第7話 美鈴の回想②

 

少年の指示に従って上流側から美鈴、美鈴の母、叔母、叔父、美鈴の父が横一列に並ぶ。こんな時なのにどっちが軽いかでもめる母と叔母の醜い争いに美鈴は苦笑するしかなかった。


「で、子供二人はお父さんたちが肩車してあげてください」

 

幼い美鈴の妹と従妹がそれぞれの父親に肩車される。子供二人はこんな時なのに肩車されてはしゃいでいた。


「そんで、子供二人以外の全員がこの竹竿を両手でしっかり握ります。ここからだと向かって右側が上流になるんで、左腕は脇を締めて、右腕は上流の方へ伸ばして。ちょうど綱引きみたいな体勢でしっかり握ってください。そう、そんな感じです」

 

全員が指示通りにしたのを確認して、少年が一番下流側で同じように竹竿を握る。


「このまま、竹竿を流れに平行にしたまま川を渡ります。このやり方だと、上流側の人の体が流れを割ってその後ろの流れが緩やかになるんで下流側の人は楽に動けます。で、上流側の人はバランスを崩しても下流側の人がアンカーになって支えてくれるんで、その間にバランスを回復できます。……ただし、この竹竿がほんとに命綱なんで、これから手を離したら死ぬと覚悟してください。助けようとしたら全員が流されますから助けようとするのも禁止です。手を離して流された人間はマジで見捨てるので自力で何とか頑張ってくださいね」

 

少年は冗談めかして言ったが笑う者は誰もいなかった。


さっきまで乾いた中州だったここでさえ、すでに水はふくらはぎのあたりまで来ていて気を抜けば足をとられそうになるのだから奔流と化しているこの川を渡るのが本当に命懸けなのは疑いようがない。


「もし、最悪手を離してしまっても、なんとか俺のロープを掴むことができれば助かりますからそれだけ覚えといてください。じゃあ、もう時間がないから行きますよ。さっき俺がしたと同じように下流に向かって斜めに流れを横切ります」

 

少年の号令に合わせて全員が横一列にまま、一歩ずつ流れに足を踏み入れていく。踏み出すごとに水は深くなり、小柄な美鈴は胸まで水に浸かった。


予想していた以上に流れも早く、美鈴は何度も体が浮き上がりそうになるのを感じ、その度に必死で竹竿にしがみついた。


美鈴がバランスを崩しそうになるたびに少年がストップの声を上げ、美鈴がバランスを取り戻すまで待ってくれた。美鈴が川底に足が着くのを待ってから再び一歩ずつ歩き始める。

 

川を渡り始めるまでは、ほんとにこんな竹竿一本でこの川を渡れるのかな、と正直なところ半信半疑だった。でも、実際にやってみれば確かにこのやり方は実際的な方法だと納得できた。

 

美鈴は、知識の有無が生死を左右することがあるということをこの時初めて実感した。

 

一番下流側で舵取り役をしてくれている少年、彼がいなかったらきっと自分は流されて溺れていたはずだ。


少年の方をそっと窺い、美鈴は今更ながら彼が上半身裸で、その無駄な肉が一片も付いていない鍛え上げられた身体を惜しげもなくさらしているということに気づいて顔が熱くなるのを感じた。


慌てて前に向き直るが、ついついちらちらと少年の方に目が行ってしまう。


少年はここにいる他のみんなとは違い、不安をおくびにも出さずに堂々としていて、冷静に的確な指示を出していく。そんな頼もしい少年の姿に胸の鼓動が高まる。


……かっこいいのです。あ、そういえばお兄さんの名前まだ聞いてないです。向こうについたらお礼を言って名前を聞いてみようかな。それで、も、もしできるならケータイのアドレスも交換できたらいいのです。


渡河も残り三分の一を切り、もうすぐ助かるという気の緩みから、美鈴は余計なことを考えて集中力を途切れさせてしまっていた。

 

それがいけなかった。


「うあっ!?」

 

足元の注意を怠った美鈴は水蘚(みずごけ)でぬるぬるになった石で足を滑らせ、つい、命綱である竹竿から手を離してしまった。

 

しまった! と思う間もなく流され始める。


「美鈴っ!?」

 

母親が悲鳴を上げ、少年が叫ぶ。


「助けようとするなっ! 全員死なす気か!! お譲ちゃん、俺のロープを掴めっ!」

 

美鈴は少年のロープに手を伸ばしたが届かなかった。次の瞬間には濁流に呑まれて上も下も分からなくなった。

 

ガボガボと水を飲みながらやっと川面から顔を出すと、家族たちとはすでにかなり離れてしまっていた。


必死に水を掻いても流れが強すぎてどんどん押し流される。

 

濡れた服が重くて体の自由が利かず、だんだん水を掻く力が無くなってきて沈み始める。

 

いやだ! 死にたくない!

 

なんとか水面から顔を出して空気を吸うが、大量の水も吸い込んで激しく咳き込み、パニック状態で再び流れに没する。必死でもがいたが、もう一度浮かび上がる力は残っていなかった。


ガボッと肺の中に僅かに残っていた空気が吐き出され、代わりに流れ込んできた水が肺を満たし、浮力を失った体が川底を転がりながら流されていくのを朦朧とした意識のなかで自覚する。


……ああ、死んじゃうですね。


すでに身体の感覚はなく、かろうじて意識だけ保っていた美鈴は、ふいに後ろから力強い腕に抱きかかえられて持ち上げられるのを感じ、意識を失う寸前に少年の叫び声を聞いた。


「確保したぞ! 一成! 引っ張れぇぇぇぇ!!」




病院のベッドの上で美鈴は意識を取り戻した。

 

父親から聞いた話では、自分がロープを掴めずに流れに呑まれた直後、少年が父親に「このまま落ち着いて川を渡りきるように」と指示を出して、自分を助けるために流れに飛び込んでいき、意識のない自分を水から引き上げ、すでに呼んであった救急車が到着するまでの間ずっと、二人がかりで人工呼吸と心臓マッサージを続けてくれていたのだという。

 

あの日、急に増水した櫛田川では水難事故が相次ぎ、十人以上の人間が亡くなるという惨事になっていた。


そんな中、美鈴たち七人全員を無事に救出した高校生二人組の活躍はテレビや新聞で大々的に取り上げられ、美鈴はそれを見て自分を助けてくれた少年たちが何者かを知ることができた。

 

射和高校において発足したばかりの同好会『サバイバル研究会』の茂山大介と坂東一成。

 

あの奔流を渡って助けに来てくれ、流された自分を助けるために即座にその命を懸けてくれた大介と、彼から預けられた命綱を決して放さずにたった一人で二人を水から引き上げた一成。

 

二人は救急車が到着するまでずっと、心肺停止状態だった自分を蘇生させるための努力を続けてくれていた。


彼らの迅速で的確な処置がなければ、あのまま死んでいたか、脳に重い障害を抱えるようになっていたかも知れない。

 

二人は美鈴にとってまさにヒーローだった。


この時から彼らが美鈴にとっての目標になった。

 

それで、夏休みが明けてすぐ、美鈴は第一志望校をそれまでより幾分かランクの低い射和高校に変更したのだった。

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