第29話 初恋の日

 小笠原先輩に引導を渡した地区大会で僕はその後準決勝を勝ち上がり、決勝戦で赤木を退けた西陵館の虎こと津田さんと対決した。赤木の仇を討たんと息巻いて対峙したが、結局僕は彼と同じくストレート負けを喫することになり、成績は準優勝で終わった。

 しかし悲観することはなかった。この夏の大会では小笠原先輩に勝つことばかり考えていたため、いざ表彰台に上るとなるとその栄光に身が焦がれそうな思いであった。何より準優勝となるとその先の全国大会へ出場することとなる。さらなる激闘が僕を待っていることだろうと武者振るいをしたものだ。


 その報は大会後、運動部を中心に学校中を駆け巡り、僕はちょっとした有名人になった。僕達の学校は公立高校で、部活動はあくまで学業のオマケくらいの位置付けだ。そのため上位の大会にまで出場する選手というのはここ数年間現れず、久々の全国大会出場者というのはそれだけで快挙を達成したような扱いだ。

 クラスではホームルームで担任から周知され、仲の良い友達はもちろん、クラスの二大マドンナの日下部さんと松本さんからそれぞれ惚れ惚れするような笑顔でおめでとうと賛辞を贈られたほどだ。

 バドミントンの練習を始めようと体育館へ赴けば名前も知らない運動部員から擦れ違いざまに褒められた。

 さらにインハイ効果はそれだけに留まらず、夏休みまでの間になんと三人の女の子から告白をされてしまった!


 同じ部の一年生、隣のクラスの吹奏楽部員、生徒会執行部の三年生と皆見目麗しく、人生初のモテ期到来にこの世の春を謳歌する思いだった。


 運動部から尊敬の眼差しを向けられ、先生達からも褒められ、女の子達からは羨望の眼差しを向けられ、告白までされる始末。まるでスーパースターだ! インハイで勝ち進んでこのような恩恵を受けられたから、僕はこの現象を『インハイマジック』と呼ぶことにした。


 だがインハイマジックによってもたらされた告白はいずれも断った。なぜなら僕には既に思いを寄せる相手がいる。好意を寄せてくれた彼女達には申し訳ないが、その告白があったおかげで男として自信を持つことが出来、僕はいよいよ想い人への告白を決意していた。


 *


 八月中下旬、土曜日の夕方のこと。僕達バドミントン部と顧問の木村先生、そして父兄の方々は市内近郊の海辺のキャンプ場に集まっていた。部員は体操服、大人はジャージかラフな私服と完全なレジャーの装いだ。


 インターハイが終わって迎えた最初の土曜日のこの日、三年生の送別会、僕の地区大会準優勝祝い、そして夏の大会の慰労会を兼ねたバーベキュー大会が開かれることになった。


 三年生は今日を以て引退する。ほとんどの三年生は地区大会終了後に部活には来なくなり、早くも受験モードに切り替えていたが、部としては今日が引退の日と捉えている。このため最近見かけなくなった先輩方を久々に拝むことになった。その中にはもちろん、僕から左右の金玉に打撃を受けた小笠原先輩の姿もある。


 三年生代表として男女両部の部長がスピーチをする。顧問、父兄に三年間の指導と支えに感謝を述べ、後輩にエールを送る内容だった。次に次代の部長と副部長の発表が行われる。我が部では伝統的に後継は先代の部長、副部長の両名が相談し、指名することになっている。その結果、男子の部長は赤木が、副部長は僕が指名された。さらに女子バドミントン部の副部長には冬木さんが指名された。

 冬木さんは団体戦のメンバーとして実力を発揮しただけでなく、後輩への指導などサポーター的な役割を普段から積極的にこなしている。きっとそのことを評価されたに違いない。


 部長の引き継ぎ式が終わると次に表彰が行われた。主役はもちろん僕だ。僕は皆の前で木村先生と対峙し、預けていた銀メダルを首からかけてもらった。皆に向き直り、お辞儀をすると拍手が一斉に湧き起こる。唯一小笠原先輩だけは唇を尖らせ、面白くなさそうに僕を睨んでいた。僕に負けた悔しさと、全国大会で振るわなかった侮蔑が綯い交ぜになっていることをはっきりと感じられる視線だ。


