してほしいんだけどなぁ。


「この時間帯にはもう誰も歩いてないですよ。それに、これだけ暗かったらどういう状態なのか分からないでしょうし」


 しかし、紫水は引き下がる様子はないようで。

 いやまあ、紫水の言っていることはもっともなんだけどさ。

 .........うぅむ、そうこうしている間に、ファミレスの看板が見えてきたぞ。

 外はともかく、今から俺たちが行こうとしているファミレスはうちの生徒御用達の場所だから、もしかしたら部活帰りの奴がいるかもしれない。

 流石に、まずいよなあ。

 そろそろ、頼んでみるか。


「あのだな、紫水。.........お願いだ。手を離してくれ」

「......先輩は、そんなに私と手をつなぐのが嫌なんですか」


 抑揚がない声で、紫水はそう返してくる。


「い、嫌とかそういうのじゃないけどさ。.........ほら、紫水も俺なんかと付き合ってるとか噂になったら嫌だろ?」

「......論点をずらさないでください。.........それに私は——」


 店の自動ドアが開くと同時に、カラカラと、入店を知らせるベルが鳴る。

 そして、それと同時に、店員の「いらっしゃいませ」という元気な声が聞こえた。


「——私は、............」


 店員と人数の確認をしていたほんの数秒間のうちに、わざと被せているのかと疑いたくなるようなタイミングで、隣から声が聞こえた。

 声の主はもちろん紫水。......しかし、何を言っていたのかはほとんど聞き取れなかった。

 かろうじて私は、という声は聞き取れたが、肝心の内容が全く分からない。

 少しもやもやとする頭の中、俺の後ろにちょこんとついている紫水は突然として俺の手袋の中から手を抜き、俺よりも先に席を案内する店員のあとをついて行っていた

 ......いろいろなことがありすぎて、何が何だか理解できていない。

 俺は小さく溜息を吐きながら、コートを脱ぎ、手袋をはずし、おもむろに手を広げてそれを見つめた。その手のひらは、恥ずかしさでまみれていた俺の顔と同じくらい赤みがかっていた。



「では、ご注文がお決まりになられましたら、そちらのベルを鳴らしてお呼びください」


 先に座っていた紫水に続くように案内された席に座ると、店員は待っていたかのようにそうとだけ言い残し、そそくさと去っていった。


「.........えっと、とりあえず好きなもの頼んでもらって構わないから」


 紫水は俺のそんな言葉に対して、静かにこくりと頷いた。

 その後、俺と紫水の間には、なんとも形容しがたい妙な空気が流れた。......しいて言うなら、ぎこちないという言葉が一番似合うだろう。

 俺は初めに出された水を、喉を湿らせるために一口飲む。

 そして、分かりやすく咳払いをしてから、口をゆっくりと開いた。


「なあ紫水。ちょっと聞きたいことがいくつかあるんだけど、いいか?」

「センシティブなものでなければいいですよ」

「......お前は俺をなんだと思っているんだ。そんなんじゃないから。......それでだな。単刀直入に聞くけど、今日の紫水のふるまいがいつもと違うように見えたんだが、何かあるのか?」

「先輩、そういう質問が俗にいうセンシティブなものなのですよ。まあ、女性と会話することが少ない先輩には分からないでしょうけど」

「......っ、お前な、事実でも言っていいことと悪いことがあるだろうが。というか、そういうところだよ。いつもの紫水ならきっとそんなことは言わなかったと思うんだが」


 俺が半分呆れながら言うと、紫水はなぜかくすくすと笑いだした。急なことで何を笑っているのか見当もつかなかったが、自分で理解する前に、紫水は言葉を紡いだ。


「先輩って、普段から私のことを見ててくれたんですね」

「そんな大げさな。.........というか、どういうことだ?」

「ごめんなさい。実はですね、私、今日少しだけキャラを作っていたんです」

「まあ、そうだろうな。手を一向に離そうとしなかったし」

「あれは先輩から誘ってきたんじゃないですか」

「............。とにかく、なんでそんなことを?」

「えっと、そのですね。私なんかでも、悠姫先輩の代わりになれればいいなーと思って、ちょっと試してみたんです」

「えーと............つまり、どういうことだ?」

「先輩、学校で言っていたじゃないですか。このファミレスに来て先輩の中にいる悠姫先輩と別れるって。......でも、先輩って寂しがりやじゃないですか。だから、その、少しの間だけでも、私が悠姫先輩の代わりを演じてみようかなって」


 言ってる途中で恥ずかしくなったのか、終わりに向かうにつれて、だんだん声が小さくなっていった。......しかし、紫水がそんなことを考えていたとは、俺は恵まれているとつくづく思う。......けどな、紫水。それは少しだけ間違っているぞ。


