屋台でハロウィン

いちご

第1話 袖振り合うも他生の縁

 ふわふわとした足取りでどこをどう歩いたか全く覚えがないが、目の間に赤い提灯が誘うように揺れている。

 ハロウィンに浮かれた若者たちが仮装に興じ、いつもよりも人気の多い通りから逃げるように一本か二本路地へと入った所までは記憶にあった。

 ビルとビルの隙間をいい気分で進み辿り着いた空き地にぽつりと現れたひとつの屋台に一瞬驚いて歩みを止めたのが数分前。


 提灯と同じ色をした長い暖簾が座っている者の身体半分を隠しているが、その粗末な長椅子に腰かけている影が三つある。

 そして温かな湯気と出汁のいい匂いが空気中に漂い「美味しそう」と呟いた途端にビルの隙間風がぴゅうっと吹き抜けて身を震わせた。


 必ず朝見るニュースの天気予報で本格的な寒さは週明けからといっていたから油断して、上着を持ってきていないことを悔やみながら誘惑に抗えずに鼻をひくつかせる。


「おでん……かな?」


 醤油と出汁の中に結び昆布と練り物からでた旨味も加わって、良く染みた大根と熱々の卵にはふはふと齧り付くさまを想像して思わず溢れた涎を拭うと意を決して屋台へと近づいた。


 少しだけあるヒールは履き慣れたものなのに、踏み出した途端に足裏と脹脛にじんっと痺れたような痛みが走り随分と長い距離を歩いたかもしれないと思わせる。

 それでも目の前にある温かそうな屋台の長椅子に腰かければ寒さからも、疲れからも抜け出せるだろうと赤い暖簾を跳ね上げて中へと入った。


「おや――――、一見さんとは珍しい」


 前歯の欠けた痩せた老人が驚いた様にこちらを見た後で微笑んだ。

 いらっしゃいというよりも先に「一見さん」と呼ばれては座ることができずに躊躇っていると、一番右端にいた着物姿の美しい女性が嬉しそうに自分の左隣の緑色の服を着た男を押し退けてここへ座りなさいなと呼んでくれた。


「すみません、ありがとうございます」


 礼を言って開けてもらった場所へと座り込むと、女性は艶やかに笑んで「いいのよ」と掌をひらひらとさせる。


「なににするね?」

「あ、えっと大根と卵とあとは適当にお勧めを」

「あいよ」


 問いかけてきたのは歯の欠けた老人で、彼はカウンターの向こう側にいるからこの店の主だろう。

 手際よく深皿に大根と卵を入れると、白滝と練り物と厚揚げを入れて出してくれる。

 濛々と上がる湯気が堪らなく美味しそうで、皿を両手で受け止めてそのまま鼻先へと運びうっとりと匂いを堪能する。


 たったそれだけで冷えた身体が温まった気がするのだから現金なものだ。


「ほら、箸」


 隣の緑色の服の男性が素っ気無い口調で割り箸を突き出してくるのでありがたく頂戴し、皿を置いて合唱すると親指の付け根に挟んだ箸を割って出汁を吸って茶色くなった大根を掴んで吹き冷ます。


「ふぅ、はああ、あっち!」


 良く吹き冷ましても長いこと温められていた大根はそう簡単には冷めたりはしない。

 だがおでんの醍醐味は熱い熱いといいながら食べることであると父からの教えとして伝えられているので、それすら美味しく食べるための手法として楽しむ。

 一頻りおでんを味わっていると足先まで熱が行き届いて、ほんの少し余裕が出てきた。


 ちらりと右横を見ると着物姿の美しい人は艶やかな黒髪を耳にかけて、木匙で掬った赤く熟れた果実を口に含んでいる所だった。


 その仕草の色っぽいこと!