 地区大会で準優勝に輝いた僕は静岡県浜松市で行われた全国大会へ出場した。しかし全国の壁はどこまでも高く、結果は二回戦敗退と振るわなかった。思い出すだけでも腹立たしいが、二回戦の相手は格下で勝てる試合だった。だが試合直前で地元から応援に来たというにウザ絡みされ、完全に調子を損なってしまった。おかげで接戦の末に敗北を喫したのだった。


 最後に新部長赤木による夏の大会の労いとバーベキュー大会開会の宣言がなされる。彼の乾杯の音頭に合わせて各々が持つジュースの入ったコップを、大人は缶のお酒を高々と掲げ、宴会が幕を開けた。


「航太郎、おめっとさん! お前はやる男だと思ってたぞ!!」


 ハイテンションの赤木がわしゃわしゃと僕の髪が乱れるくらいに撫で、この夏何度目か分からない賞賛を再び送る。


「へへ、ビールかけならぬジンジャーエールかけだ! 食らえ航太郎!」


 二年生部員が二リットルのジンジャーエールのペットボトルを勢いよく振り、開栓して僕に頭からぶっかけた。氷水で容器ごとキンキンに冷やしていたお陰で八月の暑さに火照っていた身体が芯まで冷やされる。体操服で良かった。ちなみに首に掛けられたメダルは既に母さんに預けている。


「この野郎、やったな!」


 僕は負けじとコーラのボトルを振り、同じように頭から掛け返した。宴会開始一分でジュース四リットルが地面にぶちまけられた。その様子を女子部員達は呆れ顔で傍観していた。


「なぁ、航太郎。今日からは俺とお前でこの部を引っ張っていくことになる。来年のインハイはみんなで出場出来るよう、俺達で部を盛り上げていこうぜ!」


 大笑いしていた赤木が顔の朗らかさを保ったまま、だけど神妙さを加えた表情で言う。


「うん、一緒に頑張ろう! シングルスも、ダブルスも、団体戦も、男子も女子も全員で全国進出だ!」


 僕も同じように笑みを浮かべ応じる。もう来年の大会が待ち遠しい。


 *小夜子 side*


「あーあ、男子がジュース二本も無駄にしちゃった」

「本当、男子っておバカね」


 紙皿に装ってもらったお肉を食べながら、女子部員達が呆れ顔で男子のどんちゃん騒ぎを尻目している。

 バーベキューコンロでは網の上では肉や野菜が香ばしい匂いと食欲をそそる音を立てながら焼かれている。今日は食べ放題のバーベキュー。晴天に恵まれ日中は暑かったものの、日が傾いたお陰で少し涼しくなり、絶好のバーベキュー日和だ。


 レジャーテーブルに腰掛けた女子部員達は口々に「大会お疲れ様」と労い、そして三年生とのお別れを惜しんでいた。

 女子の大会の成績はあまり振るわなかった。選手は悉くトーナメント序盤で敗退し、私が出場した団体戦も三回戦敗退と微妙な結果に終わった。その一方で私は三回の試合全てで勝利しチームに貢献出来たので、応援に来ていた両親の前で恥をかかずに済んだと胸を撫で下ろしていたりする。


 背後からまた男子のお祭り騒ぎの歓声が上がった。その方向を見ると三名の男子が騎馬戦の如く騎馬を組み、航太郎くんを乗せて御神輿を作っていた。そのまま食事をしている面々の元へ挨拶回りに練り歩いている。当然、神輿は小笠原先輩を含む三年生の一団の元も訪れた。


「しかし小笠原先輩も可哀想よね。ほとんど皆、航太郎くんを応援してたもの」

「仕方ないよ、航太郎くんの方が優しいし、格好良いし」

「あと、先輩は視線がいやらしい」


 キャハハ、と甲高い声を上げて笑う一同。丁度その彼が乗った御神輿が私達のテーブルのすぐ側を通り過ぎたので皆大喜びで手を振った。嫌味で、意地悪で、すけべな先輩を追い出してくれたヒーローに。


「そういえばさ、一年の倉田さんが航太郎くんに告ったらしいけどどうなったの?」


 突然持ち上がった話題に心臓が跳ね上がる。初耳だった。

 倉田さんというのは私の一学年下の後輩だ。背は私と同じくらいだがすらっとしてスタイルが良く、ツインテールと整った顔立ちが目を引く女の子だ。ルックスが良いので部の内外にファンの男子が多数存在すると言われているアイドル的存在。そんな子が、航太郎くんに告白を……?


