第2話


 何か恩返しがしたいな。


 柚月ゆづきの家で夕食を食べ、柚月とその家族と縁側で花火を楽しんだ日の夜、祖父母の家の布団の中で慶太けいたは考えた。


 日頃はからかうようなことばかり言ってくる柚月だけど、自分のことを色々と助けてくれていることは慶太にも良く分かっていた。


 ふと、花火の時の柚月の姿が頭に浮かんだ。風鈴がチリンと風に揺れ、線香花火の頼りない明かりが柚月の顔を優しく照らし出していたのを思い出す。


 夏休みが毎年こんなに楽しいのはきっと柚月が居るからなんだ。だから夏休みはこんなに楽しくて短いんだ。だからこそきちんとお礼がしたい。慶太はそう思いながら瞼を落とした。

 



 慶太が都会に帰る日がきた。その日、慶太は渡したいものがあると、柚月をお互いの家の間にある神社に呼び出した。どちらかの家だと家族に見られてしまうと思ったからだ。それを誰かに見られることは慶太にとってはなんだか照れくさく感じた。


「柚月には色々教えてもらったから、これ」


 そう言って慶太が手渡したのは月の模様の入ったシュシュだった。お小遣いを貯めて用意したものだ。柚月は、


「凄く嬉しいよ。ありがと」とお礼を言ってそれを受け取ると、「今付けてみよっか?」と慶太に訊ねた。慶太が頷くと柚月はシュシュを髪に付けようとして「もう少し髪伸ばさなきゃ上手く付けられないみたい。それまでは腕に付けておくね」と笑った。そのあとで、「実はね、私も慶太にプレゼントがあるんだ」と言って隠し持っていたそれを取り出す。


「それ、なに?」慶太が訊ねると柚月は、ミサンガだよ、と教えた。


「これを腕か足に付けておいていつかこの紐が切れると願いが叶うんだよ。慶太もっと速く走れるようになりたいって言ってたよね? だから、これ」そう言って慶太に手渡した。


「頑張って私より速くなるんでしょ?」微笑みかける柚月に慶太は力強く頷いた。頷いたあとで「来年の夏は絶対勝つから」と伝えた。柚月は「待ってるよ」と言ってニッと笑った。



 

 夏休みが終わり二学期が始まった。小学校最後の運動会の百メートル走で慶太は初めて一着になれた。今年は特に柚月に教えてもらったとおりに走れた気がした。


 中学生になったら陸上部に入ろう。柚月のように。そう考えると少しだけ柚月に近づけたような気がして嬉しかった。




 台風がもたらす長雨によって、祖父母の暮らす町で土砂崩れが起きたと両親から聞いたのは、運動会が終わって一週間後のことだった。




 土砂崩れが発生したのは祖父母の家の建つ場所とは反対方向だったことから、祖父母の身に危険はなかったと両親は安堵していた。しかし反対方向には柚月達が暮らす家があったことを知っている慶太は気が気がではなかった。


 祖父母の話によると、幸いにも事前に避難を完了していたこともあって死者はでなかったそうだが、押し流された家屋は十数件にも上ったらしく、その家に住む人達の中には親族を頼って他所よそに越してしまった家族も居るとのことだった。そして柚月の家族も遠くに越してしまったらしかった。

 

 慶太は毎日柚月のことばかり考えていた。祖父母に訊ねても柚月達一家が何処に越してしまったのかまでは分からないそうだった。


 待ってるって言ったくせに。慶太は左腕に巻いたミサンガをぎゅっと握った。


 僕の一番の願いは足が速くなることじゃないのに。慶太は柚月に会いたいと思った。




 あれから五年が経ち、中学、高校と陸上を続けてきた慶太の左腕にはまだあの時のミサンガが切れずに巻かれていた。ずっと大事にしてきたミサンガは色あせてしまっていたが、それでも柚月のことを忘れることはなかった。


 足は速くなった。

 

 背も高くなった。


 多分、柚月よりも。


 決勝戦を三十分後に控えた慶太はトラックへ向かった。陸上男子決勝。一年生にしてこの大舞台に立つ慶太に他校の代表選手も注目している。


 ここで勝てば全国一位だ。慶太は自身に気合を入れる。


 八月の空は快晴で、立っているだけで額に汗がにじんだ。トラックでは今まさに女子の百メートル決勝が行われるところだった。


 三年の女子で物凄く速い選手がいるらしい。他校の生徒が話していたのを思い出し、慶太はトラックまで数十メートルほど離れた場所から噂の選手を探した。


 On your mark


 審判員の掛け声で女子選手たちが位置に着く。静まり返った競技場に『カナカナカナ』とひぐらしが鳴くのが遠く聞こえた。


 日差しが暑い。


 柚月はまだ陸上を続けているのだろうか。ふと、そんなことを慶太は思った。 


 Set


 選手たちが一斉に構える。決勝が始まる。


 その時、本当に何の前触れもなく、はらりとミサンガが切れた。


 あっ、と思い、慌てて慶太は下に落ちたミサンガを拾う。ピストルの合図が鳴った。


 慶太が顔を上げる。一斉にスタートを切った選手たちが、慶太のいる場所の前方を風を切るように通過していく。


 その中に頭一つ抜け出した選手が一人居た。長い髪を後ろで一つに束ねた、フォームの綺麗な選手だった。


 日差しが暑い。


 あの夏の日を思い出す。


 シュシュで束ねた長い髪を揺らしながら、今、その女性選手がゴールテープを切った。


 

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夏と虫箱と恩返しのラブコメ nikata @nikata

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