 女同士ですらドキドキするのだから、男性であればさぞや堪らんだろうと他の客へと目をやってぎょっと目を剥いた。


「―――――!?」


 驚きに腰を浮かせたが、人が三人腰かけている長椅子はびくともしない。


 そのせいで前のカウンターにしこたま鳩尾を打ち付けて、前の店で散々飲んだビールがせり上がってきそうになって口を押えて悶える。


「ちょっと、大丈夫?」


 心配そうな声と共に氷のような手が肩の上に乗り「ひぃ!」と喉の奥で悲鳴を上げて振り払うように身を捩ると左隣にいた緑の男の腕に背中がぶつかった。


「なんだよ、騒々しい奴だな」


 苛立った声が少し湿った響きを乗せて聞こえ「すみません」と謝りながら視線を向けた先に尖った唇が目に入る。


 否。

 唇では無く嘴だ――――。


 ギョロギョロとした眼が不躾なほど注がれているが、身を硬くしながら「す、すみ、すみま」と謝罪の言葉を上手く返せずにしどろもどろになる。


 男は嘴の先と頬を歪めて手にした杯を傾けているが、その杯が普通ならば頭の上に乗っていなければならないものであることを指摘した方がいいのか、それともスルーした方がいいのか困り結局好奇心が勝ったのはきっと酔っているせいだろう。


「あの……それは本来大切なもので、常に湿らせていなければならないものでは無いんですか?」


 おずおずと話しかけてきたことを男は目を瞬いて見せることで驚きを表現すると、にやりと相好を崩して突然笑った。


「恐がらねえんだな、お前」

「恐がるって、だって、それ仮装でしょ?」


 下手な言い訳をしなければ自分が迷い込んだ屋台が奇妙奇天烈であることを認めなくてはならない。


 そんなこと断じて認める訳にはいかない。


 緑色の肌の質感や指の股にある水掻きや、爪の尖りまで実にリアルに再現してあることを褒め称えなければならない。


 本物のように動く嘴の出来や、今や杯として使用されている皿のあった場所が生々しく窪んでいる頭皮の感じも顔に張り付いている落ち武者のような髪型も全てよくできた仮装だと言い張らねばならないのだ。


「仮装……ねえ」

「あはは、いいじゃない。それ」


 隣の異様に手の冷たい美女が楽しげに声を立てて笑い、それならそういうことにしようかと乗ってくる。


 ほっと胸を撫で下ろしながら酔いが醒めるのを恐れて、なにかアルコールをと頼めばグラスになみなみと注がれた日本酒が出てきた。


 普段はビールとワインくらいしか呑まないが、この際雰囲気にのまれて日本酒を呑んでしまえとグラスを掴んで口にすると舌の奥がピリッと刺激を受けるほどの辛みを残して喉の奥を通り過ぎていった。


 ほんのりと後から米の香りと甘みが舌の上に漂ったが、それもすぐに消え物足りない気がして二口目を嚥下する。


「……意外と美味しい」


 身体が腹の中から温まってきて、頬に熱が集まってくるのを感じた。


 今までおっさんの飲み物だと敬遠していたが、キリリとした飲み口のこの日本酒はビールを何杯も飲むより胃の中が軽く爽快だ。


「燗つけたらもっといい」

「熱燗のこと、ですよね……?」


 旨そうに酒を舐めている河童の仮装をした男が熱く燗つけた方が美味しいというのだから少々心配になって皿の杯を見つめる。


 河童の命ともいえる頭の皿は乾いてしまったら力が失われるとか、半減するとかそういった伝承が残っていた気がする。


 それなのに熱い液体を注いで――――いや、みなまでいいますまい。


 これは仮装なのだ。

 本物ではない。


 だから大丈夫。


「私は冷酒の方が好みなんだけれど」


 うふっと笑って硝子でできた銚子から硝子の猪口に手酌して、酒で温もっているはずの吐息を洩らしたが、美女の唇から漏れ出てくる呼気はまるで冷蔵庫――否、冷凍庫の冷気のように冷たい。