「あぁ、なんか断られたっぽいよ。他に好きな人がいるからって」

「へぇ、誰かしらね」


 別の子が言う。それを聞いてホッとした。同時にその他の好きな人というのが自分に違いないと自惚れじみた確信を抱いた。

 というのも地区大会後、二人で祝勝会と称して市内のお店に佐世保バーガーを食べに行ったし、期末試験の勉強のため放課後、学校の図書館で並んで勉強したりした。もっと言えば休日も市立図書館で待ち合わせ、勉強したりもした。学校内のことはともかく、休日にお出かけするのはもう立派なデートではないか。そして普通、デートは好きな女の子とするもの。つまり、航太郎くんの好きな人というのは……。


「小夜子ちゃん、ぼんやりしてどうしたの?」

「え、なんでもないよ!? 次は何食べようかなぁと……」

「小夜子ちゃん食いしん坊!」


 また甲高い笑い声が湧き起こる。あぁ、恥ずかしい。航太郎くんの話題はとっくに過ぎ去ったのに、私一人だけ彼のことを考えていた。というか彼のこと以外もう考えられそうにない。こんなプチ女子会を抜け出し、彼の元へ駆けていきたい。


 もちろんそんなこと出来るはずはない。航太郎くんはこの席から離れたテーブルで男の子同士で団子になり、バーベキューを楽しんでいる。同じバドミントン部同士だから混ぜてもらう権利はあるはずだが、あの中に飛び込んでいくのは私には無理だ。生徒だけの集まりならいず知らず、今日は私の両親も父兄として参加している。親の前で男の子と親しそうにするのは恥ずかし過ぎる。


 自らの勇気の無さを悔やみながら、空になった紙皿を携え立ち上がり、肉が焼かれるコンロに向かった。コンロではお母様方がせっせと私達のためにお肉を焼いてくれていた。調理は女の仕事というわけだ。


 三つ程あるバーベキューコンロの側では私の母が誰かの母親と思しき女性と楽しそうに話していた。缶ビールを飲みながらトングで器用に肉を焼くその人は髪が長く、目元が切長でシャープな印象を抱かせる。私のお母さんが円ならこの人はとんがった三角形。真逆のルックスをした人だった。そして多分、私のお母さんより一回りは若いだろう。


「じゃあ、冬木さんのところは女の子が三人もいらっしゃるのね。良いわね、私も女の子産めば良かったわ」

「三人もいると毎朝毎晩お喋りがうるさくて仕方ありませんよ。女三人揃うとかしましいって本当だったわ」


 その女性は冗談なのか本心なのかそんなセリフを言う。一方のお母さんも朗らかに答える。きっと謙遜だ。そう思いたい。


「そうですか? うちは男一人だからつまらないですよ。それに毎朝毎晩二人分の食事を食べるんですもの。やれ握り飯を作れだの、やれ米をもっと炊けだのと注文ばかり一丁前に」

「まぁ、恐ろしい! でも作り甲斐がありそうね。うちの達は色気づいて体重気にしてお米食べないんですよ」


 終いには私達姉妹のダイエット事情まで話題にし始めた。あぁ、恥ずかしい。


「ちょっと、お母さん。他所の人にそんな話しないでよ」


 私は溜まらずお母さんに文句を言う。お母さんは私の存在に気付いてなかったらしく、声をかけられ罰の悪そうに笑い、誤魔化した。


「小夜子、航太郎くんのお母さんよ」


 と、今話していた女性を紹介された。母はプライベートでは私を愛称で呼ぶが、公の場ではきちんと名前で呼ぶ――って、えぇ!? 航太郎くんのお母さん!?


「え、え、えと……初めまして! 冬木小夜子です! この度は航太郎くんの準優勝と全国大会出場、おめでとうございます!」


 背中にビリビリとした緊張感を感じながら、私は自己紹介し、ついでに息子さんへの賛辞を添えてお辞儀をした。はわわ、まさかお母様だったとは。


「ま、行儀の良いお嬢様! 冬木さん、娘さん三人もいるんだからさっちゃん貰ってっても良いかしら!?」

「ふふふ、不束ふつつかな娘ですが」


 えええ!? 私、航太郎くんのお家に貰われるの!? もちろん冗談なんだろうけど、三人いるからって子犬じゃあるまし。


 航太郎くんのお母さんはニコニコ顔で少し焦げているが食べ頃になった鶏肉やソーセージを私の紙皿に装ってくれた。それが目的のはずだったのになんだか恐縮してしまう。というかお母様の前で食べてばかりではマズいのではないか? 私も何か手伝った方が良いのでは。そう思い、何かすることはないかとお母さんに尋ねる。


