第44話 運命の冬〜クリスマスの誓い〜

 推薦入試合格の結果を受け取り、僕はほとんど二つ返事に入学手続き書類を大学に送った。推薦入試は合格した場合は必ず入学するのが半ば義務なので、それ以外に道はない。

 もちろんそれは自らが望んだ結果だ。これで中学三年生以来の宿願たる横浜帰郷が現実になるのだから、嬉しいことに違いはない。しかしいざ書類を封入した封筒をポストに投函するとき、僕は手が震え、中々指を離すことが出来なかった。

 これを送れば大学へ入学しなければならない。つまり小夜子ちゃんと離れ離れになることを意味する。封筒を手からポストへ投函するということは、小夜子ちゃんの手を離すのと同義に思えたのだ。

 それでも最後は自分で決めた道を行く意思が勝った。僕は涙を飲み、とうとう封筒をポストに投函した。

 これを以て僕の受験戦争は閉幕した。


 *


 合格通知から十日ほど経った土曜日のこと。


 師走も終わりつつあるこの頃、世間はどこか忙しなく時が動いている。背広を着た人達は仕事納めを前に最後の追い込みを掛け、家事に追われるおばさん達はその準備にあくせくしている。そして僕と同い年の受験生達はセンター試験を直前にして机に齧り付き、必死にペンを動かしていた。だが推薦入試で進路を確定させた僕は上がりを決めたというか蚊帳の外というかで慌ただしさを全く感じず、子どもと一緒になってクリスマスと正月の二大イベントを待ち望んでいた。


 だが今日は珍しくソワソワした気分であった。場所は大浦天主堂という路面電車の駅。まばらな雲と綺麗な青空の晴天に恵まれた昼下がりのこの日、僕は久々に小夜子ちゃんとデート出来ることになった。

 この日はクリスマスイブ直前の週末。テレビでグラバー園がクリスマスイルミネーションで飾られていると紹介され、はたと思い出したように電話を入れて誘ったのだ。


「あ、航ちゃん! お待たせ」


 僕より一本遅い電車から小夜子ちゃんが飛び降りた。時刻は一五時〇二分。うーん、二分遅刻。すごく惜しい。


「やっほー、小夜子ちゃん! 今日のコート、すごく可愛いね」

「ふふ、そうでしょう? このコートはお下がりじゃなくて自分で選んだんだ」

「そっか! いつにも増して小夜子ちゃんらしくてキュートだよ」

「もう、航ちゃんったら……」


 モコモコしたベージュのコートを褒めて上げるとぽっと頬を赤らめ照れる小夜子ちゃん。女の子らしいクリーム色のミトンもすごく可愛い。僕の前にクリスマスを前倒しにして天使が舞い降りたようだった。


 いつものように手を繋ぎ、異国情緒のあるグラバー通りを上りながらグラバー園を目指す。この通りは欧州風の舗装や外装の土産物屋、街灯が並んでおり、歩いていると外国に迷い込んだような気分になって面白い。道々お土産屋さんを覗いたりお菓子を買い食いしながらゆるゆると坂の上を目指した。イルミネーションが点灯するのはもう少し暗くなってからなので時間に余裕はある。急ぐことなく、のんびりとデートを楽しんだ。


「小夜子ちゃん、今日はありがとう。センター試験前なのに」


 土産屋から出たタイミングで会話が途切れたため、僕は何気なくそう礼を述べた。僕は推薦入試で進路を確定させたため受験競争から上がったが、彼女はそうではない。小夜子ちゃんは長崎大学の一般入試を受ける予定のため、一月にはセンター試験が、二月には二次試験が控えている。受験生達は今こそ最後の追い込み時だと息巻いている場面であった。


「ふふ、大丈夫だよ。お父さんと航ちゃんが教えてくれたから余裕余裕」

「そ、そう? なら安心だけど」

「あ、信じてないでしょ? 楓も今日の予定を知って『そんなに余裕こいて大丈夫なの?』って心配されちゃったよ。でもお父さんからは一日くらいならってお墨付きをもらったから平気だよ」

「そっか、おじさんが言うなら間違いないね!」


 いえい、とグータッチを交わす。

 小夜子ちゃんは直近の模擬試験の結果はA判定で確かに余裕がある。苦手としていた数学や物理もおじさんのテコ入れのお陰で克服し、センター模試や過去問の正答率が飛躍的に伸びた。また文系科目の勉強には僕も協力している。その結果、合格を完全に射程に収めた形となった。


「航ちゃんはこの頃お家では何してるの?」

「えっと……TOEICの勉強をば」

「とーいっく?」

「民間の英語の試験のこと。大学に入ったら強制的に受けさせられるらしいから、その勉強をしておくようにってお達しが出たんだ」

「うっそー!? もうそんなに進んでるんだ。推薦が決まったらずっと寝てられると思ったのに忙しいんだね」

「いや、ずっとは寝ないけどね……」


 小夜子ちゃんは目をパチクリさせて驚いてみせた。ずっと寝るとの言種はきっとモノの例えだが、ワードセンスが小夜子ちゃんらしくて面白い。


 僕が言ったことは半分が本当で、半分が嘘だ。大学からは確かに四月中旬ごろにTOEICの試験が学内で実施され、受験させられるとの通知があった。そのため対策しておくようにとのお達しもだ。だが僕は緊張の糸が途切れたままのため、本屋さんで買った対策本を机の上に放置したままだ。午前中はずっと眠り、午後はゲームや読書に耽ったり、気分転換に表へ出てジョギングや筋トレをしている。ごくたまに気が向いてテキストを広げることがあるものの、問題は大して難しくないため腰を据えて対策しようという気にならないのだ。