「……お姉さんは、雪女ですか?」

「そうよ」


 首肯して白い着物を着た女性は赤い実を匙で潰してぱくりと食べる。


 そして口にしている赤い実よりも数倍赤く誘うように弧を描く雪女の微笑みに、ごくりと喉を鳴らせば「あら?あなたも食べたいの?」と手にした器をこちらへと押してきた。


「え?いや、そういうわけじゃ……いえ、いただきます」


 同性ながら胸をときめかせていましたとは言えずに、差し出された器を押し頂いて素直に料理と向き合うことにする。


 誉められたことではないが生来からの気性で、こと食べ物に対しては意地汚い。

 あまり美味しそうに食べていたのでなにを食していたか気にはなっていた。


「これ――――トマト、ですか?」


 丸ごとのトマトは半分ほど匙で崩されており、よくよく見れば湯むきされている。出汁のようなものに浸されたトマトは突くと柔らかく簡単にその姿を変容させた。

 にこにこと微笑んだまま視線で促され、匙で掬って出汁ごと口に入れる。


「う、ん?」


 出汁はどうやらおでんと同じ物らしく、さっき食べた大根たちと同じ味がした。

 だが全く別物になっていることに驚きまじまじとトマトの入った皿を見つめる。


「なに、これ……」


 甘さと酸っぱさが絶妙に出汁と混じり合い、柔らかな食感と共に不可思議なハーモニーを醸し出していた。


 そして鼻の奥を通り過ぎて行く柑橘系の匂いと香辛料の刺激。


「美味しい?」

「―――はい」

「よかった」


 すっかり生温くなってしまっているトマトのおでんは、熱々だったらもっと美味しかっただろう。

 だが寒い所が住処である彼女にはこれでも熱いのかもしれない。


「すみません。御馳走様でした」


 二口ほど堪能した後で皿を戻すと「全部食べてもよかったのに」といいながらトマトを解して食べ始める。


「ほっほっほ。今日はいつもより会話が弾んで楽しいのう」


 大きな身体を揺すって笑う姿に、今まで何故気づかなかったのかと自分の無能を呪いながら一番左端に陣取っていた人物に視線を向けた。

 会話が弾んで楽しいと言いながら今まで黙っていた癖に良くいう。この寒い中上半身裸で丸々と突き出た腹がピカピカと光っている。


 しかも腹だけではない。

 頭部の方もつるぴかで、どうにもやばい系の匂いがする。


 きっと、堅気じゃない。


 柔和な笑みを浮かべているが、その足元に置かれている大きな白い袋の中にきっと白い粉や鉛の弾が飛び出すものや札束が入っているに違いない。

 もしかしたら死体とか入っているかもしれないと想像するとぞっとする。


「布袋の旦那、どうも誤解されているみたいですよ」


 主である老人がふくふくした肉体の男の方に身を寄せて苦笑いしながら耳打ちしていた。

 いわゆる福耳といわれる耳をした巨躯の男はわっはっはっ!と大声で笑い、全身を使って愉快さをアピールしてくるがその圧力が半端無くて引く。


 普通に引く。


 怒らせてしまっただろうかと怯えていると、緑色の男がちらりとこちらを流し見て片頬を歪ませて笑った。


「俺を恐がらないのに、どうして福の神を怖がるのか――最近の若い奴は理解に苦しむ」

「恐がっているのではなくて畏れているのよ。きっと」

「たいして変わらん」

「あら、違うわよ。恐怖と畏怖は全く違うわ」

「どちらにせよ、俺もお前も恐れられる対象だろうが」


 間に挟まれたままで軽口の応酬をされている。


 左に河童、右に雪女という非常識な状況で酒の入ったグラスを飲み干せば意識は酩酊して現実を曖昧にさせた。

 布袋と呼ばれたのだから、左端のつるつるはきっと日本人にも馴染み深い七福神のひとりでいらっしゃる布袋さまなのだろう。


 ならばきっとその大きな袋の中身が犯罪まがいの代物である可能性はない。

 きっと、ないはず。


 断じて危険はない!