「その気持ちはとてもありがたい。けどな、やるんだったら徹底的にやれ。まず、あいつは手が冷たいときは延々と手に息を吐きかける。そして、もし俺が手を繋ぐことを提案しても、『もー、からかわないでよ』とか言って終わる。.........まあ、今年あいつと知り合った紫水はそんなことを知らなくて当たり前なんだけどさ」

「先輩って、本当に悠姫先輩のことが好きなんですね」


 紫水は優し気な微笑みを浮かべながら、そしてほんの少しだけ呆れながらそう言う。


「ああ、大好きだよ。でも、俺は紫水のことだって大好きだ。何気ない場面で支えてくれたり、それこそ、今日みたいな気遣いをしてくれたり。......でも、それは気持ちだけで十分なんだ。だって、俺は悠姫の代用として紫水が好きなわけじゃないんだから。

 だから、いつも通りにしていてくれ。それだけで俺は十分嬉しい。.........まあ、たまには今日みたいなのも悪くはないけどな。はは」


 俺はそう言いながら笑いかけると、コップに入っていた水を飲みほした。これだけのことを一気に話したから喉が渇いたというのもあるが、何より、今俺が抱えている羞恥心をごまかしたかったからだ。


「先輩............私、トリカブト研に入って良かったです」


 十数秒経ち、そう言いながら紫水が見せたのは、右目から零れる大きな珠だった。俺は紫水の急な涙に驚いたもの、紫水が微笑を浮かべていることもあり、優しく見守ってみることにした。


「実は私、悠姫先輩が亡くなった後、この部活を辞めるか悩んでいたんです」

「え、そうなのか」

「はい。正直に言うと、私がこの部活にいていいか分からなかったんです。悠姫先輩と先輩の後ろを歩いていただけの私が、果たしてこの部活にふさわしいのか、と」

「そんなこと、考えてたのか。.........気を利かせられなくてごめんな」

「先輩が謝ることじゃないです。それに、あの時は私も先輩も心の余裕がなかったでしょうし。......それでですね。結局この部活に残ることにしたのは、生前に悠姫先輩が言った言葉を守ろうとしたから、なんです」

「悠姫が言った言葉......?」

「ええ。悠姫先輩が亡くなるほんの数日前。突然悠姫先輩はこう言ったんです。

『詩遠を頼んだよ』って。『きっと私が死んじゃったら、寂しがりやな詩遠は悲しむだろうから』って。私は、それを守りたかった。この部活の部員であるために」

「紫水...............」

「ねえ、先輩。私は、先輩の隣を歩けていますか? 紫水蘭という一人の部員として、歩けていますか?」

「.........当たり前だろ。というか、いつまでも悠姫のマネごとだけじゃ困る。何なら、こっちから頭を下げてやるさ。紫水蘭として、これからも一緒にトリカブト研を支えてくれ。頼む......!」

「ふふ、やっぱり、先輩は寂しがり屋さんなんですね」

「ちょっ、ここでそれを言うか?」

「冗談ですよ。.........でも、良かったあ。私、普段から少し不安に思っていたんです。もしかしたら、私はこの部活に不要なのではないかと。けど、先輩がそういうなら、これからも、よろしくお願いしますね?」

「ああ、もちろんだ。少なくともお前が卒業するまでは、俺もお前の隣を歩いてやるよ」


 少々重い話ではあったが、最終的には二人の間には笑顔が生まれた。けど、それはただの笑顔ではなくて、それぞれが、トリカブト研やその部員に対する想いを背負った、覚悟を決めた笑顔であった。


「それでは先輩、今日はいろいろとありがとうございました」

「こっちこそ、ありがとうな」


 そう別れの挨拶を済ませると紫水は、手をひらひらと振りながら電車を後にした。

 俺も小さく振り返す。......なんだか恥ずかしいなこれ。またもや羞恥心を抱えて顔が火照ってきたような気がするが......きっと電車の中の空調のせいだよな。うん。そんな一日に何回も羞恥心を感じてたまるかってんだ。

 そして紫水がホームから見えなくなると、俺は大きく息を吐いた。そしてそれと同時に、普段考えないようなことを考えたせいだろう。今までに感じたことのないような疲れが俺を襲う。

 今は帰宅ラッシュにはまだ早い時間帯で、電車の中の席は割と空いていた。

 そこまで距離はないのでいつも電車内では立っている俺だが、今日は何かを背もたれにしないとやっていけなさそうだ。

 というわけで、開いている場所へと腰を下ろす。そして、一息ついたところで、俺は今日はこういった機会が作れてよかったと改めて思った。

 別に今日が何かの節目とかそういうわけじゃないけど、ただでさえ素直に感謝の気持ちを伝えることができない俺が、日常の中でさりげなく礼を言うなんてできない。

 だからたまにはこうやってじっくりと話をするのも悪くないかな、なんて思ってみたりもする。俺が独り小さく笑うと、電車はゆっくりと動き出した。

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