爪牙へ落涙す

園部夕樹

第1話

 逃げた――。

 警備員の一人が、研究室の隣、会議室――今は臨時の仮眠所となっている――で眠ろうと横になっていた所長の桜木に、叫ぶようにしてそう言った。半ば微睡みの中に落ちていた桜木はそれを聞いたとたん、即座に脳は覚醒し、掛けられていたシーツをはね飛ばして、警備員の言葉を反復した。

 逃げた――。

 警備員はもどかしげに頷くと、手招きとともにその場を去っていった。桜木は慌てて追いかける。ベッドから出た瞬間自分が、肌着一枚の姿だということに気がついたが、それを気にしている暇はなかった。スリッパを引っかけ、無人の廊下へ出た。

 寒々としていた。

 深夜の研究所。常夜灯がほのかに明かりを醸し出しているが、それは暗闇を強調しているようであった。廊下の突き当たりは、闇で何も見えない。そこは、左に曲がれば、地下への階段。右へ曲がれば、警備員の詰め所があるはずだが、桜木には、そこに、〈逃げた〉ものが潜んでいるかのように思われ、背筋に冷たい物が走るのを感じた。

「先生早く――」

 警備員が、研究室から顔を出しながら言った。

 研究室へ入る。

「あそこのケージが――」

 警備員は、部屋の中央に置かれたケージを指さしながら言う。

 市販の金属製のケージ。出入り口付近の金網が、まるで刃物で切ったかのようにぽっかりと穴を開けていた。

 今日、午後の検査で、凶暴性は非常に高く、牙、爪ともに鋭利であり、取り扱いにはくれぐれも気をつけるようにと、所長である桜木自ら注意を促した。そして、この研究所に備え付けのケージでは耐久性に難あり、ということで明日の早朝に、鋼鉄製の猛獣用の小型オリを購入することが決まっていた。それまで、暴れ出さないように、麻酔剤を注射していた。象なら半日は眠っているであろう量の麻酔を、小型犬ほどの大きさのソレに……。

「出入り口はどうなっている?」

 桜木は警備員に向き直って訊いた。

「正面玄関は、電子ロック式で、完全に施錠されていますし、シャッターも降りていますのでネズミ一匹通ることは不可能ですが、裏口は、鍵がかかっていません。ほかに二カ所ある非常用の出入り口には――」

 桜木は警備員の言葉を遮るようにして叫ぶ。

「鍵がかかっているかなんて関係ない! あいつは、このオリを咬みちぎるかして逃げ出したんだぞ」

 警備員は、額に噴き出した汗をぬぐいながら、

「ドアの強度でしたら、特別頑丈というわけでもありませんが、動物に穴を開けられるほどやわとは思えません……」

「ドアだけじゃない! 壁はどうなんだ。排水溝は、通気口は。ヤツの大きさは知っているだろう。ヤツはそれほど知能が高いとは思えんから、わざわざドアから外へ出ようとは考えんだろう。ヤツが通って外へ出られるような場所はあるのか?」

 警備員は困惑気に目をしばたたかせた。

「あ、あの主任を呼んできます」

「早くしろ!」

 警備員は、慌てて研究室から飛び出した。廊下の突き当たりに向かって、ペタペタとスリッパの足音を立てながら走り出した。

 桜木は、改めて周囲を見回した。十畳ほどの広さの研究室。真っ白な壁と床が天井の蛍光灯に照らされている。中央の机には、空の小型ケージが置かれ、中には小さな皿に盛られた水と、ソレの体毛が数本落ちているだけだった。

 強化ガラスのはめ込まれた窓側にはデスクが二つ。その上にはパソコンがそれぞれ一台ずつ。片方には、乱雑に書類が積まれており、もう片方にはパソコン以外何も置かれていなかった。

 奴がいてくれれば――。

 桜木はポツリとつぶやいた。一週間前にこの研究所を去った鹿田。彼がいれば、この状況も少しは変わっていただろうに。鹿田は長身痩躯で、どこか人を寄せ付けない雰囲気をしていた。研究所の仲間とも、打ち解けてはいなかった。それは桜木も同様であった。だが、どこか惹きつけられるところがあったのだ。言葉は少ないが、彼の一挙手一投足にどこか、愛玩用の猫や犬のような愛嬌や、無邪気さが感じられた。だが、一度彼と言葉を交わすと、それはたちどころにどこかへ消え失せる。厭世的で、人嫌いで、皮肉家。付き合っても不愉快にしかならない。そんな彼が一週間前、突然この研究所を去っていき――。

 桜木の頭から、彼の姿が消えた。廊下から男の叫び声が聞こえたのだ。廊下に出る。

 暗い。今日は、月も出ていない。ぼんやりとした常夜灯しか明かりがない。

「どうした!」

 彼の声は反響した。返事はない。

 桜木は考える。

 現在、この建物にいるのは何人だ?