 逆に両隣に座っている二人の方が危険な気がする。

 河で泳いでいる子供の尻から手を突っ込んで元気を失わせる河童と雪山で男を惑わし生気を奪う雪女。

 まだ「相撲しようぜ」なんて無邪気な童ならば可愛いが、左隣りにいるのは立派に成人した河童さまだ。


 正直勝てる気がしない。


「あれ?勝ったら死ぬんだったっけ?負けたら死ぬんだっけ?」


 河童と相撲をとった際に勝つか、負けるかで死を賜るらしいことは覚えているがどちらが正解かまでは思い出せない。


「なんの話だ?」


 胡乱な声で囁かれぶるりと身震いすると「いえ、こっちの話で」と誤魔化すが、勝ち負けの単語だけでなんのことかは察しているようだ。


 雪女はまだ同性なので、大丈夫だろう。

 さすがに女の生気など吸わないはず。


 ちらりと視線を移すと何故かこちらを艶めかしい瞳で見つめているから「ひっ」とまたしても情けない声を上げてしまう。


 またしても魑魅魍魎の世界に紛れ込んでしまったことに気付かされそうになり、慌てて主に日本酒を注文して浴びるように呑んだ。


 もう、記憶が飛んでしまえばいいと思いながら呑んだが、途中で正気を失ってしまえばどうなるのかと気づいてしまい中途半端に酔いどれながらとめどないことを話していた。


 恋愛の話や、仕事の愚痴、それから子供の頃の話になってどこの出身かという話に自然な流れで行きついた。布袋さまが中国の浙江省という所だと聞いて嫌にリアルで恐くなったので隣の緑の河童仮装の男に問う。