「じゃあ、お父さんと先生のところにビール持って行ってあげて」


 と、母はクーラーボックスに視線を向ける。うーん、そういうお手伝いじゃなくて、もっとお母様の目の届く所での仕事が欲しいのに。


「お肉も食べ頃だからこれも持って行ってもらいましょうかね」


 と私の心の叫びが届いたのか、お母様が何気なく提案する。


「私、持っていきますね」


 私はすかさず手を挙げた。


「ありがとう。本当に良い子ねー。でも無理しなくて良いわよ」

「い、いえ。このくらい……」

「航ちゃん、航ちゃーん」


 お母様は私を気遣うもなんとか食い下がろうとする。だがそれに気づかず、代わりに私の背後に向かって声を上げた。振り向くと別なコンロの肉にありつこうとやって来た航太郎くんが背を向けていた。しかし呼ばれているのに振り返らない。


「全く……。航太郎!」


 お母様がため息を付き、ピリッとした声で彼を呼ぶ。なんとも迫力のあるお声だ。

 そしてようやく呼ばれたことに気付いたらしく、航太郎くんは振り返った。ちょっと不機嫌そう。


「このお肉、先生達に持って行って」

「外でその名前で呼ぶなって言ってんじゃん」

「返事」

「……はい」


 有無を言わさぬ勢いで肉が装われた紙皿を突きつけられ、唇を尖らせる航太郎くん。小笠原先輩に食ってかかる勇気はあるのに、お母様には頭が上がらないご様子だ。うちのお母さんはその様子が面白かったらしく、くすくすと笑っていた。私もちょっと可愛いなと思ったのだった。


 私は母から言われた通りクーラーボックスからキンキンに冷えた缶のお酒をビニール袋に移し、航太郎くんの後を追う。


「航ちゃん!」

「うわっ!? って冬木さん。なんでその名前で呼ぶの?」


 背後から呼び止めると彼は目をまん丸にして振り返った。


「だめ?」

「恥ずいから……」

「でも可愛いよ?」

「……じゃあ、二人きりの時なら」


 不承不承な口ぶりで、顔を赤らめながらぶっきらぼうに言う。嫌がっている呼び方をするのは少し気が引けたが、子どもっぽい呼ばれ方をされて恥じらう彼はすごく可愛い。許可も下りたことだし、遠慮なく呼ばせてもらおう。


「航ちゃんのお母さん、すごく若いね。おいくつくらい?」

「確か短大出て、上京して働き始めて、すぐ結婚して僕を授かったって言ってたから……まだ四〇歳手前とか? あ、でも自称三五歳だけどね」

「へぇ、通りで。綺麗で優しそうだね」


 そうかな、と航太郎くんはまた無愛想に呟いた。


「そういえば、今日って冬木さんのお父さんも来てるんだよね?」

「そうだよ。木村先生達と飲んでるよ」

「じゃあ、これからとご対面なのか……」


 航太郎くんは緊張した面持ちで独りごちた。


 私のお父さんは西陵館高校で数学教師をしていて、顧問の木村先生とはかつての同僚で旧知の中だ。今日は父兄としてだけでなく親睦を深める意味でも参加したのだ。もっともすでに出来上がった様子なので、単におじさん同士でお酒を飲みたいだけなのかもしれないが。


 おじさま達は子どもの一団から少し離れた所でテーブルを囲み、大きな声で笑いながらお酒の缶を次々と空にしていた。


「お父さん、お酒持ってきたよ」


 その席の一人――我が父にお酒が入ったビニール袋を掲げて見せた。


「おぉ、小夜子。ここに置いてくれ。……と、隣にいるのは我らの銀メダリストだな!?」


 もみあげと繋がった髭に丸眼鏡、五〇歳にしては血色が良く体格もがっしりしたこのおじさんが私の父だ。この風体と性格は、なるほど、おじきとはよく言ったものだと娘ながらに頷ける。


