第39話 運命の冬〜つり目の女の子と推薦入試〜

 小夜子ちゃんと心身共に男女の中になってから一週間近くが経過した。

 その間、僕は推薦入試に向け、過去問を使って試験の時間配分の確認など最終調整をして万全の態勢を整えつつあった。その一方、頭の中ではあの日の出来事が頻繁に想起され、何度もたかぶる自分を慰めた。

 だが彼女へのたぎる愛を発散させると決まって後悔と不安に駆られるのだ。僕はその日の逢瀬を誰かに見られていたのではとの疑心暗鬼を拭いきれずにいた。そんな気持ちから目を背けるように机に向かい続け、とうとう推薦入試の前日を迎えた。


 金曜日、僕は母と二人で横浜を訪れた。制服姿の僕と他所行きの上等なコートに身を包んだ母とで前乗りし、関内にあるビジネスホテルに宿泊する予定になっていた。

 長崎空港から羽田空港までひとっ飛びした後、リムジンバスで横浜駅に運ばれ、そこからはJR根岸線で関内駅まで向かう手筈になっていた。

 僕達親子にとって横浜の町は慣れた土地だ。母の土地勘は鈍っていないので目的地まで迷うはずがない。だがなかなか先に進まない。理由は僕が浮かれて何度も足を止めてしまったからだ。


「母さん、見て! 人がいっぱいいる!」

「母さん、ほら! 横浜駅だって! 東横に相鉄、ブルーラインはあっちだよ!」

「母さん、ねぇねぇ! そごうでお惣菜買わないの?」

「母さん、やったね! マリノス今日も勝ってるよ! 良かったね」


 およそ三年ぶりの故郷横浜の空気にすっかり浮き足立ち、何かにつけてよそ見をしたり歩みを止めるものだから道のりは遅々として進まない。


「航太郎、あんたいい加減にしないと明日の試験落ちるわよ」


 長崎ではお目にかかれないキオスクを懐かしんだあたりでギロリと睨まれ、忠告を受けた。怖い。

 しかし釘を刺されても僕の浮ついた心はなかなか地に足つかない。取り分け、横浜の中心地である関内に到着すると興奮はピークに達し、よそ見ばかりしてまた呆れられた。

 ホテルにチェックインしても胸の高鳴りは止むところを知らず、居ても立っても居られない。本来の予定では試験のポイントをおさらいするはずだったが、堪らずホテルを飛び出した。母さんの制止を振り切って向かったのは伊勢佐木町商店街だ。伊勢佐木長者町駅方面に向かってぶらぶらと昔を懐かしみながら歩き、買い食いをしたりお店を冷やかしたりし、歩き疲れたところでようやくホテルに戻ったのだった。


 翌日、ホテルをチェックアウトした僕達親子は試験開始時間の三〇分前に大学に到着出来るよう早めの行動を取っていた。横浜駅から京急線に乗り、最寄りの金沢八景駅へ赴く僕には前の日のような浮かれた気分は微塵もなく、来る試験への緊張感ときっと大丈夫だとの自信で満たされていた。


「金沢八景、懐かしいね。昔父さんと三人で海水浴に来たっけ」

「航ちゃん、あんたまだ浮かれてるの?」


 浮かれてなどいない。緊張感を解すための世間話のつもりだ。だが昨日の忙しない行動のおかげで僕はすっかり信用を損ったらしく、母は呆れ顔で指摘した。


「へーきへーき。今の僕は試験まっしぐら! 絶対合格してくるからね!」


 一歩後ろを歩く母を振り返り、後ろ向きで歩く。


「航ちゃん、前向いて歩いてね」

「へーきへーき。こんなところ、地元なんだから目を瞑ってても歩けるっての」


 余裕いっぱいに戯けて答える。金沢区は口で言うほど馴染みのある場所ではないがキャンパスまでの道のりはおおよそ頭に入っている。それが慢心となって調子付き、そんな言動を取ってしまった。それが災いだった。


「きゃあ!?」

「あで!?」

「ちょっと、航太郎!?」


 背中に人がぶつかった。その人は甲高い声の悲鳴を上げ、ついでどさりと倒れる音が背後から立ち上る。僕は背中に冷たいものを感じながら慌てて振り返る。足元には制服を着た女の子がしかめっ面尻餅をついていた。


