第30話 色づく季節

 時は移ろい十一月中旬。肌をジリジリと焦がす夏の暑さと蝉の大合唱が過去のものとなり、山々や街路の木々が色づく季節。


 秋に開催されるバドミントン新人戦を終えて迎えた最初の日曜日、僕は冬木さん――いや、小夜子ちゃんと市内の公園でデートをする予定だった。青々とした空、夏よりもずっと高いところに浮かび、偏西風に流される薄雲。向寒の候らしく空気はひんやりしているが、お日様が照っているので温かくもある。暑くも寒くもない絶好の公園デート日和だった。


 そんな秋深まり冬の到来を肌身で感じさせる今時分、立って待っているのは寒いというより切ない。公園を訪れる人々は家族連れやカップルが主で、赤や黄色に染まった木々に風情を感じているご様子だ。


 紅葉が綺麗やねー。

 すっかり秋だね。

 もうすぐ今年も終わりばい。


 秋色の日曜日においては誰もが少し切なげに、それでもなぜだか和やかだった。


 そんな中、僕は一人で棒立ちになって小夜子ちゃんの到着を今か今かと待ちぼうけていた。

 待ち合わせの時刻は正午丁度。場所は『長崎水辺の森公園』という海浜公園の入り口付近ということになっていた。そして時刻は刻限の一分前。この時点で彼女の遅刻は確定していた。なぜなら遅刻するとメールが入ったからね!


 いや、良いよもう。あの子に遅刻癖があることは薄々感じていたし、僕が腹を立てても改善しないこともしっかりと理解した。むしろちゃんと遅刻すると連絡を入れてくれたから良しとしよう!


 さて、僕と小夜子ちゃんは夏のバーベキュー大会で晴れて付き合うことになった。カップルだ、カップル! 彼女いない歴十六年、僕にもついに彼女が出来たわけですよ。ガールフレンドは眼鏡とおさげが可愛らしい冬木小夜子ちゃん。文系っぽい眼鏡っ子なルックスに相反して運動神経抜群の素敵なお嬢様だ。ちょっと遅刻が多くて抜けているところがあるものの、誰にでも欠点の一つや二つはあるのが世の常。美酒は渋味も醍醐味だ(酒の味は飲んだことないけど)。


「航ちゃーん。お待たせー!」


 と最愛の彼女に想いを馳せていると三〇メートルほど向こうから待ちに待った小夜子ちゃんの声が聞こえてきた。僕は電源スイッチをオンにしたかの如く胸が一瞬で熱くなり、右腕を目一杯振って応じた。

 小夜子ちゃんは歩くペースを保ち、ゆっくりと歩み寄ってくる。遅刻したんだから走ってくるのが誠意などとおっかないことは言わない。彼女の手に握られているとうのバスケットの存在に気付けばむしろ慌てないでとなだめるくらいだ。


「航ちゃん、ごめんね! お弁当の支度してたら遅くなっちゃった」


 眉を寄せ、そう詫びる小夜子ちゃん。


「遅いよー。僕昨日の夜からここで待ってたんだよ」

「もう、何言ってるの。さっき『今から家出るよ』ってメールくれたじゃない」

「あは、そうだったね。それじゃ、立ち話もなんだし中に入ろうか」

「賛成!」


 そう言って彼女が手に持つバスケットを預かり、僕は左手を差し出した。それを合図に彼女は右手を僕の手に重ね、指を曲げる。掌同士を重ねるように手を繋ぐ。指を絡めるような繋ぎ方をしてみたいけど、それはまだ恥ずかしい。それに僕はこの彼女の手を包み込むような繋ぎ方が好きだった。小夜子ちゃんの手は僕のより一回りは小さい。この繋ぎ方だとそんな小さな手がすっぽりと手中に収まってしまい、彼女を自分のものにしたというような、ある種の傲慢な独占欲が満たされるのだ。


「きゃっ!?」


 突然小夜子ちゃんが可愛らしい悲鳴を上げた。黄色く色づいた落葉が彼女の頬を掠めて驚かせたのだ。悪戯をした木の葉に唇を尖らせ、次いで声を上げてしまったことを恥じらう。僕はコロコロと表情を変える彼女がおかしく、またたまらなく愛おしくてジワリと笑みを滲ませた。そして小夜子ちゃんも鏡に映したように微笑みを湛える。


「今日の洋服、秋っぽいね」

「そうでしょ? お姉ちゃんのお下がりなんだ」


 今日の小夜子ちゃんの服装は山吹色のカットソーに鶯色のジャンパースカート。色合いは豊かだがフリルなどの装飾が少ない分質素で、アースカラーなので秋の公園にマッチしていた。


