スティグマ

水木レナ

第六稿

 暑い夏だった。

 ひらり、宙に舞い、軽やかで華やかなチアリーディング。

 しょうは甲子園の応援で先輩から譲られたばかりのゼノのマウスピースから口を放した。

 すぐ近くで彼女は踊っていた。

「うわぁ…………」

 昌が思わず声を漏らすと、彼女もこちらを見上げて微笑んだ。

 輝く真っ白な十本の歯。

 彼女が身にまとっている衣装は、白いブラウスに赤いスカート。胸元には青いリボンタイをつけている。頭には真っ赤なカチューシャ――そして金色のポンポンがはしゃいでいた。

 勝利のラインダンス。のびやかな手足。

 高校生活の思い出にと入部した吹奏楽部で、こんな光景を見られるなんて。

 その日から昌はまいだけを見てきた。

 憧れと羨望と眩しさで心がくらむ。

 だけど昌は施設育ち。

 原則十八歳で施設を出なければならない。あと二年もない。この日々も終わりだ。

 それなのに今さらどうして?

「…………あのさ」

 意を決して声をかけた。

「なぁに?」

「えーっと…………」

 何て言えばいいのか。

 いくら勉強ができても、大学へ行きたくても、恋をしたくともタイムリミットまでわずかしかなかった。


九条くじょう 舞さん、あなたが好きです! お願いします!」

 昌は唐突だった。

 舞は小首をかしげ、尋ねる。

「どうして、私なの?」

「あなたのチア姿に……その! ひとめぼれです!」

「そう」

 舞は少し考えてから言った。

「わかったわ、いいでしょう」

「えっ!?」

 あまりにあっさりとした返事で、昌は逆に驚いた。

「お付き合いしましょう」

「ほ、本当ですか? やったー!!」

 昌が飛び跳ねて喜ぶと、舞も微笑んだ。

 ――そんな夢を見ていた。

 浅くうなずいて、舞は申し訳なさそうにした。

「もうチア部は引退したし、私はそんなふうに想ってもらえるような娘じゃないから」

「そんなことはありません! あなたの笑顔は最高です」

 サッと白い花束をさし出し、昌はもう一度。

「オレとつき合ってください!」

 声がひっくり返ったが、やり直しはきかない。

「ありがとう、でもごめんなさい」

 ガーン! 衝撃に意気消沈する昌。

「そんな! オレ、ずっとずっと……あきらめません!」

 

 その場に花束を置いて、屋上への踊り場で昌は泣いた。

 そこへ御神楽みかぐら りゅうが来た。

 膝を抱えうずくまる昌を見下ろして、

「うわさになってるぞ」

「ッ!」

 昌は鋭く目だけを向け、隆をにらんだ。

「朝から呼び出したりするから……だいたい、なんで舞なの?」

「舞さんを呼び捨てすんな! オレがフラれたからって、おまえに関係ないだろう!」

 ふーん、と鼻をならして、隆は昌の隣に立った。

「関係なくないよ。舞とは小さいころからご近所だし」

「いちいちうらやましい……団地っていいなあ、おい」

「や、狭い世界だぜ? プライバシーもあったもんじゃない」

(くそ……団地……産まれた時から同じ屋根の下にいるなんて、いぃいなあぁああっ)

 昌はうつむき、唇をかんだ。

「てめえ、舞さんと幼馴染だからっていい気になるなよ!」

 昌の手が、強くつよく、隆の足をつかむ。隆はなんとかふりほどき、

「いい気になるどころか……大変だけど」

 さっさと立ち去った隆の言葉を、昌はこのときまだ理解できていなかった。

 それから数日後。

 昌はまた告白した。

「舞さん! 好きです! 付き合ってください!」

「…………」

 舞は無言で目をそらした。

「どうしてダメなんですか?」

「…………」

 答えはなかった。

 しかし昌は諦めなかった。


 口さがないクラスメイトたちの間で、昌と舞のことはうわさになっていた。

(くそ、誰だよ。言いふらしてるのは。さてはあいつか)

 隆の突き放した言い方が、どこまでもいけすかない、嫌なヤツだと昌は思った。

 だいたい、舞にフラれた自分に真っ先にちょっかいをかけてきた。

 あんなやつ、席が隣だというだけで口をきくのももう、うんざりだ。

(舞さん、好きなヤツがいるんだろうか……?)