 自分自身、先ほどの警備員。桜木自身がその目で見たのはこの二人だけだ。研究員は、明日からの泊まりがけでの検査にあたることになるので、用意のために自分一人を残らせて数時間前に帰らせた。他の所員も同様である。

 警備員は、深夜は三人が常駐することになっているはずである。

 つまり、この建物には全部で四人――プラス、得体の知れぬ小動物一匹。

 叫び声は三人の警備員のうちの誰か。しかし、叫び声を聞いた後でも、他に物音は一切しない。残りの警備員はどうなっているのか。様子を見に行かなければ。そう思うのだが、なぜか足がすくんで動かない。廊下の闇にソレが潜んでいるように思えた。

 ソレの正体はまだ分かっていない。猫のように敏捷で、虎のように獰猛で、鋭い牙と歯を持っている。分かっているのはそれだけであった。生態や特性、どこからこの動物が持ちこまれたのかすら分かっていない。今日の午前中に、この小動物を初めて目にして以来感じていた、漠然とした恐怖感。虚無に吸い込まれるような真っ黒な瞳。それは、動物たちが持っているはずの理性や本能、そうしたものを超越したまるで機械のような、印象を受けた。何かの使命を全うするために神が使わした生物――。

 ふと、背後に気配を感じた。後ろを振り返る。何もいない。闇。

 と、思ったのも束の間、足下にソレが牙を剥いて桜木を睨んでいた。

 捕まえるべきか、と思った。だが、ソレが眼窩の奥で不気味な光沢を発してるのをみて恐怖を感じ、逃げるべきだと悟った。

 しかし、一瞬の逡巡が命取りとなった。桜木は逃げだそうと足を踏み出した。その足にソレは噛みついた。皮膚を、肉を突き破り、ソレの歯は骨に達した。激痛におそわれる。思わず呻き声とともにその場に崩れ落ちた。ソレは、依然、噛みついたままだ。ギリギリと万力に押さえつけられるように、噛みつく力は増していく。同時に痛みも同じように増していく。

「離せ!」

 ソレの頭を握りしめ足から離そうとする。ソレは器用に前足を使って、その手を掻き切る。中指が半分から切り取られた。桜木は叫んだ。苦痛に叫んだ。だが、誰もやってこない。

 足が燃え盛るような炎に投じられたように、暑さを感じた。同時に、ブチリと音がして、彼の足は体から切り離された。

 ソレは、足と、半ば気を失っている桜木とを順に見比べた。口元が血で真っ赤に彩られていた。

 桜木は、尻でジリジリとソレから遠ざかろうと試みる。ソレは口の奥で呻き声を発しながら近づいてくる。ネズミをなぶる猫のように、決して急がず、慎重に近づいてくる。

 桜木は、白濁とした脳裏で生き延びる術を考えた。周囲は殺風景な廊下。武器になりそうな物はない。一メートル先には研究室があるが、そこまで片足で逃げられるはずもない。衣服は肌着一枚。ポケットを探ろうにも、ポケットもない。

 詰んだ――。

 彼は、後退をやめた。その場に仰向けに倒れた。天井でぼんやりと光る蛍光灯を見つめた。まぶしさは感じなかった。すでに生命の灯火は消えかけ、五感が失われていたのかもしれない。痛みすら、今はほとんど感じていなかった。

 桜木の視界に、ソレが入ってきた。体毛を逆立て、桜木の体の上を歩き、そのまま彼の喉元で足を止めた。桜木の顔をのぞき見るようにして、短く唸るようにして啼いた。虎のような、ライオンのような鳴き声であった。

 なぜ、こいつは表情を変えんのだ。

 桜木は思った。獲物を仕留められるのだ。餌にありつけた歓喜の表情は? 自分をケージに閉じ込めた天敵を排除できた安堵の表情は? 自身の狩りの才能を発揮できた満足の表情は? 他の動物なら見せるであろう、狩りの終焉における表情や仕草の変化が一切無かった。

 そもそも、なぜ、こいつは、こんな小さな体なのにこれほど獰猛で鋭い牙や歯をもっているのだ。こいつは、いったい何者なんだ――。

 桜木の疑問は解けぬまま、彼の意識は永遠の闇の中へと沈んでいった。

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