「すごく似合ってるよ。もうすっかり秋だなって感じ」

「……じ、実を言うとお姉ちゃんより似合ってると思ってる」


 顔を赤く染め、ますますオータムに染まっていく。

 一方の僕は大きく出たな、と感心した。彼女はよくご家族の話をするが、中でもお姉さんのことはが付くほど褒めちぎっていた。容姿端麗、成績優秀、運動神経抜群でしかもモテるといった具合だ。多少の身贔屓は入っていそうだが、お姉さんがいかに出来た人かと伝わっている。そんなお姉さんに(本人不在とはいえ)明言してマウントを取るとは、控え目な性格の彼女にしては珍しい。


 公園の歩道をゆるゆると進み、やがて広い芝生のエリアに行き着いた。今日はここでレジャーシートを広げ、お弁当を食べて過ごす予定になっていた。

 芝生には同じようにレジャーシートを広げて麗かな日和を満喫する家族や二人組がちらほらと見受けられた。僕たちは遊歩道から離れ、なるべく中心部に近いところに持参したレジャーシートを広げて腰掛けた。バスケットを挟んで向かい合う形だ。


「さぁ、小夜子さん特製のサンドイッチ。召し上がれ」


 籐の蓋を開けると様々な種類のサンドイッチが顔を見せた。ハム、卵、レタスとトマト、ジャムにカツサンドまである。


「すごい、こんなに沢山! 作るの大変だったでしょう!?」

「これでも早起きして作ったんだよ。トンカツは昨日、お母さんに多めに作ってもらった残りなんだけどね」


 いただきます、と揃って手を合わせて拝む。僕はおすすめのサラダサンドを一番に貰った。レタスとスライストマトにマヨネーズをえたサンドイッチで、瑞々しいトマトの甘みとマヨネーズの酸味が合わさり、爽やかな味が口の中に広がった。


「すっごい美味しい!」

「ふふ、良かった。いっぱいあるから遠慮無く食べてね」

「ではお言葉に甘えまして」


 カツサンド、卵サンドと立て続けにパクつき胃袋に収めていく。間に僕が水筒に入れて持参したコーヒーを飲み、おしゃべりを挟みつつランチを楽しんだ。


 会話を休めて景色に目を向けるとあるものが目に入った。くすんだ緑に色付いた芝生の上でバドミントンをして遊んでいる親子がいた。お父さんと小学校高学年くらいの男の子。

 お父さんはラリーを楽しもうと返しやすいショットを打つ。男の子はそれを無我夢中で打ち返し、お父さんは食らいつくようにまた返す。

 いーち、にー、さーん……。

 二人で何度ラリーを続けられるか声を上げて数え、十回を達成したところで男の子が渾身のスマッシュをお見舞いした。お父さんは意地悪な息子の行いをゲラゲラと大きな声で笑い飛ばした。


 僕は自ずと父親のことを思い出していた。


「新人戦、残念だったね」


 だがそれを遮るように小夜子ちゃんは新人戦の話を持ちかけてきた。


「そうだね。もう少し頑張りたかった」


 僕はそれに合わせ、心中を吐露した。


 前の週末、長崎県の高校生のバドミントン新人戦が開催された。三年生が引退し、最初に迎えた公式戦は選手として気持ちを新たにするだけでなく、副部長に就任した僕達にとって最初の大仕事になった。

 練習メニューを見直したり、代表選手の編成を考えたりと議論を重ね、新人戦に向けて考えうる限りの対策と調整を重ねたつもりだった。

 だが結果は残念の二文字に尽きる。団体戦は男女共に敗退。シングルスとダブルスもベストフォー入りを果たせなかった。そして地区大会準優勝者にして全国大会出場者のはずの僕はといえばまさかの初戦敗退。あまりの悔しさのため、帰宅してからはベッドでさめざめと泣いた。


 また、学校では大いに失笑を買った。


 新人戦残念だったな。

 来年の夏に期待するぞ。

 一発屋で終わるなよ!

 お前に二千円賭けとったのに!!


 皆、苦笑混じりで僕を慰めてくれた。きっとそこに悪意はなかったのだろうが、同情され慰められるのは惨めでしかなく、先週は学校に行くのが嫌で仕方がなかった。それでも休まず登校したのは部長の赤木も同じように辛酸を舐めた――いや、僕以上に責任を感じていると思うと自分一人で逃げるわけにはいかないと奮い立ったためだし、不貞寝してこれ以上小夜子ちゃんに無様を晒したくなかったからに他ならない。


 他校の生徒に負けても、自分に負けてはいけない。その矜持だけで僕は長い坂の通学路を行き来した。

 結果的には逃げなくて良かったと思った。仲間と辛苦を分かち合うことで自分の敗北の記憶を受け入れ、乗り越えられたからだ。


「ま、来年の夏の大会までもう少し時間がある。今回の結果の悔しさをバネに、高いところまで跳んでいこう」


 臥薪嘗胆というやつだ。この悔しさをエネルギーに変換出来れば、最後には意地を見せられたと大手を振って町を歩ける。


「うん、そうだね。一緒に頑張ろうね!」


 小夜子ちゃんが気合いっぱいの笑顔を浮かべガッツポーズを取る。可愛らしい容姿とは裏腹に頼もしさがいっぱいだ。


 同時に僕は新人戦前に抱いていた慢心にこの時初めて気づいた。苦虫を噛み潰したような気持ちがどこからともなく湧いてくる。それを押し込めて忘れることは簡単だが、それではいけない。僕は勇気を奮って彼女に打ち明けることにした。