 くよくよしていても始まらないが、気になるものは気になる。

 うちひしがれて、昌はぽっかりと心に空いた穴を、むなしさと共にかみしめた。

 ひがみか、昌は毎日舞に笑顔を向けられている隆が許せない。

 乙女の理想、あこがれのカスミソウの花束をつき返した数日後、舞は隆を訪ねてクラスまで来た。

 入り口前で彼女が隆にさしだしたのは、ピンク色の封筒。

 昌は目をむいてその様子を見ていた。

 舞は眉をハの字にして隆に笑いかける。

「これ、読んで」

「え? ああ、ありがと」

「それじゃ」

 舞はきびすを返して行ってしまった。

 昌はただ、呆然としていた。

 暗い衝撃が走った。

「おい! 隆!」

 昌の声に振り向いた隆の顔に、怒りが浮かぶ。

「なんだ、昌」

「おまえ、舞さんに何の手紙もらったんだよ?」

「別に」

「別にってことはないだろう」

「おまえには関係ない」

「ある! オレがあると思ったらあるんだ! よこせ」

「断る」

「よこせよ!」

「うるさい!」

 隆は昌を突き飛ばした。

 昌はよろめき、尻餅をつく。

「いったあ! このバカ!」

「うるさい! もう来るな!」

 隆は昌に背を向け、走って行った。

 昌は追いかけた。

「待てよ!」

 肩に手をかけると、隆はビクッと震え、手を振り払う。

「触るな!」

「え? うわっ」

 昌は突き飛ばされ、廊下に倒れこんだ。

「いたた……なんでだよ! なんでそんなに怒るんだ?」

「うるさい!」

 隆は走り去って行く。

 昌は立ち上がって追いすがる。

「隆! おまえなんか大ッキライだ!」

「ボクだっておまえなんか大ッキライだ!」

 隆は振り返りざまに昌の胸ぐらをつかんで、拳をふるった。

 昌は殴られながらも、隆の目から涙がこぼれているのを見た。

「……ごめん……」

「…………」

 隆は何も言わず、逃げ去った。

 その日から、二人は一言も口をきかなかった。

 しかし、隆が手紙をもらっているのは事実だった。

 隆は舞が好きなんだと昌は思った。

 それでも昌は、あきらめようとしなかった。


「舞さん!」

「月岡くん、こんにちは」

「オレと付き合ってください!」

「はい、ありがとう」

「え?……あ、ええと、じゃあ、また」

「またね」

「はい!」

「あの、舞さん」

「なあに?」

「あ、いや、なんでもないです! 失礼します!」

「ふふ」

 昌は何度も告白しては、フラれていた。

 舞は昌に告白されても、決して昌を避けなかった。

 それはなぜなのか。

 昌は、舞が隆のことを好きなのではないかと思うようになっていた。

 隆に手紙を渡すとき、舞はいつも微笑んでいた。

 自分と話す時よりも、ずっと楽しそうに笑っていた。

(やっぱり……)