 そのお父さんは航太郎くんを見るなり目を爛々と輝かせて絡んできた。釣られ、先生や他のお父様方も嬉しそうな顔で視線を彼に向けた。


「は、はい! 初めまして。お肉が焼けたので持ってきました」

「はい、そこに置いとって」


 木村先生が煙草をプカリと吹かしながら言う。


「木村先生、部からインハイ出場者が出て鼻が高いでしょう!」

「えぇ、久々に校長先生から褒められましたばい。出来れば優勝してほしかったとですがねぇ」


 先生は皮肉まじりに返すが、表情は得意満面だ。お酒が入っていることもそうだが、先生がこんなふうに無邪気に笑う姿を見られるのは珍しい。一方の航太郎くんは来年に向けてプレッシャーをかけられ、苦笑していた。


「わはは、今回はうちの津田が白星をつけましたからな」


 お父さんは調子付いて自慢気だった。それを聞いて航太郎くんは決勝戦のことを思い出した様子だ。


「そういえば津田さんは西陵館でしたね。ご存じなんですか?」

「ご存じも何も、あれは三年間おじさんのクラスの子なんだよ。だから決勝戦は津田を応援しちゃったんだよね。悪いね、航太郎くん」

「いえ、勝負事なので恨んでなんかいません。むしろ津田さんはインハイで優勝されたので、勝負出来て誇らしいです」

「おぉ、言うねぇ!」


 少し嫌味なことを言うお父さんの言葉に、航太郎くんはさっぱり格好良く返した。こうやって爽やかに大人と話せるだなんて、やっぱり都会の人だからなのかな。


「じゃあ、ここで一丁来年の抱負を聞かせてもらおうか。副部長に就任したわけだし」


 私達二人共、このおじさん達の絡みから早く抜け出したいのにお父さんは一向に解放してくれる様子がない。お父さんはお酒に酔うと結構絡んでくる人だ。


「ほ、抱負ですか? それでしたら赤木とも話しましたが、来年はシングルスだけでなくダブルスと団体でも勝ち進んで、皆で全国に行きます!」


 航太郎くんの堂々とした宣言におじさん達がおぉ、と地鳴りのような低い声でどよめいた。というか赤木くんとそんな話をしてたんだ。こんなところで宣言してプレッシャーにならないかな?


「わはは、皆で全国とは大きく出たな。でもそれくらい高い目標じゃないと跳ねられないわな。木村先生、来年は忙しくなりまずぞ!」

「ははは、全国に連れてってくれるなら嬉しい悲鳴ですよ」


 天まで届き、雲を吹き飛ばしてしまいそうな笑い声が勢い良く噴き出す。いい加減疲れてきたので私は先生に一礼し、航太郎くんを連れて鬼達の宴会場を後にした。


「おじさん、面白い人だったね。まさにおじきって感じ」

「お酒を飲むといっつもあんな感じだよ。あぁ、恥ずかしい。私、大人になっても絶対お酒なんか飲まない」

「僕もやめとこうっと」


 未来永劫禁酒を誓い合う私達。そう、酒は百薬の長などと言うそうだが、実際は百害あって一利なし。酔っ払って口が滑ったり気が大きくなったりして人生を棒に振る大人が沢山いるとニュースでも取り上げられている。なのにどうして大人はあんなに楽しそうに、気軽にお酒を飲むのだろう。


「ねぇ、冬木さん。ちょっと二人で歩かない?」


 疑問に思いつつ歩く中、航太郎くん――いや、航ちゃんがそう誘ってきた。先ほどまでおじさん達に絡まれてた余韻のため意識しなかったがいつの間にか二人きりだ。

 どきりとしながらも胸の中がじわりと温かくなり、私は頷いた。


 こうして航ちゃんから誘われるのは何度目だろう。今のところ行き先は図書館がほとんどだがそろそろ慣れても良さそうなものの、まだハラハラする。しかも宴会を抜け出して二人きりになりたいだなんて、他の女の子に比べて明らかに特別扱いされている。お陰で胸がドキドキして落ち着かない。


 私達は浜辺の方へ歩き、海風を感じながら柵沿い沿って無言で進んだ。塗装された木の柵が規則的に並んでいたが、一箇所だけ間が空いており、階段を伝って砂浜に降りられるようになっていた。階段を降りると柔らかい砂地の感触に胸が躍る。漣の音は規則的なようで、時折チャプチャプと奏者が間違えたように可愛らしい音が混ざっていた。