「僕、自分の実力ならきっと新人戦を勝ち上がれると思ってた。夏には全国までいったし、あの小笠原先輩に勝てた自分だから次も余裕だって。でも結果は違った。一番情けない結果で終わってしまった。お陰で勝負は水物だって身を以て知ったよ」


 これはきっと小夜子ちゃんが相手だから伝えられたに違いない。母さんにも、ばあちゃんにも、赤木にも木村先生にも言えない気持ちでも、彼女だから受け入れてくれると確信していた。


「だからもう油断はしない。明日からは気を引き締めて、一日一日を大切にして練習に打ち込むよ」


 あるいは胸の内に秘めた炎を彼女に受け取ってほしかったのかのかもしれない。それとも、先輩に勝つと誓いを立てて得られた勇気を再び授けてほしかったのだろうか。僕は無自覚であったが出来る限りはっきりとした言葉で、彼女に気持ちを受け取ってもらえるよう告げたのだった。


「航ちゃん……。私も一緒に頑張りたい。航ちゃんと同じ目標を追っかけたい!」


 小夜子ちゃんは目を爛々と輝かせ、息巻いてそう応えた。

 僕と彼女の気持ちは同じだ。インターハイというとてつもなく高い壁を超えることを同じく目標とし、手を繋ぎ、携えて突き進む。彼女とならどんな困難も乗り越えられるはずだ。


 愛情は海よりも深く、太陽よりも熱い。

 絆はダイヤモンドよりも硬く、月よりも美しい。


 この時僕はそう信じて疑わなかった。

 それなのに来年に迫った受験と進路の話だけは忌み嫌い、決して口にしようとしなかったのは弱さ故なのであった。


 *


 お弁当を食べ終えた後は芝生の上で持参したテニスボールでキャッチボールをして遊んだり、海辺を散策しながらお喋りや小夜子ちゃんのデジカメで記念撮影をして過ごした。そうしているうちに楽しい時間はあっという間に過ぎ、日が傾いて気温がじわじわと下がっていった。


 日没までまだ少しだが猶予がある。でもあまり暗くなるとおじさんとおばさんが小夜子ちゃんの身を案じると思い、長々引き止めることは遠慮された。


「そろそろ帰ろうか」


 繋いだ手の指先と甲が冷たい風に晒され、秋が去り、冬がやってくる足音が聞こえてきた。


 小夜子ちゃんと仲良くなったのは今年の四月、クラス替えで同級生になったことが切っ掛け立った。

 それまではただの部活仲間の真面目な眼鏡っ子くらいにしか思ってなかったのに、話してみると表情豊かで意外とノリが良く、もっと早くから仲良くなれば良かったと悔やまれた。

 でもその分、恋人として過ごすこれからの時間を濃厚にしていきたい。彼女のことをもっとたくさん知りたい。来年は部活動と受験勉強で忙しい一年になるだろうが、彼女との仲をもっと育んでいける年にしていきたい。いや、そうなるよう努めよう。


 陽の光が遮られた遊歩道を沈黙のままに進む。他の来園者はとっくに帰ってしまったようで辺りに人影は無い。木々の間を二人きりで歩いているとまるでヘンゼルとグレーテルになった気分だ。


「ねぇ、航ちゃん」


 街灯の真下に差し掛かった時、不意に小夜子ちゃんが足を止めた。手を繋いでいた僕も彼女に合わせて歩みを止める。


「今年は本当に楽しい一年だったよ。部活動に打ち込めただけじゃなくて、航ちゃんとも恋人になれて。一年生の頃は航ちゃんのこと部活仲間くらいにしか思ってなかったけど、こんなことならもっと早くからお友達になっておけば良かった」


 と、彼女は柔和な笑顔と共に今年一年の総括を語った。偶然の一致か、あるいは以心伝心か――いや、きっと後者に違いない。


「今、僕も全く同じことを思った。小夜子ちゃんと恋人になれて良かったと。もっと早くから仲良くなりたかったと」

「本当?」


 こっくんと深く頷き、彼女の瞳を見つめた。少し低い目線の位置にある彼女の瞳は涙で潤み、暖色の街灯の色を反射して夕陽が沈みゆく海のよう。その得も言われぬ美しさはこの世のどの湖や海よりも美しいことだろう。


「ねぇ、良いかな?」


 右手をそっと彼女の頬に添え、何がとは言わず問う。彼女は一瞬身をすくめ、目を見開き大層驚いた様子だったが、温かな頬を紅潮させゆっくりと頷いた。


 この日、僕は生まれて初めて女の人と口づけを交わした。秋の熟した果実よりも甘くて柔らかく、生涯忘れ難い味であった。

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