「俺は大分県の中津にある耶馬溪だ」

「大分県……温泉のイメージしかない」


 なのに河童?と首を傾げれば雪女が「中津はからあげが有名よ」とプチ情報を教えてくれる。

 美味しいものには目が無いことは自負しているので大分県の中津はからあげ美味いとしかと脳裏に刻みつけた。

 寝てしまった後で思い出せなかったらかなり悔しいのでそれはもう念入りに。


「お姉さんは?」

「私は山形出身よ」

「山形!さくらんぼ美味しいですよね!」

「あと芋煮会もね」

「参加した~い!」

「……山形は普通にいなごも食うぞ」


 きゃっきゃっと燥いでいると横から虫の話をされて青ざめる。


「ひっ!?」

「もう!せっかく山形談議で盛り上がってるのに水を差さないで頂戴」

「ああ、すまねぇな。俺は河童だからよ?」

「なにそれ?女子トークで盛り上がってるのが気に入らないだけでしょ?」

「は?女子って歳かよ!」

「なによ!」

「なんだ?やんのか、ババア!」


 吹き荒れる雪嵐と水飛沫の中で折角温まったのに心身ともに冷え込んでしまう。

 お願いだから間にいるのは普通の人間なので言い争うは止めてもらいたい。


 恐怖で浮かんできた涙も鼻水も凍って、ただひたすらに震え上がっていると「なんだ、また小競り合い起きてんのな」と朗らかな声と共に汗が噴き出るほどの熱気が齎された。


 すぐ背後に。


「うわーい!温かーい!」


 これぞ天の助けと近くにあった温もりに飛びつき、すりすりと頬を摺り寄せると狼狽えて硬直する気配がする。


 柔らかい天鵞絨のような感触と熱湯を入れたばかりの湯たんぽのような熱さが心地よくて吐息を洩らせば「止めろっ!」と両肩を柔らかい肉球が押し返してきた。


「ん――――?肉球?」


 ふと不思議に思い面を上げると滑々とした毛並みの肉体の上に乗っかっているのは猫の顔。


「なんで?」


 首を傾げると同じ方向に首を傾ける黒猫。


 湯気とおでんの匂いにそよぐ髭があまりにも可愛くてそっと手を伸べて引っ張ると、丸々とした目を細めて口元を歪める。

 その隙間から見える尖った牙は紛い物では無く、猛々しく獲物を食い千切る力を持った本物だとこの距離ならば見間違いようがない。


「おい、なんで人間がいるんだ」

「どうも迷い込んだらしいの」


 腹の奥で増幅される布袋さまの声は深みがあって耳心地はいいが、大きすぎるのが困りものである。


「だって、仮装でしょ?ハロウィンだもの」

「…………酔ってんのか?」

「相当呑んではおるが、どうかの?」

「酔ってませんよ、失礼な」

「…………酔っぱらいはみなそういう」


 呆れ顔の猫など特殊メイクでも再現できないだろう。


 この温もりも、手触りも、匂いも全て酔っているからでは片付けられないのも解っているが、それを口にするほどの度胸もなかった。


「腹減ってんのになぁー……」


 恨めしそうに呟いて、しがみ付いているこちらを見下ろしてくる。


 とっくの昔に両サイドで起っていた諍いが鎮火しているのは知っているが、なんともいえない猫の柔らかな腹の和毛から離れがたいのだ。


「席も埋まってるから、ひとまずこいつを送り届けてくるわ」

「そうしてやってくれるかい?」


 老人がすまなそうに片手で拝んでくるのを見て「やだ、まだ帰らない」と駄々をこねる。

 こんなに楽しくて、酒もおでんも美味しい屋台から追い出されそうになっていることに腹すら立てる。


「お前みたいなのが紛れ込んでたら、そわそわするんだよ」

「お隣同士のよしみで仲良くしようって奴らは少ない」


 黒猫と河童に諭されたが、この世界では異物で目障りだから出て行けといわれても素直に帰りたくはなかった。


「だってご主人の作るおでんもお酒も美味しかったし、お姉さんも優しくて」


 雪女は解っているといいたげに微笑むと小さく頷いて、不機嫌そうな顔をして皿で酒を飲んでいる河童もくだらない会話につきあってくれていたから。


「河童さんとも少し仲良くなれたし、布袋さまだって楽しい人だって解ったし」

「おいおい、仮にも神さまだぞ」


 律儀に河童は突っ込みさえしてくれる。

 いや、突っ込みでは無く不敬であると注意されたのか?


 どうでもいい。

 とにかく。


「もう二度と会えないなら、もう少し一緒にいたいんだよ」


 別れがたいと思ってしまったから。

 帰りたくないのだ。


 酒は全ての感情の箍を簡単に外してしまう。


 そして両目から溢れる感情の波の奔流に乱されて、子供のように泣き叫んでいると「しょうがねえな」と黒猫が譲歩してあっという間にその身を小さくさせて。


 気付けば腕の中に収まっている黒い猫。

 勿論普通サイズ。


 もうしがみ付けないが、腕の中の猫は小さくて、柔らかくて、温かい。


「さっさと座れ」


 横柄な口調で椅子へと促されておとなしく座る。

 膝の上の猫が老人に練り物を注文する様子を興味深く観察し、差し出されたおでんが常温のものだったので尚感心する。


「常連なんだ?」

「ここは一見さんお断りだからな」

「……すみません」


 当然だろうといいたげに猫から返答されてしおしおと項垂れる。


「はいどうぞ」

「悪いな」


 右隣から差し出された冷酒の猪口に顔を近づけて舌を使って呑む姿が非常に愛らしい。


 喉を鳴らして旨そうに目を細めて呑んでいるのが水では無く、日本酒であるということが非常に意外だが悪くなかった。


「彼女をここに座らせたのは私だから」

「……軽率だな」

「でも、ここ以外の場所ならこんな美味しそうな子すぐに食べられちゃってたわよ」

「違いない」


 雪女と黒猫の会話は物騒で愉快なものでは無かったから、右から左へと流して聞かなかったことにする。


「迷い込んだ先がここで良かったのう」


 矍鑠と笑う布袋さまとそれに渋面で「迷惑極まりない」と答える河童。

 そして老人が前歯の欠けた歯をちらりと見せて苦笑い。


「人間さまではこちらの通貨は持っていないだろうから、払っていただけないだろうな……働けど働けど、暮らしは楽にならん」

「さすがの能力だな、親父」


 黒猫が膝の上で楽しそうに笑う声を聞きながら、ぽかぽかと温かくて目蓋がだんだん重くなってくる。


 雪女の冷たい手がそっと熱い頬に触れて冷ましてくれたが、黒猫の温もりの方が断然強くて抗えない。


「あーあ……楽しかったなぁ……」


 肘を滑らせてカウンターに突っ伏す形になると、緑色の手がさっと皿やコップを退けてくれる。


 柔らかい肉球が顎の先に当てられて「さっさと寝てしまえ」とぶつくさ言っているが、まだこの時間を味わいたいのだと返したがそれが言葉として伝わったかどうかは解らない。


 一回来たんだからもう一見さんじゃないよね……。


 だけれどこの屋台への道順を覚えていないからきっともう辿り着けない。


 歯の欠けた老人が営む屋台には綺麗な雪女や無愛想な河童と福の神がいて、そして温かい黒猫がいる。


 迷い込んだ人間をどうしようかと悩みながらも、一緒に酒を呑み交わして時間を過ごしてくれた彼らはハロウィンの仮装をして楽しんでいる人間たちよりも余程情があつい気がした。


 本当は怖がらなければならない存在の彼らは優しくて、温かかった。


 それが嬉しくて「ありがとう」と呟けば、空気が和らいで別れを惜しんでくれているような気配がする。


 だめだ、眠い。

 こんなことなら沢山お酒を呑むんじゃなかった。


 後悔先に立たず。

 でもさ、しょうがないよね?