「航太郎くん……あ、違った。航ちゃん!」

「言い直さなくたって……」


 航ちゃんは苦々しげに、それでいてふにゃっと可愛らしく笑った。私も特別な響きに笑みを抑えられず溢してしまった。

 このニックネームが彼にとって特別なものだとはお母様とのやり取りですぐに察せられた。家族だけが呼ぶ特別な名前。私にも同じように家族だけが呼ぶ愛称があるから気持ちが分かる(さっき航ちゃんのお母様にも呼ばれた気がするが)。生まれてから今日まで、彼は何度も航ちゃんと呼ぶ声に愛情を乗せられ育ってきたのだろう。そしてその名を自分が口にすることはおそれ多くも誉れ高く、また彼の秘密を共有し、特別で神秘的な世界に身を置いている気分だった。


「航ちゃん、改めて地区大会準優勝おめでとう」


 もう何度目か分からない賛辞を口にする。彼もとっくに聞き飽きてもおかしくないのに、そんな様子はおくびにも見せない。何度でも満面の笑みで礼を述べるのだ。


「ありがとう。冬木さんのお陰だよ。冬木さんがアリーナから応援してくれたから力が湧いてきて、パイセンに勝てた」

「ふふ、私は声を張り上げてただけだよ。航ちゃんが自分の力で先輩に勝った。航ちゃんは自分で言ったことを必ず成し遂げる、それが出来る人なんだよ」

「そんなことないって。冬木さんが応援してくれなかったら絶対勝てなかった」

「いやいや、そんなこと」

「いやいやいや、そんなこと」


 謙遜を何度も被せ合い、収拾がつかなくなりそうだ。それをお互い察し、どちらからともなく笑った。やがて笑い声が止み、会話が途切れてしまった。佐世保バーガーを食べた日や図書館の帰り道では会話が途切れることはなかったのに、なぜか航ちゃんは水平線に視線を向けて黙り込んだ。私も釣られて海原の果てを無言で眺めた。


「綺麗な海だね」


 ポツリと、航ちゃんが唐突に呟く。それなのに海ではなく、私を見つめていた。水平線に沈む夕日に照らされ、彼の顔は赤くなっていた。


「そうだね。私の……故郷の海だよ」


 故郷は私にとって宝物。それを褒められ、私は嬉しくて自然と笑みを浮かべた。


「僕、長崎に来られて本当に良かったよ。赤木や冬木さんと仲良くなれて、部活にも打ち込めて」

「そうなの? じゃあ、長崎のこと好きになった?」

「うん、好きになった」


 その瞳が細められ、相形が崩れる。頬は夕日よりも赤かった。


「冬木さんのことも、好きになったよ。だから……僕と、付き合ってほしい」


 突然、風と波の音が消え失せた。


 スマッシュのようなどストレートの告白文句。私は驚くあまりに両手で口元を塞ぎ、すぐに返事が出来なかった。まるで雷に打たれたような衝撃が走り、身体の自由を奪われてしまった。


 返事をしたかった。

 私もあなたが好きだと好意を受け取ってほしい。彼が伝えてくれた好意に私の好意を上乗せして、何がなんでも送り返したい。

 でも息をするのも不自由な私は、そのことをちゃんと分かってもらえるよう大きく頷くので精一杯だった。


 お腹の前に下ろし、ギュッと指を結んでいた手を航太郎くんが両手で優しく包む。目と鼻の先、少し上の位置に彼の朗らかで格好良い顔があって、にっこりと笑んでいた。大会の表彰式の時に浮かべていた誇らしげなものとは異なる、優しい笑顔だ。


 私も、あなたのことが大好きなの。

 呼吸を意地で抑えて宥め、そう返そうとした矢先だった。


「お、お、お前ら……そういう仲だったのか!?」


 驚きに満ちた声が私達の間に割り込んできた。声がした方向を見ると赤木くんがあんぐり口を開け、柵から身を乗り出して私達を見下ろしていた。


「大変だ、皆! 航太郎が冬木に告ったぞー!!」


 赤木くんが狂乱状態で叫びながら駆けていった。顔を真っ赤にさせた航ちゃんは私の手を離し、叫びながら階段を駆け上がり赤木くんを追いかけていった。私も慌ててそれを追う。

 この後、部の皆からの散々な質問攻めに遭うわ、お母さん達から冷やかされるわで送別会どころではなくなってしまった。


 この日は私にとって一生忘れられない思い出の日となった。

 真夏のサンセットタイム、私は愛の告白を受けた。

 少し遅めの初恋が実った日だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る