 昌は確信した。

「舞さん、隆のこと、好きなんですか?」

 ある日、思い切って聞いてみた。

 舞は困ったように、首を傾げてみせた。

「どうして、そう思うの?」

「え? いえ、ただ、なんとなく」

 舞は少し考えて、答えた。

「好きよ」

「…………」

 昌は息を飲む。

「そ、そうですか」

「うん。でも、それがどうかしたの?」

「いえ、あの……あの」

 舞は昌を見つめた。

「そう」

 舞はそれ以上何も聞かず、また隆に手紙を渡しに行った。

 昌は、またフラれて、ひどく落ち込んだ。

 舞が隆に好意を抱いていることを、昌は感じ取っていた。

 だが、舞の態度は変わらなかった。

「舞さん」

「なあに、月岡くん」

「あの、舞さんは、隆のことが好きなんですよね?」

「え? どうして?」

「いえ、ただ、なんとなく……、舞さんの気持ちはわかってるつもりです」

 舞はじっと昌の目を見ていた。

 そして、微笑んだ。

 昌はドキッとした。

 舞の笑顔は、今まで見た中でいちばんかわいかった。

 昌は照れてうつむく。

 舞は、そんな昌を見て、言った。

 それは、今までに聞いたことのないほど、優しい声音だった。

 まるで、慈母のようだと思った。

「月岡くん、あなたはすてきな人よ。わたし、あなたのこと、好きよ」

「…………」

 昌の顔が真っ赤になる。

「だから、月岡くんとは付き合えないわ」

「……はい」

「でも、友達にはなりたいわ」

「…………はい!」

「じゃあ、またね」

「はい! また!」

 舞は去っていった。

 昌は幸せに包まれていた。

 舞が自分を好きだと言ってくれた。

 それだけで、昌の心は満たされていた。

 しかし、そんな日々は長く続かなかった。

 ある日、昌は隆から呼び出しを受けた。

 放課後、誰もいない教室で、隆は昌に言った。

 その顔に、怒りが浮かんでいる。

「おまえ、どういうつもりなんだ?」

「え? どうって?」

「とぼけるなよ! おまえ、舞に何か吹き込んだだろう?」

「え? なんのことだよ?」

「とぼけんなよ! 知ってるんだよ! おまえが舞に何を言ってるかなんて!」

「…………」

「おまえみたいなヤツに、舞と親しくされる筋合いはない!」

 隆は、さしのばされた昌の手を振り払った。

 パンッという音が響く。

「最低だな!」

「…………」

「二度と近寄るんじゃねえぞ!」

 隆は吐き捨てるように言い残し、去って行った。

 昌はその日以来、なんとなく不登校ぎみになった。


「舞さん! オレと付き合ってください!」

「はい、ありがとう」

「え? ……あ、ええと、じゃあ、また」

「またね」

「あの、舞さん」

「なあに?」

「オレと付き合ってください!」

「はい、ありがとう」

「え? ……あ、ええと、じゃあ、また」

「またね」

「あの、舞さん」

「なあに?」

「好きです」

「そう、ありがとう」

「あの、今度、遊びに行きませんか?」

「ごめんなさい」

「あの、舞さん、明日、空いてますか?」

「予定があるの。ごめんなさい」

「あの、舞さん、好きです」

「そう、ありがとう」

 繰り返しくりかえし、昌は舞の夢を見た。

 話しかけるたびにときめき、心躍らせ――そして落胆する夢。それでも昌は舞に告白し続けた。

 舞はいつも、昌の告白を断る。

『月岡くんとは付き合えない』

 舞の口からその言葉を聞くたび、昌の胸は張り裂けそうになる。

『あなたはとてもいい人よ。わたし、あなたのこと、とても――』

 なぜ――? なぜ? なぜこんな夢を見るんだ。

 苦痛でしかない悪夢を。

 ――もうだめだ。