「それに一月になったら大学から数学の課題が送られてくるんだって。入学前にそれをこなしつつ、新生活の準備もしないとだよ。二月の頭頃にはまた母さんと横浜へ行って、アパートを探すことになってるんだ」

「わぁ……本当に忙しそうだね」


 心配そうに眉根を寄せる彼女になんとかなるさと相槌を打ち、坂道を上っていく。だがそこで不意に沈黙が訪れた。周囲では中国人や韓国人の観光客がガヤガヤと大声で早口言葉のような会話を繰り広げているが、それがいやに遠くから響いているような奇妙な空気であった。


「あ、チュリリンの特大ぬいぐるみだって。ちょっと見ていこうよ!」


 その不自然な間を埋めるように小夜子ちゃんは別な土産屋を指差し、わざとらしく溌剌はつらつとした態度で店の中へ飛び込んでいった。僕はそれを指摘するつもりもなく、あとを追って全長一・五メートルの特大チュリリンに驚嘆した。


 僕達の間では二つの事案が暗黙の内に禁句となっている。

 一つは十一月のセックスだ。不純異性交遊ともいう。生まれて初めて女性を抱いた経験は生涯忘れ難いほどの衝撃を僕の胸に残し、未だ鮮烈に思い返される。だが同時に学校からの推薦を取り消される、あるいは大学から拒否されるのではとの疑心暗鬼を拭い去れず、僕はその話を決してしようとしないし、当然彼女の肉体を再び求めるような真似もしていない。それは小夜子ちゃんも同じだった。僕と自らの受験生という立場を慮ってか、ただ単に恥ずかしいのか、あるいは別な理由があるためか知り得ないが、小夜子ちゃんの口からあの日のことを話す素振りはないし、キスより先のことを求めてこない。


 二つ目は大学進学後の僕達の関係だ。僕は横浜へ進学が確定し、小夜子ちゃんも長崎大学を照準に合わせて勉強を進めている。首都圏に彼女が進学する見込みは今現在の時点では皆無だろう。つまり二人の間には物理的な距離が出来ることが確定しているのだ。

 お互い、今更そのことに不満を唱えたりはしなかった。だが二人の関係についても話し合えていなかった。つまりは遠距離恋愛をして愛情を育むか、はたまた恋人関係を解消して春以降は別々の道を進むか、だ。

 切り出し損ね続けている理由は時期が遅くなり過ぎたためだ。十一月末は推薦入試で僕がピリピリしていたし、合格の余韻に浸っている間に年が暮れ、今度は小夜子ちゃんが緊張感に占められてしまい、結果として気持ちを確かめられずにいた。


「あー、チュリリン大きくなっても可愛いなー(棒読み)」

「そうだねー。横浜に連れていこうかなー(棒読み)」


 こと話題がそのことに及ぼうとするとこうしてお互いにはぐらかし、合意を形成することが出来ないのだ。


 余談だが、二年生の頃クラスを二分していた松本さんと日下部さんとは今年は別々なクラスになっていた。そのため今年のクラスでは女子は別段派閥が作られることなく仲良くやっているらしい。故にメンバーシップになっていた例のぬいぐるみストラップはお役御免となり、小夜子ちゃんのリュックサックから完全に姿を消していた。なんでも今はおばさんのキーホルダーに括り付けられているとか。哀れ、チュリリン。


 *


 グラバー園の入り口を過ぎ、邸宅付近に到着したのは十六時半を過ぎた頃だった。駅からここまで真っ直ぐに歩けば一時間もかからない道のりなのだが、途中で寄り道したり喫茶店で休憩したりとあえて時間を潰しながら進んだためお日様が西の空に沈みつつあった。

 邸宅付近には僕達と同じようにイルミネーションを見物しにきた観光客やカップルがひしめいていた。皆一様にアウターを着込んでいるが頬を無情に撫でる寒気に顔をしかめたり苦笑したりし、身体をソワソワとその場で動かして少しでも暖を取ろうとしていた。


「もうすぐ日が暮れるね」


 茜色に染まる西の空を眺め、小夜子ちゃんが感慨深そうに呟いた。


 思い返せば小夜子ちゃんと休日に日が暮れるまで遊んだ経験は少ない。いつもはご両親に心配をかけまいとの遠慮が勝って日没までには帰宅出来るよう時間を意識してデートをしていたためだ。部活の練習終わりに日没の道を歩いたことは何度もあったが、こうしてあえて夜まで行動を共にしたことはいつ以来だろう。同時に一緒に夕日を眺めるなど初めてのことだと気付いた。