「痛ーい……」


 女の子は腰の辺りをさすりながら苦痛を声に出していた。手元には鞄と受験票があり、同じ推薦入試の受験生だろうかと推測を巡らせた。


「この馬鹿! お嬢さん、大丈夫? ごめんなさいね、うちの馬鹿息子が本当にもう」

「いえ、大丈夫ですよ。ちょっとお尻を打っただけですので」

「そう、良かったわ。これ、鞄と受験票。町村さんっていうのね、本当にごめんなさい」


 母さんは転んだ女の子に駆け寄ると膝を折り、鞄と受験票を拾って持ち主に差し向け、立ち上がるのを手助けした。少女は手をとって立ち上がると朗らかに微笑んで母さんに礼を言った。


「航ちゃん、ボケっとしてないであんたも謝りなさい! 全くあんたって子は……」

「え、あ、うん。えっと……ごめんなさい!」


 母に尻を叩かれ(もちろん物理的な意味ではなく)、僕は少女に向き直って慌てて詫びを入れた。

 胸元に白いリボンがあしらわれた紺色のセーラー服、ポニーテールにした烏の濡れ羽色の長い髪、キリッと怜悧で鋭いつり目、僕より数センチ低い程度のすらりとした身体。どことなく母さんに似てなくもない人だな、と変な感想を抱いた。


 ギロリ、と鋭利な視線が僕に向けられる。剃刀を喉元に向けられたような気分だ。


「はしゃいじゃって、馬鹿じゃないの? どこの田舎から出てきたのかしら」


 はぁ?


「折角ママに来てもらってるんだから、大好きなママに手をつないでもらえば、?」


 その子は冷酷無情に吐き捨てると「ふんっ」と鼻を鳴らしてそっぽを向き、そそくさと立ち去った。方角は当然ながら僕が目指すのと同じだ。

 あまりの言種いいぐさに顔面にパンチを喰らったような衝撃を覚え、僕はしばし呆然として憎まれ口の一つも出なかった。隣では母がケラケラと愉快そうに笑っていた。


「ほら、航ちゃん。行かないと遅れるわよ」

「……」

「航ちゃん?」

「外でその名前呼ぶなって……」


 憮然として、そんな憎まれ口を母に向けてしまった。

 受験の直前だというのに見ず知らずの女の子に田舎者と馬鹿にされ、ガキ扱いされ、大事な愛称まで揶揄われた。最悪の気分だ。……全ては余所見をした自分が悪いのだが。

 やり場のない怒りをどうにか沈める僕に、母はため息をついて呆れていた。


「ほら、さっさと行きなさいよ航太郎。それとも手を繋いで付いてって上げようか?」

「繋がないし、一人で行くっての。見送りはここまででいいよ」

「そう。じゃあ、お母さんこの辺のカフェかなんかで時間潰してるから、終わったら改札で待ち合わせね」


 言い終わるや否や、僕は一人であの女が先に行った道を辿り始めた。

 本当に浮かれて馬鹿みたいだ。

 両手でほっぺたをサンドイッチするように叩き、喝を入れる。


 絶対に合格してやる。

 そして毎日この道を歩くんだ。


 直向ひたむきな決意だけを胸に抱え、勝負の大一番に乗り出したのだった。


 *


 無事試験を受け終えると約束通り金沢八景駅の改札前で母と合流した。その瞬間をあの女に見られるのではないかと疑心暗鬼になったが杞憂に終わってホッとしている自分がいたのは誰にも内緒だ。

 帰りは観光もせず羽田空港に直行し、長崎空港まで飛んで帰った。自宅ではばあちゃんが慰労を込めてご馳走を作って待ってくれていた。復路を腹ペコのまま行軍したため夢中になって掻き込んだ。その後小夜子ちゃんと短く電話をしてすぐに眠りについた。時に二〇時と寝るには早すぎる時刻であったが疲れと緊張が解けたこともあってかすぐに眠りに落ち、目覚めたのは翌朝の正午過ぎであった。


 二週間後の合格発表がなされる日、僕はゲボを吐きそうな気持ちで登校した。その日は僕にとっては運命の一日であるが、学校としては通常通り授業が行われる。もし不合格であれば僕はその一日をメンタルをめった切りにされた状態で過ごさなければならない。試験の手応えは十分あったとはいえ、さすがに緊張と不安に襲われた。


 登校し、教室へ赴くとすでに赤木と小夜子ちゃんがいて、入室した僕の顔を見るなり不安げな色を浮かべた。結果はどうだと問われると、まだ聞いてないと答えた。荷物を置いてから職員室へ行くつもりだから、これから知るところとなる。赤木はきっと大丈夫だと力強く励ましてくれた。小夜子ちゃんは職員室の前まで付き添った。


 職員室に入り、担任の姿を探す。先生は定位置にすでに座っており、僕と目が合うとにっこり笑って手招きした。それだけで心が跳ね、僕は飼い犬のように小走りで先生の元へと向かった。

 結果は合格だった。

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