 耐えられなくなった昌は、その日、夜の繁華街をふらついていたところを補導された。

 ――あきらめられない。

 彼女を忘れられない。

 本当に唐突に――変わりたい、と昌は思った。

 この非情な世界が変わらないのなら、自分が変わるしかない――今までと違う自分に。

 どうすれば、そうなれるのか? 昌は考えた。

 そして、一つの結論に達した。

 ワルになればいい。


 遅刻してきた昌を見かけた隆、予鈴と共に教室から屋上への踊り場まで追いかけてきた。

「最近あやしいな。どうかしたんじゃないのか」

 どうかしたもなにも、舞にフラれた時から昌は荒れっぱなしだ。

 昨日はピアス穴が耳に五つも増えていたし、今日は頭髪をブリーチしてきた。

「るっせ」

 思いがけず、とがった声が踊り場に反響した。

「変なヤツ」

 観念したように昌は天井を仰ぐ。

「あぁ、なんでだろうな……オレには力がない。舞さんを守りたいのに、笑顔にしたいのに」

「えー? 舞はいつでも笑ってるよ。それに、昌は舞にとっくにフラれてるじゃん。そんなの、全部妄想だね」

 昌が知らないだけで、舞はいつも笑っている。

 チアリーダー・スピリッツの笑顔、明るさ、元気、思いやり、責任感、礼儀正しさを必死で守っているのだ。

 それは隆がそばにいるからではないか、昌は思ったが言うことははばかられた。

「あー、だけどさ、これは妄想じゃないよ。なんかガラの悪い人たちが、校門前でおまえを探してたって、誰か言ってた」

 ささやくような声で、隆が心配そうに言った。

「大丈夫なのかよ。妙なことに足、つっこんでないよね?」

「安心しろよ。てめーには関係ねぇ」

「舞に迷惑かけるなよな」

「わかってるんだよ!」

 昌は夜の街中で、本格的にヤバいグループに目をつけられていた。

 どうやら少々、悪目立ちしすぎたらしい。

 しかし、昌はそんなことにかまっていられなかった。

 ――力が欲しい。

 舞を守るだけの力が。

 ――どうしたらいい? どうやったら、強くなれる?  ――ケンカが強くなればいいのか?  ――わからない。

 だが、高三でデビューした昌に、刃物をオモチャ替わりにしている連中と渡り合える根性はさすがになかった。

 昌は迷っていた。

 どうすればいい? どうすれば? どうすれば? 答えが出ないまま、夜の街をうろつく日々が続いた。

 そんなある日のこと。


 ――どうしてこうなった? 昌は、ガラの悪い男たちに囲まれていた。

 目の前にはナイフを持った男が立っている。

「月岡 昌くぅん、俺たちと一緒に遊ぼうぜぇ」

 男はナイフを振りかざす。

 昌は怒りを覚えた。

「なんだぁ? その顔はぁ」

 男の声がワントーン低くなる。

「オレをバカにしてるのかぁ?」

「……」

「オレはなぁ、おまえみたいなクソガキが大嫌いなんだよぉ」

「……」

「おら! なんとか言えよ!」

 ナイフを見せつける。

「――舞さん」

 昌はつぶやく。

「舞さん、舞さん、舞さん」

「おい、聞いてんのか? 月岡 昌くんよぉ」

「舞さん、舞さん、舞さん」

「ああ? なんなんだ? こいつ」

 ナイフを昌に向かって突きつけた。

 昌は逃げようとしない。

 その様子に男は苛立った。

 ――ダメだ。

 このままでは自分は死んでしまう。

 この場から逃げる方法は一つしかない。

 ――死ぬ。

 殺される。

 ――もうだめだ。

 こんな時の一一〇番。

 しかし昌は携帯電話を持っていない。

 携帯していないのではなく、契約していないのだ。

「あぁ? なにやってんだぁ? てめーはぁ」

「……」

「聞こえてるのかぁ、この野郎!」

 ナイフが昌の頬をかすめた。