 あんな状況じゃ呑まなきゃやってらんないんだし。

 素面じゃ妖怪と席を一緒にしようだなんて思わないさ。


 袖振り合うも多生の縁っていうから、きっと古くからの縁があったに違いない。


 ならきっと、また会える?

 偶然じゃないなら。

 これが縁なら、きっと。


 じゃあ、大丈夫かな?








「――――ぱい、先輩!起きて下さいよ!せんぱぁい!」


 激しく揺さぶられて脳が撹拌される。

 脳だけじゃなく胃までもが容赦なく掻き回されて嘔吐感が半端無い。


「ちょ、やめ!――――おぅえええ!!」

「うわぁああ!先輩汚いっ!止めて!これ、高いんだから!!」


 後輩の泣き叫ぶ声など聞こえない。

 悪いのはしこたまビールと日本酒を呑んだ人間を力強く揺り起こした後輩だ。

 どこぞやのブランドでオーダーメイドしたとか言う自慢のスーツが吐瀉物で汚れようが知ったことではない。


 知ったことじゃないが、さすがにクリーニング代くらいは払わなきゃならないか?


「…………ってなに?その格好は?」


 口を手の甲で拭って顔を上げると、いつも冷めた顔をしている後輩の顔が何故かゾンビメイクになっている。

 死人のように表情が薄いから非常に良く似合っているが、似合いすぎて本物にしか見えないので勘弁して欲しい。


「ハロウィンだからって、部長に」

「部長?あの禿げたおっさんに特殊メイクの技術なんかあったの?マジで?」

「違いますよ。先輩が二次会終わった後でちゃっかり姿消しちゃっている間に連れて行かれたんです」


 どうやら特殊メイクを学んでいる専門学生たちがどこかの店の一角を借りて、ハロウィンを盛り上げるために格安でゾンビメイクをしてくれているらしい。


「で三次会が終わって次の店に移動している途中で先輩を見つけて」

「起こしてくれようとしていたと?」


 「はい」と神妙に頷いてもゾンビだから。

 恐いから。


「部長が怒り狂ってましたよ。先輩が勝手に帰ったって」

「いやいや!帰ってないから」

「じゃあ、先輩は部長と合流してください。俺はこのまま帰ります」

「あー……ほんと、ごめん」


 素晴らしく高いスーツを汚された後輩は顔を顰めて一歩下がる。


 本当ならば部長のお供で四次会、五次会と付き合う予定だった後輩に申し訳なくて謝罪すると「いいです。これで帰る言訳ができましたから」と大人の対応をするから自分が酷く幼稚な気がして頬を膨らませた。


「なんならそのスーツ脱いで、ゾンビ服に着替えたらいいさ。顔だけゾンビとかじゃなくて、全身仮装すればもっと楽しくなるよ」

「先輩おひとりでどうぞ。それじゃ、部長はいつもの店に行っているそうなので後よろしくお願いします」


 澄ました顔で手を振って颯爽とハロウィンで浮ついている人混みの中に消えていく。

 ゾンビメイクの顔だけ見れば街の楽しげな雰囲気とぴったりなのに、ピンと伸びた姿勢ではちっとも馴染まない。


「せめてこう、足を引きずって肩を落として『ぐあわああ』とかいいながら行きゃいいのに。つまんないやつ」


 座っていた花壇の縁から腰を上げて尻を叩くと抱いていた鞄を肩にかけて「よし行くか」と気合を入れる。


 なんだか楽しい所で呑んでいた気がしたが夢だったようだ。

 固まっている背中を伸ばしてから足を踏み出すと背後で「にゃん」と鳴く声がした。


 振り返ると細い路地の奥へと身を翻して走り去っていく黒猫の後ろ姿がある。


「まさか、ね」


 猫などどこにでもいる。

 否定しながらもどこかで期待して、この路地のある場所を忘れないようにと記憶させた。

 そして仮装に身を包んだ百鬼夜行の群れの中にえいやと飛び込んで、部長の禿げ頭を拝みに出陣したのだった。


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