 ぐすん、と小夜子ちゃんが鼻を啜る音を立てた。はてなと彼女の顔を横目で窺うと目を伏せ、涙を流していた。僕の視線に気がつくとミトンで涙を拭い誤魔化そうとするが、涙は止め処なく溢れ追っつかない。


「ごめんなさい。折角のデートなのに」


 両手で顔を覆いながら彼女は消え入りそうな声で詫びを入れた。僕は小さな肩に手を回し、そっと抱き寄せた。


 悲しい気持ちは僕も同じだ。朝日が登って新しい一日が始まると、あるいは夕陽が沈んで一日が終わると暦が進んでいく。小夜子ちゃんとのお別れの日が近づいてくるのだ。

 僕は毎日毎日、かねてよりの願いであった横浜帰郷が本当に正しい選択なのかと疑っていた。そしてその疑念は日に日に強くなっていた。


 僕が横浜に戻りたいと思ったのは慣れ親しんだ思い出の地に戻りたいとう郷愁が先行したものの、決して感情に絆されただけではない。将来就職することを見据えれば、首都圏でネームバリューのある大学を選ぶことが有利に働くと見込んでのことだ。三者面談などで進路の話になるといつもその理屈を説明し、親や先生達を納得させてきた。子どもながらの思考はむしろ合理的でさえあるためたしなめられたこともない。

 最善の選択なのだ。


 だが実際には小夜子ちゃんとの恋の行く末から目を背け続けてきた。

 そしてそれと向き合おうとすると、己の理性的な戦略を疑ってしまうのだ。


 小夜子ちゃんと一緒にいたい。いろんな場所へ行ってみたい。美味しいものをたくさん食べたい。いっぱいキスをして、愛のあるセックスをしたい。


 彼女への好意は暴動のように当てもなく行き場を求め、僕の成就した宿願と将来設計を否定し、否決しようと喚き散らす。


 小夜子ちゃんが涙を堪えた笑顔を浮かべて口を開く。


「ねぇ、航ちゃん。横浜に行っても――」


 元気でね。


 そう続くのだろうか。それでは餞別の言葉ではないか。

 深い悲しみに襲われ、心に鎖で繋がれていた願いがもがき、解き放たれた。


「遠距離がしたいよ、僕は。物理的な距離が出来ても、君と別れたくなんかない! ずっと恋人同士でいたい! ずっと好きでいたい!」


 彼女の肩を両手で掴み、真正面から向き合った。


「約束する。離れていても君だけを好きでいるから。だから春になっても僕と恋人でいて」


 天頂は宵の青に染まり、西の空も暗い橙色にをわずかに残すばかりとなる。

 お日様の頭が沈んだのが合図だったのだろうか、園内のイルミネーションが一気に点灯した。

 邸宅の壁や庇には白色のLEDが張り巡らされ、雪化粧したようである。特設の樅木もみのきには赤、黄、オレンジのランプがあしらわれ、クリスマスの象徴として輝いている。視界を海側に向けると、柵とその向こう木々は青いLEDランプで染め上げられ、海原のようであった。そしてさらに向こうには長崎の町の――小夜子ちゃんの生まれ故郷の夜景が一面に広がっていた。


「この夜景に誓う。君の故郷の景色に誓うよ。きっと僕はこの先、海と夜景を見たら君を必ず思い出す。君への愛情を忘れたりなんかしない。だから君も、僕のことを恋人として想い続けて!」


 自らの決断を後悔しちゃいけない。

 彼女の決断を非難しちゃいけない。

 そう覚悟した僕が取れる、自分に最も正直な選択。


 小夜子ちゃんは目を大きく見開き絶句していた。ミトンに包まれた両手で口元を覆い、一呼吸置いてコクコクと弱々しく頷いた。空はとっくに暗く、イルミネーションの光が彼女の顔を照らしている。驚愕と喜びが幻想的な光に照らされて浮かび上がっていた。


 その表情から、きっと彼女はお別れを覚悟していたのだろう。

 一体いつから意識していたのだろう。その痛みを感じながら、今日まで勉強に打ち込んできたに違いない。きっと辛かっただろう。


 その後、僕達は無言で夜景を眺めた。漂う沈黙は重苦しさなどなく、むしろ心地良くさえあった。僕が彼女の肩に手を回して抱き寄せ、彼女はピッタリと僕の身体に寄り添う。じきに離れ離れになる小夜子ちゃんの体温を確かめるように。


「すごく綺麗」


 ぽつりと小夜子ちゃんが溢した。


「私、今日の日を絶対に忘れない。私もきっとこの先、海と夜景を見たら航ちゃんのことを思い出すよ」


 クリスマスを控えた夜、僕達は未来を誓った。遠距離恋愛の寂しさは今からでも想像にかたくない。夏の間、小夜子ちゃんに会えない日々が続いて寂しさを募らせたことがあった。春からは物理的にも距離が生まれ、会いたくても会えない日々が延々と続くのだから、寂しさは耐え難いことだろう。


 それでも僕は、彼女との繋がりを決して捨てたくはないのだ。

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