 昌の頬に血が流れる。

「あぁ……舞さん」

 昌は後も見ずに逃げ出した。

「待てよ、この野郎」

「逃がすかよ」

 男二人が昌を追いかける。

 昌は走る。

「あ、あれは」

 昌は曲がり角で立ち止まる。

 昌の目に映ったのは、回転する赤い光だった。

「マッポだ!」

 散り散りに逃げる男たち。

 前方から進み出てきたのは真紅のトサカと唇ピアスの男だった。

「よく逃げた」

「……あんたは?」

「おかげでリーダーが助かった。手柄だぜ、月岡 昌」

 グループ内の抗争で深手を負ったリーダーが、男の後ろに倒れていた。

「なんでオレの名を……」

「同じ高校じゃねえか。まっ、オレはろくに顔を出してやしねえけどな」



 男は、深海沢ふかみざわ 勝利しょうりといった。

 深海沢は、その日からなにかと昌を引き立てるようになったのだ。

「えっ、同じ高校……だった、んですか?」

 敬語になってしまう昌は、自分が小物なのを自覚していた。

「そうだよ。知らなかったのか? まあ、俺はおまえのことは知ってたぜ」

「そ、そうなんですか」

「だって、おまえ有名人だしよ」

「い、いや、そんなことないですよ」

「あるよ。おまえ、この辺で有名なヤンキーの店でピアス穴いっぺんに五個開けたってな」

 昌はささやかな抵抗を褒められた気がして、深海沢に気を許した。

「おぉ、九条 舞? 一年のクラスでは一緒だったっけな。なんかおとなしくって。どんな顔だったか、憶えてねえや」

「えっ、あんなに目立つ人なのに?」

「悪いがヤンキーは女なんざよりどりみどりよ。なんだったら紹介するぜぇ」

「オレは一生に一人でいいんです。好きな女、幸せにするのが夢なんで。甘いですかね」

「ま、そういうのもいいんじゃねえの?」

 アウトローにも事情はさまざまだ。

 深海沢は当初トップエリートとして入学したらしいが、人間関係のいざこざで挫折したらしい。

 昌も施設には遅くまで帰っていない。

 残り少ない日々を、舞の顔見たさに学校へ行っている。

 そんな彼に深海沢、

「今どきのワルは、勉強してるんだよ。長くこの世界にいると、ハッタリがきかなくなる時が来る。成績が悪くないなら大学へは行っとけ。どのみちオレも行くしよ」

 しかし、昌には自信が欠けていた。

「今どきネンショーよりハクがつくだろ。うまくすれば幹部になれる。必要なのはココさ」

 深海沢はこめかみを示す。

「だって、オレ、集団で暴力は苦手で……」

「どうでもいいこと考えんな。その慎重さはいける。なれよ、グループのブレインに」

 そうまで言われると、昌の中に燃えるものが一握りわいてきた。

「これからのグループには、おまえみたいなのが必要になる。な?」

「そ……っすかね」

 深海沢の言葉は心地よかった。

 なにより、自分を否定されないことがうれしかった。

 他人の言うとおりにするのは業腹だが、そうまでしてみこんでくれるんならと、昌はバイト代で新聞を買った。

 経済から株の動きまで見て、一面記事は暗記する。

 世界情勢に詳しくなってきたら、深海沢がテストする。

 昌はこの新しいゲームにはまった。

 金の回るところが、次第にわかってきた。

 裏の世界を掌握するんだと、冷徹な計算が働くようになってきた。

 一方で、表の顔も維持し続けた。

 あるとき。

「おまえ、見込みがあるぜ。将来、弁護士にならねえか?」

 深海沢の言葉に、昌ははっとした。

「法曹界にツテがあれば、オレらもやりやすいからな」

 それはやりたい放題だ。

「そんなヒーローみたいなの、向きませんよ」

「気が向いたらでいい。スーパーヒーローとして、裏でオレらを助けてくれよ」

「そ……っすね」

 気が向いたらか。

 昌は笑みを浮かべた。

 上を目指す目的がすりかわり、理由が悪を助けることになった。

「気が向いたらですよ」

 今や昌は犯罪者予備軍になろうとしていた。


 九月の残暑、舞に変化が起きていた。

 新学期から妙に手足がやせこけてきて、日中もふらふらしている。

 夏休み中、隆が病院につきそっていたという噂が立ち、昌は震撼した。

 そこまで悪い状況なのか、命に危険はないのか、心配だった。

 今さら舞にしがみついてもどうしようもない。

 だが。

 隆を問い詰める昌。

 隆は肝心なところを答えようとしない。

「舞は家でいろいろ大変なんだよ。舞とやっていくには生半可な考えじゃ不可能なんだ」

「いろいろってなんだ!?」

「舞が言わないのに、ボクがなにか言えるわけないよ」

「言えよっ! 原因は親か、きょうだいか? ああんっ」

 隆はガンとして口を割らない。

 いらだった昌は隆を殴り、前歯を折るけがをさせてしまった。

 しまったと思った。

 ショックで頭が働かない。

 深海沢には、経歴に傷をつけると後々動きにくくなるときつく止められていたのに。

 初めて人を殴り、昌は停学処分を受けた。

 さらに悪いことに、殴った現場を舞に見られてしまった。

 舞は隆にとりすがり、弱々しく昌を責めた。

 だが、昌にはそれは遠い世界の事に思えた。

(何をしているんだ、オレは……)

 昌はこれまでの自分を振り返る。

(ただ舞さんが好きだったのに、こんなことやっていても振り向いちゃくれないとわかっていたのに。オレはどこでどう間違えてこんなところへ来ちまったんだろう。おまけに舞さんの大切な幼馴染みまで傷つけて。たとえ舞さんが隆を好きでもかまわない。戦えばいいだけだ。けど、こんなの戦う以前の問題じゃないか。もう、戻れない……)

 気づくと昌は夜のネオン街のビルの屋上で、フェンスを越えようとしていた。

 この世界から逃げ出さねば。

 そればかりを考えていた。

 深海沢が駆け付け、煙草を勧めてきた。

 しかし、どうでもよかった。

 暴力にまかせて人を傷つけてしまった自分が嫌になっていた。

 それだけはいとって、自分を支えてきたのに。

 昌は己の血を呪った。

 なけなしの自尊心がガラガラと音を立て崩れていく。

 彼の中に流れる血の半分は、父の暴力を引き継ぎ、もう半分は彼を守って死んだ母のものだった。

「馬鹿が!」

 深海沢が手痛い仕置きをしてきたが、昌はもはやこの世にとどまる理由が見つけられない。

 何度も張られ、ふらつく頭で昌は言う。

「オレ、グループぬけていっすか?」

 生ぬるい希望は必要なかった。

 涙も出てこない。

 自分は変わった。

 確かに闇の世界に染まっていた。

 しかし、舞にあんな顔をさせるつもりではなかった。

 変わらぬ自分のちっぽけさに、昌はあえいでいた。

 陸に上がった魚のように苦しかった。

(舞さん、舞さん、舞さん……)

 彼女を傷つける気なんてなかったというのに。

 傷つけたくなかったのに!


「おまえならリーダーは幹部にしてやると言ってるんだ。女がなんだ。ちんけな悩みだ」

 深海沢は昌の肩を抱き、なぐさめるように言ったけれど、昌はもう言葉が出てこない。

 乾いた心が痛かった。


 停学中、うだうだと悩み続けていた昌だったが、学校では全国模試で隆がトップに躍り出た。

 停学あけ、入院が決まったという舞に、隆は熱をこめ、

「舞は、ボクが助けるからね」

「隆ちゃん……あいつらをどうにかして。お願い」

 などと保健室で言い交わしているのを見てしまった。

(あいつら? あいつらってなんだ。舞さんを苦しめているヤツらがいるのか? そうなんだな?)

 ベッドの手前に落ちていた手紙には、舞から隆への痛々しいSOSのメッセージが書かれていた。

(そうか、舞さん。舞さんも……)

 彼は我が身を顧みた。

 このまま悪の世界に居続ければ、舞とは別世界に棲むことになる。

 もう、舞には逢えまい。

 その姿を見ることも、叶わなくなるのだ。


「深海沢さん、オレは抜けたいんです。なんと言われようと」

 深海沢は止めたが、昌の思いは覆らなかった。

 グループを抜けるには、通過儀礼がある。

 互いに任意の的を選び、体のどこかに捧げ持つ。

 相手がそれを射抜けば勝負は決まる。

 飛び道具を投げて、的を外した方が負けだ。

 昌はダーツの的に目を向けると、それを両手で掲げもった。

「楽勝」

 深海沢はナイフでもって難なく的を射抜いた。

「三点。おまえの番だ」

 深海沢はアメリカンチェリーを指につまみとった。

「的を外せば、おまえの負けだ」

 そういって深海沢はその小さな的を心臓の位置に構えた。

「そ、そんなところ……」

「当たれば十点だ。おじけづいたか?」

「そ、そんなんじゃねぇけど、オレが外したら……あんたは」

「そうなったらそうなったでいいじゃねぇか。お前は人を傷つけられるこっち側の人間だ。もう戻れやしねぇよ」

 飛び道具は自由。

 さくらんぼが的では、刃物は怖い。

 相手の体に当てれば、即敗北。

 しかし、深海沢は最初から昌にそんな度胸はないと思っている。

 昌を揺さぶって動揺させ、賭けを降りさせようとしたのだ。

 しかし、昌はそうしなかった。

 昌は青ざめながらダーツを手に取る。

 興味深そうに口笛を吹く連中の声が、わき腹を切って裂く。

 ひやりとした。

 いわれのない暴力ではない。

 これは勝負――賭けなのだ。

 昌は頭の中が真っ白になりつつも、勝算をはじき出す。

 湿る手のひらでダーツをそっと握った。

 深海沢から大きく距離をとった。

(風に向かって飛べ!)

 昌は大きく振りかぶった。

 それは的の中心を射て、地に突き刺さった――。

 くしゃりとも音はしなかった。

 深海沢は空になった指先をぺろりとなめる。

 グループの連中はおどろいた。

「十点、満点だよ……」 

 深海沢を傷つけることなしに勝負を決めたのだ。

 未だかつてこの深海沢の挑戦を受けたものもいなければ、アメリカンチェリーを射抜いたものもない。

 こんなものに正体はなかった。

 投げる方が怖気づいたら、終了だ。

 選んだ的が小さければ小さいほどに、相手に言うことをきかせることができるのだ。

 深海沢の独り勝ちは確定だったというのに。

「おみごと」

「深海沢さん、なんでこんな……」

「わかってねえな。おまえは自分を」

「そんなことを言ったって、オレはあんたを殺してたかもしれないのに!」

「そういう優しいやつだから、賭けてみたくなったんだよ。オレもな……」

 深海沢が足元に突き刺さった、ダーツを引き抜いてしげしげと見つめる。

 放物線を描いたダーツの針は、深海沢の遥か頭上から的を射抜いた。

 産まれて初めての賭けに、昌は勝ったのだ。

 施設の数少ない楽しみにダーツがあった。

 それが勝利につながったのは奇跡だった。

「さようなら。深海沢さん」

 もう、逢うこともないだろう。


 昌は許しを乞うて、隆から舞の入院先と面会時間を教えてもらった。

「おまえ、変わったな」

 隆が昌の面構えを見て言った。

 折れた前歯は治療したらしい。

 舞に、もう一度伝えねばならないことがある。

「負けねえ。オレはおまえにだけは勝たなくちゃいけねえんだ!」

 昌は拳をふるわせながら、隆の前に立ち尽くした。

 決意表明。

「どうやら妄想じゃなかったんだな、昌」

 隆は昌の真剣な想いに応え、これまでのことを許そうと思った。

「やってみなよ。ボクだって負けない。あの地獄から舞を救えるもんなら、やってみるがいいさ」

「おお、やってやる……!」

「負けないからね!」

 昌はこれから舞に逢いに行く――余計なものは何も持たずに。


「舞さん……舞さん――!!!」

 心ひとつだけで。


                       -END-

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

スティグマ 水木レナ @rena-rena

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